氷花

3.優しい思惑

「何話してたんだ? こんなところで二人して」
 コソコソと図書室の隅に隠れて同級生の悪口を言った後、二人そろってその場を出ると、ここからは死角になる右奥の方から声をかけられた。どうやら本棚の影に隠れていて、自分たちの会話を聞いていたらしいと察した時、ばつが悪いと顔をしかめたが、その人物が誰かを確認すると、途端に二人の顔も笑顔に変わった。
「櫻井先生じゃん。先生こそ何してんの? こんなところで」
「びっくりしたー。誰かと思ったよ」
 二人揃って腕組みをして立っていた薫へと駆け寄る。側までたどり着くと、二人が薫を囲むように両側に立ち、腕を絡めた。
「俺はまじめな校医様だからな、図書室に調べ物だよ」
「うっそー。どこがマジメよ。いつも女の子と遊んでるくせに」
「おまえたちが勝手に来るだけだろ?」
「まあ、それもそうだけどね」
「俺より、おまえたちこそ、この場が不似合いじゃないか」
 女の子二人は、美緒のクラスメートだった。時々保健室に来ては、ワイワイと騒いで帰っていく二人だ。美緒とは正反対のタイプといえよう。自分の感情を隠すことなく、謙虚なところもなく、積極的なタイプ。よくよく考えれば、この二人の方が美緒よりも年齢相応かもしれない。はっきりと言えることといえば、クラスメートでありながら、美緒とはあまり交流がない、ということだった。
「べつにたまたまだよねー。本借りに来たわけじゃないけどさ」
「教室とか廊下ってうるさいんだよ。ここだったら、多少大きな声で話したって気づかれないし、誰にも聞かれないし」
 確かに、誰もくることのないような、つまらない本のコーナーだな、と薫は思った。
 しかし、誰にも話を聞かれないというのはどうだろう。少なくとも、薫は耳にしているし、そして薫以外誰も気づいていないだろうが、香月ハルカも聞いている。美緒に聞かせないように、必死で守っていたことも知っていた。美緒が来るかもしれないと思い、薫も図書室に向かったのだ。そこで美緒を探している時、たまたまハルカと美緒が二人一緒にいるところを見つけた。悪口を聞いたのも、様子を伺っているときだった。
「聞かれちゃ困る話をしてたのか?」
「べ、べつにー」
「女の子があまり人の悪口言うもんじゃないぞ」
「言ってないよ……」
 女の子二人が、ちょっとしおらしい口調になる。
「本当か? ならいいけど、女の子が悪口言うと、せっかく可愛い唇も、汚い言葉のせいで魅力も何もなくなっちゃうからな」
「なにそれ。そんなの唇見てわかるの?」
 てっきり責められるものだと思っていた矢先、返ってきた言葉は薫らしいもので、思わず安心で笑みがこぼれる。
「わかるさ。だから、おまえたちが今悪口言ってたかどうかっていうのもお見通しってわけ」
「ええ……。でもさあ、悪口ってそう悪いもの?」
「言われる方も悪いじゃんねー」
「本当にそう思うか?」
 美緒と交流もないのに、悪口を言われる筋合いもないってものである。
「だってムカツクんだもん、真中さ……あっ!」
 思わず悪口の対象人物の名を口に出して、女の子がアッと息を呑んだ。
「ほお。真中の悪口だったわけね」
「ち、違うよ。間違っただけ」
「誰が相手にしろ、聞こえるようなところでは、言うな」
 言うな、と言葉にした時、きつい眼差しが女の子を捉えた。思わず、ゾクッと背筋に恐怖感が駆け上がる。凍りつく、と言った方が正しい表現かもしれない。薫がこんなに怖い表情を見せるのは、初めてだった。普段笑顔を絶やさない分、こんなにも恐ろしいものだなんて、思ってもいなかった。
「ご、ごめんなさい……」
「まあ、いいさ」
「ごめんなさい……」
 素直に謝る女子生徒に、一瞬だったが恐ろしい表情は消え、苦笑に変わった。ヨシヨシ、とするように、女子生徒の頭に手を乗せる。女の子は安心したのか、再び笑顔に戻った。
「もうすぐ昼休みも終わりだから、そろそろ教室戻れよ」
 言い終わる前に、薫はその場を離れようとした。その校医の背に、女の子が声をかける。
「うん。放課後先生のところへ行ってもいい?」
「だめー」
 歩む足は止めず、振り返りながら答えた。顔にはまだ苦笑を浮かべたままだった。
 美緒のこととは言え、ちょっと大人気なかっただろうか。普段だったら、悪口なんて聞き流しているのに、ついつい口を出してしまった。美緒のこととなると、自制心がきかないな……。そう思う故の、苦笑だった。


 六時間目の授業が始まる前に、美緒が保健室へとやってきたのは、思いもかけないハプニングだった。とは言っても、薫に会いたいがために授業をさぼってきた、というのは美緒に関しては考えられず、問うてみると、やはり体調が優れない、ということだった。
「大丈夫か?」
「ちょっと、眩暈がひどくて……」
「貧血だな。おまえは元々貧血気味だから」
 女の子の日だから、余計貧血がひどくて、なんてことは、口が裂けても薫には言えなかった。体調が悪いながらも、久しぶりに見る愛する人の顔は、泣きそうになるほど愛しい。昨日会えなかった分、会いたかったという思いが爆発しそうになっていた。こんな風に体調が悪くなければどれだけ良かっただろうと思う。心配そうに見つめる薫の顔を見ずにすんだのだから。
「昨日、図書室にいけなくてごめんな。急病の生徒が来て、どうしても時間に間に合わなかったんだ」
「わかってます……」
 弱々しく微笑む美緒の髪を、ゆっくりと指に絡ませた。本当にごめん、と心の中で呟きながら。
「昨日雨が降っただろ? 濡れずに帰れたか?」
「あ、はい。クラスメートが傘を貸してくれたから」
 香月のことだな、と頭の中で思い浮かべつつ、あの時の光景は美緒が傘を忘れた故のことだったのだと解釈する。なぜあの時間に二人が居合わせたのか、なんてことはあえて考えようとはしなかった。
「美緒……」
「はい?」
「会いたかったよ」
「……うん」
 誰もいない保健室。ベッドの上に座る美緒を、薫が優しく抱き締めた。抱き締める以外に、言葉はいらなかった。離れていた時は、抱き締めて伝わる体温と匂いで、充分に満たされていた。結局、言葉だけでは伝えられない思いも、触れ合うことで伝わるんだ、と感じるしかなかった。
 どれだけの時間、抱き締めあっていただろう。抱き締めても抱き締めても足りない。しかし、病人をこのままにしておいてもいけない、と思い、そっと腕を離した。
「ん? どうした?」
 腕を離し、美緒の表情を窺うと、何か物足りないような表情を見せていた。
「なんでもないです……」
 抱き締めるだけじゃ足りないと思っていたのは美緒も同じで、思わず『キスは?』なんて思ってしまったことは、恥ずかしくて言えなかった。離れる体温に名残惜しさを感じ、思わず薫の白衣を掴む。そんな美緒の態度を見て、薫も気づかないわけはなかった。
「足りない?」
「べつに……」
「キスしてほしい?」
「そ、そんなこと言ってないですから」
 ベッドの上に座り、自分よりも目線の高い美緒に、パイプイスに座ったままの薫は、下から見上げるように問いかけた。その目には、いつもの悪戯っぽい考えが見え隠れする。居た堪れなくなって、美緒はふいっと視線を外した。思っていたことを見透かされて、顔が赤くなっているのがわかった。
「たまにはおまえからしてよ」
「え?」
「おまえから」
 言われている意味が全くわからなかった。
 しかし、ニヤリとほくそえむ薫の様子を見て、理解せずにはいられなくなる。美緒からキスしろというのだった。いつもは、強引と言うほど唇を奪っていく薫に、美緒の意思でキスをしろ、と。
「む、無理です!」
「別にしたくないならしなくてもいいよ」
「じゃあ、したくないからしません」
「ふーん。まあ。俺は待つけどね」
 そう言って、薫は黙って美緒を見つめた。
 なぜ、こんなときに限って、そんな色っぽい目をするのだろう。本当に男の人だろうかと思うほど、薫はいつも色っぽい。そんな表情をいつもではなく、時折見せるから、余計にドキッとさせられる場面が多かった。
 見つめられるだけで体がのぼせてくる。自然と引き寄せられるように、美緒の手が薫の首筋に触れた。ゆっくりと顔を近づけると、薫は美緒の唇を見つめながら、そっと瞳を閉じた。恥ずかしさのあまり最初から目を閉じていた美緒の唇が触れたかと思った瞬間、あまりに懐かしい感触に、このまま溶けてしまうんじゃないかという錯覚に捕らわれる。
 隠すように揺れるカーテンが、二人の影を重なり合わせた。


「失礼します」
 六時間目が終わり、補習の七時間目が終わった後、香月ハルカが保健室へとやってきた。右手には、美緒の荷物と思われるものを持って。鞄についている、愛らしいマスコットに薫は覚えがあった。
「真中の迎えか?」
「あ、はい。藤井が持っていけって言うんで」
「藤井のやつ……。自分が持っていくのが面倒くさいから人に頼んだのか」
 もしくは、香月と美緒をくっつけようとしてるのか? と思いながら、デスクでしていたパソコン作業をやめ、ハルカを迎え入れた。とりあえず、座るようにと、患者用の椅子を勧めた。
 ここへ、ハルカがやってきたことは、薫にとってそう不思議なことではなかった。初めてまともに見る香月ハルカは、遠くから見たときよりも幼い顔つきをしていた。身長は自分と同じくらい長身である故、もっと大人っぽいイメージを持っていたのだが、愛らしいともいえる整った顔立ちに、女性のような繊細な美しさを感じさせた。しかし、さっきから話している感じも、浮かべる表情も、顔には似つかわしくない愛想のなさを感じさせずにはいられなかった。
「真中。迎えが来たんだけど、どうだ? 帰れそうか?」
 美緒のいる窓際のベッドのカーテンをそっとあけ、耳元で優しく声をかけた。
 少し顔をしかめた後、美緒はゆっくりと目を開けた。
「迎え……ですか?」
「ああ。香月が荷物を持って迎えにきてる」
「香月君が……?」
「藤井のやつが、頼んだらしい」
 香月という言葉をきいてびっくりしたのだろう。美緒は、すぐさま目を覚まし、そして起き上がった。どうやら、貧血の方はだいぶ良くなったのだろう、と、顔色を見てそう思った。
「ごめんね。荷物持ってこさせちゃって」
「べつに。どうせ暇だったし」
「すぐ帰る用意するから。あ、荷物はそこに置いといていいよ。重いでしょ?」
「ゆっくりしろよ」
「本当にごめんね。わざわざ来させちゃって」
「いいから、無理すんなって」
 ベッドから起き上がり、カーテンを開けハルカの姿を見るなり、美緒が急いで支度を始めた。よほど申し訳ないと感じたのだろう。美緒の言葉の端々から、焦りが感じ取れた。
「香月」
「あ、はい。なんですか?」
 薫に呼ばれて、ハルカは咄嗟に返事をした。
「ありがとうな」
 薫は一言、そう口にした。
 美緒に悪口を聞かせないように守ってくれたこと。濡れないように傘を貸してくれたこと。自分には出来なかった分、素直に感謝していた。どんな形であれ、美緒が傷つかずにすんだことに一番安堵していたのは、薫自身だった。
「何がですか?」
「いや、真中の体調がまだ優れないようだから、一人で帰すのは心配だったんだ」
「ああ」
「良かったら一緒に帰ってやってくれ」
「はい」
 まるで自分のもののように話すな、とハルカはふと思ったが、校医の立場としてなら当然のことかと納得した。美緒を見る薫の目はとても優しく、この人はこんな優しい目をする人なんだと、感じた。初めて話す校医は、思った以上に美しく、その美しさから妖艶な雰囲気を醸し出していた。普段、軽い感じがするせいで、そんな風に思ったことは意外だった。しかし感じずにはいられなかった。この男には、見た目とは反した、底知れない優しさと強さがあることに。


「じゃあ先生、ありがとうございました」
「気をつけて帰れよ」
「はい……じゃあ」
 丁寧にお礼のお辞儀をして、美緒とハルカは保健室を去った。ドアを開け、ハルカを先に促す姿を見た時、やっぱり美緒だな、と薫は不思議に関心した。本当は自分が美緒を家まで送り届けたかったが、普通の女子高生ならこちらの方が自然なのかもしれない。そう思いつつ、さて仕事に戻ろうとデスクに戻った時、廊下の遠くから美緒の声が聞こえた。
『ありがとう、ハルカ』
 ――ハルカ
 図書室でも聞いた覚えのあるこの名に、なぜか不安を感じた。
 ただ名を呼んだだけだ。なのに、拭いきれないほどの、暗雲のような不安を、消し去ることができなかった。

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