氷花

22.絶対的彼

「本当に行くの?」
「行くよ」
「あなたって、本当にいつも行動が急ね。ちゃんと考えてるの?」
「酷い言われようだな。ちゃんと考えてるよ」
 苦笑しながら、デスクの上にある書類たちを片付けていく。とりあえず必要なものと不必要なものとを分けて、次にここに来る人間が仕事がしやすいようにと、気を配っていた。後ろに立って、腕組みをしながら何かと話しかけてくる女教師には、目もくれず、淡々と作業を続ける。
「あなたの行動の意味が全然わからない。なんで急にやめるのよ」
「色々と考えるところがあるんだよ」
「また真中さんのためなの?」
「どうだろうな」
 拗ねたような気持ちになる。彼を動かすのはいつも真中美緒だと思うと、やりきれない気持ちが麻里の胸の中で広がった。
 私のためには、何もしないくせに――。
 そんな理不尽な感情が、麻里の心を押し潰す。彼女ではないのだから、彼が自分のために何かを投げ出すことなどないとわかっているのに、それでも思わずにはいられなかった。それはきっと、自分なら彼のために何でもできるのに、という恋心が、胸の中で燻っているからだろう。
「ずっと帰ってこないつもりなの?」
「いや、そんなことはないよ。一時のことさ」
「一時ってどれくらいよ……」
 地面を蹴って、ハイヒールをカツンと鳴らした。こんな時でさえ、自分を見てくれない彼に歯がゆい思いがした。たとえ恋でなくてもいい。でも、少しくらい見てくれたっていいじゃないか。そんな子供じみた思いが、麻里の中に渦巻く。
「早く帰ってきてよね」
「そうだな。できれば、俺も早く帰りたいよ」
「薫がいないと私、寂しくてこの学校をやめるかもしれない」
「何言ってんだよ。そんなことしたら、生徒が泣くぞ?」
「本気よ」
 そう言って、彼の背に頬を寄せた。そっと、後ろから腰に腕を回す。白衣越しに伝わる彼の体温に、愛しさが募って、ゆっくりと目を閉じた。
 別れたはずの女が、今でもこうやって想いを寄せることが、彼の迷惑になっていることくらいわかっている。でも、どうしようもないのだ。理屈じゃない。理屈で片付けられるなら、彼のことを想ったりはしない。自分を愛してくれない男よりも、愛してくれる男を選んでいるだろう。元より麻里は、いつでも愛されたいと思っている女なのだから。
「結城先生……ほら、離して」
「麻里よ。結城先生なんかじゃないわ」
「結城先生だよ。今はもう、その名では呼べない」
「嫌よ。麻里って呼んで」
「ワガママなところは、昔から変わってないんだな」
 そう言って苦笑した彼の手が彼女の手に触れた。それだけのことなのに、なぜか泣きそうになった。一瞬、愛し合っていた頃にフラッシュバックしたのだ。あの頃の二人を鮮明に思い出した。愛されて、満たされていた頃を。いつも、麻里がワガママを言うたびに、呆れたように嗜めた彼の表情を。あの時の彼の手の温もりを。
「ほら、またこんな場面見られたら洒落にならないだろう?」
「……そ、そうね」
「結城先生……?」
 ゆっくりと優しく剥がされた手。なんでこんなにも泣きそうになるのかわからなかった。
 彼がもう自分のものではないと痛感したから? やっぱり、好きすぎてたまらないから? 思い出が、あまりにも甘すぎたから……?
 触れるだけで、こんなにも恋焦がれるなど、大人になったくせにバカらしいとさえ思った。グチャグチャになる心。零れそうになる涙を、咄嗟に指で止めた。
「泣き顔は、君には似合わないよ」
 クシャッといじられた髪。昔から変わらない彼のクセ。変わってないのは、あなたも一緒じゃない。そう心の中で呟いて、苦笑いした。
「泣いてなんかないわ。目にゴミが入ったのよ」
「本当に?」
「女のウソは、本当も同じ。疑うなんて野暮のすることよ」
「それは失礼」
 顔を見合わせて笑った。やっぱり今は、こうやって少し距離を置いて笑いあうのが一番心地よい。彼に優しくしてもらえるのは、この距離間までだと、自分自身でわかっている。
 別れてから初めて知った。彼が、こんなにも優しくて素敵な男だったのだと。やはり、手離したのは失敗だったと、呆れるように笑う。いつまでもいつまでも、彼以外にこんなに胸を熱くする人はいない。
「それにしても、薫がやめることをよく理事長が理解して下さったわね」
「どうして?」
「だって、あんなにもあなたを手離したがらなかった理事長よ? あなたが真中さんを追いかけてイギリスに行った時さえ、あんなにも必死にあなたを説得したのに」
「大体、買いかぶりなんだよ。俺はそんなにできた人間じゃない」
「あら、あなたを欲してる人はたくさんいるって言うのに」
「それが可愛い女の子だったら大歓迎なんだけどね」
 クスクスと笑った。薫は、片付けを一通り終えると、辺りを見回して、何も残すことがないか確認する。そして大丈夫だと納得すると、再び麻里に視線を戻した。
「理事長には、ちゃんとご理解を頂いてるから大丈夫だよ。大体、俺はここをやめるとは言ってない」
「どういう……意味?」
「さあね。まあ、なるようになるさ」


 ――風のように突然いなくなってしまった。
 何も言葉を残さず、姿さえ見せず、まるで幻だったかのように突然に。
 噂によれば、薫の恩師のいる病院へと引き抜かれたらしい。それが、どこにあるのかを美緒は知らない。海外であるということは、風の便りに聞いていた。
 麻里に聞けば、何か詳しいことはわかるかもしれない。けれど、彼女に会って話すには抵抗があった。大体、麻里の方こそ美緒と会いたくはないだろう。彼女が、まだ薫に対して友達以上の感情を持っていることはわかっていた。同じ人を愛する女同士だ。避けようにも、感じずにはいられない。だからこそ、互いに会ってプラスになることなど何もないことがわかってしまう。きっと、無駄な嫉妬心が、互いを縛るだろう。そんな、醜い感情に再び溺れたくはなかった。

「なんか美緒、最近元気ないね?」
 どこを見つめているのかわからないくらいぼーっとしていると、目の前に心配そうに自分を見つめる親友の姿があった。
「そんなことないよ」
「もしかして恋の病? 香月とうまくいってないの?」
「前から言ってるけど、ハルカとは……なんでもないんだってば」
「でも、私から見たら、今の美緒はどう見ても恋の病なんだけどな?」
 ここで、私の恋人は櫻井先生なんだと言えたらどれだけ楽だろう。誤解されていることがつらいわけではない。別に、ハルカとの仲が噂になったところで、一番大事な人はわかってくれているのだから、そう気にすることでもなかった。
『人の噂も七十五日』
 そう言っては、自分に関する噂をまったく気にせず笑っていた薫のことを思い出す。
 愛してると、何度も囁いてくれたくせに。どこにも行かないと約束したくせに。誰かのために泣かないと約束させたくせに……。無理だ。今にも、泣いてしまいそうになる。泣かないと決心した気持ちが、崩れそうになっている。
 最後に会ったのは、保健室で抱かれたあの日。意識をなくす前に甘く囁かれた自分の名が、耳元で何度もリピートしている。体はまだ彼を覚えていて、思い出すたびに熱を帯びる。心も体も彼でいっぱいなのだ。こんな風に、どうしようもなくなるほど愛したくせに、あっさり消えてしまうだなんて、卑怯だ……。
「美緒」
 頭上から、低めの少年の声が美緒の名を呼んだ。相手が誰なのかを咄嗟に悟って、笑顔を作って彼に視線を向ける。すると、自分を優しく見守るようなそんな微笑に出会った。いつの間に、この人はこんなに優しい表情するようになったのだろうと、心の中で驚きを覚えた。


 下校の道を、一緒にゆっくりと歩く。もう何度も歩き慣れた道を、何を話すわけでもなく、ただ二人で一緒に歩いた。時折、ハルカの視線が美緒に向けられるが、美緒は薫のことで頭がいっぱいで、その視線に気づかない。ただ淡々と、歩く。その状況が、何分も続いた。
 今までだったら、無言で一緒にいたとしても、何も感じなかったのに、今のこの空気はハルカにとって窮屈なものにしか感じられなかった。彼女の中に、自分がいないことがわかるのだ。隣にいるのに、その心の片隅にも自分はいない。そして、その心の中を占めているのは、櫻井薫だということを、感じずにはいられなかった。
「美緒」
「……ん? 何?」
「今、何考えてんの?」
「別に? 何も?」
「本当に?」
「どうして?」
 どうしてって……。それこそハルカが聞きたい台詞だった。薫のことで頭がいっぱいなのは、目で見てわかるほどだ。それを、気にしてないフリをするなど、できるはずもない。
 ズキズキと胸が痛んだ。自分と一緒にいるのに、他の男のことばかりを考える彼女に、悲しくさえ思った。いっそ、いなくなってしまった薫のことを堂々と話してくれたならば、こんなにもつらく思わなかったかもしれない。普通に、寂しいと表現してくれたならば、彼女を抱きしめることだってできるのに。こうやって、一人で抱え込み、薫以外の何も受け入れようとしない彼女には、自分が入り込む隙など全くなかった。薫と美緒の間にある、誰も入れない絆を、まざまざと見せ付けられた気さえした。
「美緒。……おまえ、櫻井先生がいなくなって寂しいんじゃないの?」
「別に?」
「だって……好きなんだろ」
「好きだけど……」
「俺に、気遣うなよ。俺は、おまえが櫻井先生のことを好きだと承知で、それでも好きなんだから……」
「……私ね、櫻井先生がどこに行ったとか、全然知らないの。先生何も言わなかったの。……だから、もういいんだ」
 そう言って微笑む美緒の表情は、今にも泣いてしまいそうだった。強がって言ったその言葉は、わざと口にして自分に言い聞かせているようにさえ聞こえた。
 ふいに美緒が空を見上げる。その視線の先に、何かを見ているように。
「いいの。私が悪いの。私が、先生と離れることを選んだんだから……だから、バチが当たったんだよ」
「美緒……」
「先生が怒るの当たり前だよね。こんな女の子、好きになるわけないよね……」
 空を見上げる彼女の目に、涙が溜まっているのがふと目に入った。思わず、その目元に触れたくなる衝動。けれど、ハルカが近づこうとした瞬間、美緒がそれをよけるのに頭を振った。

「バカだなあ……私。本当バカだよ……」
 美緒はただ、苦しくなるだけの胸に想いを馳せていた。
 薫がいなくなった途端、足元から何かが崩れ落ちた。一人で立ってさえいられない。誰かに、優しくすることさえできない。笑うことも、食事をすることも、今まで普通にできていたことが、何一つ満足にできない。時折、息をすることさえも、苦しくなってしまうくらい……。
 泣かないと約束したから、泣くことさえも叶わなかった。たとえそれが薫のための涙だったとしても、約束を破る気がして、泣けなかった。薫と距離を置いてでも、ハルカの心の闇を癒してあげようと思ったのに……。でも、薫がいないと、それもできないのだ。心に余裕がない。ハルカの目をまともに見られない。それより以前に、自分が心から笑えない。自分の中に余裕や優しさがないのに、なぜ他人に優しくすることなんてできよう。結局、今の自分の心は、どんな感情もすべて薫にリンクしていると感じずにはいられなかった。
 ――なぜ何も言わずに私を置いて行ったの?
 その気持ちは、薫に対してではなく、置き去りにされた自分へと何度も問いかけた。
「美緒……」
 ポツリとハルカが呟く。何も言わず、悲しそうに作り笑いばかりする彼女に、思わず手を差し伸べたくなる。つらい気持ちをわかりあいたいと思った。自分を支えてくれた彼女のように。それよりも何よりも、彼女を好きだという気持ちが、彼女に触れずにはいられなかった。好きだから、抱き締めたい。それは、ごく自然な恋心。
 震える小さな体に手を伸ばす。その手が届いたと思った瞬間、強い力で彼女を抱きすくめた。
「……触らないでっ!」
 けれど、その瞬間、小さい体が思い切り拒否反応を起こした。抱き締めたハルカの体を、美緒の手が押しのけたのだ。その瞳に浮かべる表情は、戸惑いでいっぱいだった。
『俺以外の男に、触らせないこと』
 抱かれた時の、薫のセリフが美緒の頭の中で聞こえたのだ。それが、自然とハルカへの拒否反応になっていた。薫とは違う、他の男の腕を、受け入れられなかった。自分を慰めるための抱擁だとわかっている。その抱擁を、今までは受け入れられたのに、触れられた瞬間、嫌悪に似た感情が走った。それくらい、美緒の中で、薫の存在は絶対的になっていた。
「ごめん……ごめんね……」
 傷ついたような目で自分を見るハルカの視線が、居た堪れなかった。
 美緒は、ただ一言、そう告げると、その場を駆け出し、ハルカに背を向けた。

「櫻井先生……これが俺への仕打ちですか?」
 離れていく彼女の背を見つめながら、ハルカの頭の中でも、薫の言葉が聞こえていた。
『いつか、美緒と一緒にいることを後悔する』
 その言葉の意味の断片を、掴みかけていた。

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