氷花

20.恋に潜む影

「真中美緒を俺に下さい」
 透き通るような少年の声が、もう表情も見えないほど暗くなっている保健室内に響いた。
「嫌だと言ったら?」
 煙草の煙を吐きながら、ゆっくりとそう呟く。目の前にいる相手を見ることもなく、ただ煙の流れを追いかける。話にならないくだらない会話に、薫は呆れたように言葉を返すだけだった。
「それは、承知で話していますから……」
「ふーん。承知ねえ」
「それでもお願いしています」
 カレの切れた唇に目をやる。形の良い薄い唇に、まだ新しい傷跡。これが何の傷なのか、聞かずともすでにわかっていた。
「俺にそんなことを言うなんて、筋違いもいいところだ。元々、あいつは俺のモノじゃない」
「今さら隠したって無駄です。全て知ってますから……」
「知ってるって何を?」
「先生と、真中が付き合っていることをです」
「だから?」
「だから……って。それだけで充分じゃないですか」
「俺と真中が付き合ってるから何? それとおまえと、何の関係があるわけ?」
 煙草の吸殻を灰皿に押し付けながら、挑むような視線でハルカを見た。いつもの校医ではない男の目に、ハルカは一瞬息を呑む。異様とも言える威圧感に、ここにいることを窮屈に感じた。
「真中とおまえがどうこうなるのにどうして俺の許可がいるんだ」
「だって……美緒は、あなたのモノだから」
「さっきも言っただろ。美緒は俺のものじゃないって」
 ハルカが、真中から美緒という呼び方に変わったのに反応して、薫も遠慮なく名を呼んだ。こういう話をしているのだから、もう建て前など不必要だろう。
「まだ否定するんですか」
「大体、美緒のことをモノ扱いするのはやめてくれないか。あいつは誰の所有物でもないんだ。もちろん俺のモノでもない。一人の女だろう。一人の人間だ。誰も縛れはしないんだから」
「そんなの、キレイ事です。好きなら自分のモノにしたいと思うでしょう?」
「悪いが、俺はそんな安易な考え方は嫌いなんだ。あいつはあいつの意志で俺のそばにいるし、俺だって俺の意志であいつの側にいたいと思う。別に、契約を交わしているわけじゃない」
 美緒のことをモノ扱いするハルカに腹が立った。大体、こんな会話をしていること自体無意味なのだ。一番大切なのは、美緒の気持ちだろう。それを、ここで二人で話し合ったところで、どうなるわけでもないのだから……。
「美緒は、俺の側にいてくれると、言ってくれました」
「それで?」
「だから……あなたにはもう……」
「別れろって?」
「そういうことです」
「美緒が、俺と別れると言ったのか?」
「それは……」
 それまで攻めの姿勢だったハルカが、薫の質問にたじろいだ。
 ハルカの言わんとしていることはわかる。美緒のことを好きだという気持ちに、もう拍車がかかっているのだろう。恋心なんてそんなものだ。自分の思い通りになんてけしてならず、時に理不尽な考えさせ呼び起こしてしまう。今こうやって薫に対し意見していることも、客観的に見ればおかしなことなのに、でも同じ人を愛する身として、カレの気持ちも理解していた。
「悪いが、俺は美緒と別れる気はない」
 キッパリと言い放つ。美緒のためならどんな気持ちをも曲げてみせよう。だが、今ここでカレに折れることは、何もプラスにならない気がした。
「自惚れるなよ、香月。おまえに言われたからといって、簡単に引き下がるほど、俺とあいつとの関係は浅くない」
「それは……わかっています」
「いや、おまえはわかってないよ。わかってないからそんなことが言えるんだ。だから、美緒の気持ちも考えずにそんなことが言えるんだろう」
「え……?」
 美緒の気持ち。そう言われて、咄嗟に疑念が生まれた。薫の言わんとしていることを聞こうと、彼を真剣に見つめ返す。
「今一番大事なのは、俺達の気持ちじゃなく、あいつの気持ちだ。ここでコソコソと美緒を取り合ったところで、何の意味もない。あいつを傷つけるだけだ」
「そう……ですね」
「それに、憶測でものを言わせてもらうが、美緒がオマエに対し、恋愛感情を抱いているとは思えない」
 ハルカ自身も身を持って感じている事実をズバリと言われて、全く言葉が返せなかった。
 充分に承知している。彼女が自分に対して抱いている感情は、所詮友情にすぎないということに。
「美緒は優しいから、おまえのことを放っておくなんてできないだろう。自分のできる精一杯で、オマエを救おうとする。今頃はきっと、俺に対する罪悪感でいっぱいだろうな」
 薫は、さっきの怯えるような美緒の瞳を思い出していた。罪悪感を一杯に映し出した大きな瞳。好きなのに好きと言えない臆病な瞳。見ただけでわかった。あの気持ちを救えるのは、自分以外いないだろう。
「優しすぎるってのも罪だよな。俺は別に構わないと言ったんだ。おまえのことをいくら心配しようと、いくらそばにいようと」
「え……?」
「おまえのそばにいたからと言って、俺の気持ちは何一つ変わらない。大体、そんなのは子供じみた嫉妬だよ。でも、あいつはバカだから、俺の言葉なんてちっとも信用しない」
 何度好きだと伝えても、何度大丈夫だと伝えても、けしてそれを全て信用しない小さく優しい心。本当は、いつも薫の気持ちを確認していたいくせに、天邪鬼な心が、それを拒否していた。そんな愛しい彼女を思い出して、苦笑いを浮かべる。恋愛下手の彼女を持ったのが運の尽きだと、心の中で思いながら。
「俺は、美緒のことを心の底から好きだから、全部わかるんだよ。あいつが、おまえに抱いてる感情も、俺への罪悪感も。全部ね」
「じゃあなんで、そんな涼しい顔してられるんですか?」
「あいつは、俺以外の男を好きにならない自信があるから」
 ニヤリと企むような笑顔を浮かべる。言葉には、確固たる自信があった。その意志の強さに、男である自分さえも惹かれる何かをハルカは感じた気がした。
「ただ、それをわからせるのにいつも苦労してるけどね。いちいち全部教えてやらないといけない厄介な子猫だよ」
「じゃあ、あなたは俺と美緒が一緒にいることを何とも思わないんですか?」
「もしそれが、俺以外への男への恋心なら、今頃オマエを殺してるよ」
 さっきまで、ゆっくりと笑っていた優しい目が、再び鋭い眼光を取り戻す。まるで視線で切られるような威圧感に、ハルカは再びたじろいだ。その言葉に、本気を感じたのだ。氷のような、冷たい鋭さを持つ感情を。
「その唇。美緒に噛まれたんだろう」
「え……?」
「あいつは俺以外の男に簡単に体を許さない。それが、何よりの証拠だ」
 再び煙草を1本取り、火をつける。大きく息を吸い、煙をゆっくりと吐いた。
 こんなことを言うのは酷かもしれない。けれど、男として会話をしている以上、校医としての立場を捨て、言わざるをえなかった。
「悪いが、美緒にとってのおまえは、ただの友達だ。それ以上には絶対になれない。おまえが俺に勝てることはないよ」
「そんなこと……言われなくてもわかってます」
「おまえが寂しさをかざし続ける限り、あいつはオマエから離れることはないだろう。でもよく考えるんだな。それが自分にとっていいことなのか、悪いことなのか」
「…………」
「所詮同情だ。本当の愛情を、はき違えるなよ」
 冷ややかに言い放った。情などなかった。今の彼に、そんな同情は必要ない。
「何を言われようと、俺は美緒をおまえに渡す気はないから」
 それは、初めて見せた薫の本音だった。何があっても、美緒を渡す気はない。彼女のそばにいるのは自分でなくてはいけないのだ。自分のそばにいるのが、彼女でなくてはならないように。
 所有物ではない。いつだって、二人一緒にいて意味がある。たとえどんな遠回りをしても、誤解を生んでも、結局最後の一緒にいられるのは美緒だけだと心の底から信じていた。だからどんなことをも許そう。友情の枠を通り越してハルカを心配する、そんな優しすぎる美緒の心をも。
「たいした……自信ですね……」
「自分に自信がなきゃ、女一人愛し抜くなんてできないと思うけど?」
「でも、あなたは忘れてる。所詮、校医と生徒だ……」
「だから?」
「いくら好きでも、バレたら終わりなんじゃないですか。あなたはいいかもしれない。でも美緒は……」
 二人の恋愛は、いつも崖っぷちに立たされているも同じ。薫が美緒のことを本気で思っていることは充分にわかった。美緒が彼に惹かれる理由も……。
 ただ、ハルカも美緒を愛しく思っているのだ。同じ立場として、愛する人の幸せを願うのは至極当然のこと。この人には適わないと思っている反面、薫に対する猜疑心も抱いていた。薫と美緒との関係は、ハルカの中に大きな不安要素を残している。
「バレた時傷つくのは美緒だ。先生はそれを考えた事がありますか」
「それは、おまえには関係のないことだ」
「いえ、関係ありますよ。俺だって、彼女の傷つく姿を見たくないです」
「おまえに心配してもらわなくても、俺は美緒を傷つけたりしない」
「まだバレてないから言えることじゃないんですか」
「何?」
 ハルカの物言いが気になって、彼の様子を窺い見る。まさか、とは思ったが、嫌な予感がした。
「ばらす……そう言いたいのか?」
「だとしたら、どうしますか」
「好きにすればいい。ばらしたければ、ばらせばいいじゃないか」
「なっ……! やっぱりあなたは、美緒のことを考えていないじゃないか」
「考えてないのはどっちだろうな」
「あなたは、医者としては素晴らしい人だ。だけど、美緒の相手としては、相応しいとは思わない」
「そんなことはおまえに言われる筋合いじゃない」
「逃げるんですか」
「逃げてるのはどっちだ。いつまでも父親の影から逃げてばかりのおまえにそんなことを言われたくはないな」
「あなただって! あなただって、引き抜きの話をうやむやにして……」
「おまえと一緒にしないでくれ。俺には俺の考えがある」
「そうですか。じゃあ、俺もあなたの気持ちをもう考えはしませんから」
「最初から俺の気持ちなど関係ないと言ってるじゃないか。ただ覚えておけ。美緒を傷つけるようなことがあれば、その時は容赦しない」
 ぶっきらぼうに、煙草を灰皿に押し付けた。二人とも、内心、腸が煮えくり返る思いだった。
 たかが一人の女。されど、たった一人の女。どちらも、彼女を求める想いの丈は同じ。
「今のうちにせいぜい美緒が側にいる幸せをかみ締めておくことだな」
「あなたに返す気はないですから……」
「それは、美緒が決めることだ。それに俺は、最初からおまえに美緒をくれてやる気はない。今だけだと肝に命じておけ」
 ハルカの姿を情のない冷ややかな眼差しで一瞥した後、立ち上がりドアの方まで歩み寄る。振り返り、最後に一言だけを、カレに残した。
「だが、覚えておくんだな。美緒を側に置いて一番悲しい思いをするのはオマエだ。いつか、美緒と一緒にいることを後悔する」
 その言葉の真意は何だったのだろう。言われていることの意味がわからず、ハルカはただ考えこむしかなかった。パタンと締められるドアに、一人暗い保健室に置き去りにされる。薫の残した最後の言葉だけが、何度も頭の中で繰り返された。
 ――美緒と一緒にいることを後悔する。
 薄笑みを浮かべた。そんなことはあるはずがないと、何度も何度も自分に言い聞かせた。


「櫻井です。この間の件、お受けします」
 電話の向こうで、嬉々とする粘着質な声が聞こえる。大声をあげ、薫の言葉を喜んでいる様子だった。
『じゃあ、行っていただけるんですな?』
「ええ。ずっと逃げているわけにはいきませんから」
『良かった。これで私の肩の荷も一つ下りますよ』
「では、詳細はまた後ほど」
 ピッという電子音と共に切れた携帯電話。ニヤリと、いつもの企むような笑顔を浮かべた。いつまでも逃げるだけの少年との違いを、身を持って証明するにはコレしかないと、薫の中である決心が固まった。くだらない友情ゴッコは、これで終わりだと……。

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