氷花

23.独占欲の欠片

 美緒と別れた後、重い足取りで自分の家へと辿り着くと、ドアノブの違和感に、いつもの重い溜息が出た。
 ――またアイツが来ている。
 咄嗟に、このドアの向こうにある光景に想像がついた。転校してからというもの、間を置かずに榊原に会っている気がする。いつも、険悪なムードを漂わせながら会話を終えるというのに、息子の気持ちなどわかっていないのか、次に再会する時には忘れ去っている。そういう忘れっぽいところは、ある意味いいことなのかもしれないが、結局父親にとって自分の意見は影響力を及ぼしていないと思うと、やりきれない思いがした。何を言っても一方通行。どんなに抗っても、榊原には何も伝わっていないのだ。
 恐る恐るドアを開ける。
 いつもなら、ハルカの姿を見るなり、何らかの声をかけてくるはずの父が、今日は何も言ってこなかった。いや、声をかけられなかったと言った方が正しいだろう。リビングから聞こえてくる粘着質な声に、彼が誰かと電話中であることを悟る。盗み聞きをするつもりなど全くなかったが、聞こえてくる話の内容に、その場に立ち尽くすしかなかった。
「これでうちの病院も安泰だ。やっと櫻井先生が首を縦に振ってくれましたからなあ。あの人を口説き落とすのにどれだけ苦労したことか……」
 『櫻井』という言葉に、体が凍りついた。なぜ、榊原の口から薫の名が出るのだろう。彼は、自分の恩師のいる病院へと引き抜かれたはずでは……
「しっかりご指導お願いしますよ。まあ、先生の手を借りずとも優秀だとは思っていますが、私としても彼の最高の技術を欲していますから。帰って来るのが楽しみですな」
 高笑いが聞こえる。榊原が話していることの意味が全く理解できない。けれど、榊原と薫の間に何らかの事情があることは確かだった。

 電話を終える頃を見計らって、リビングへと入る。よほど機嫌がいいのか、ハルカの姿を見つけると、珍しくも息子の顔を見るなり微笑んだ。その微笑に、いっそうの不安感を覚える。
「さっきの電話……櫻井先生がどうとかって」
「あ? ……ああ。別におまえの気にすることじゃない」
「櫻井先生は、恩師のいる病院に引き抜かれたはずじゃ……」
「それは、表向きのことだ」
「表向き?」
「私がいくら説得しても聞かないから、他に手を回しただけだ」
 意味がわからない。確かに、ずっと前から榊原が薫を自分の病院へ引き抜こうとしていることは知っていた。しつこいほどの勧誘に、薫がまともに相手をしていなかったことも。上手くはぐらかしては、うやむやにしていた引き抜きの話。いつまでも逃げられるわけはないと思っていたが、どうしても話の内容がそれと結びつかない。
「手を回すってどういう……」
「私の言うことが聞けないのなら、他の人間から、ということだよ」
「それが、恩師……?」
「櫻井先生は有名な大学の出なんだ。当時優秀な櫻井先生を気に入っては指導した教授が、今はある外国の大学の教授をしている。その人とは、以前からの知り合いでな。無理を言って、櫻井先生に説得してもらうことをお願いしたまでだ」
「説得したからって、櫻井先生がそんな話に……」
「乗るさ。教授はこの世界じゃ有名すぎるほどの実力者だからな」
「でも、今現在櫻井先生は、海外にいるわけでしょう?」
「だから、それも一時のことだよ。一応今は、その病院で医師をしているが、少しの期間技術を身につけたら、私の病院へ移ることを指示するように、教授にもお願いしている」
「それを櫻井先生は……」
「知るわけがないだろう。知ってたら、首を縦に振らない。いや、どっちにしても櫻井先生は言うことを聞いたかもしれないがな。彼にとって、教授の言葉は絶対的だよ。まず逆らえないだろう。今はせいぜい海外で学ぶことに没頭しているだろうが、いずれはうちの病院に来てもらう。校医をやめてしまったからには、言うことを聞かざるをえない」
 ――やっと、全てが繋がった。
 反吐が出るほど汚いやり方だった。まるで、騙すようなやり方。相手の弱みを握って、それを利用して。自分が説得できなかったということは棚に上げ、手に手を回し、欲しいものは無理矢理にでも手に入れる。逃げられない状況を作り上げ、相手を追い詰める。
 確かに、そこまでする価値が櫻井薫にはあるかもしれない。ハルカ自身が、彼を医者として一番尊敬するように、誰の目から見ても、魅力的なのであろう。彼の持つ技術や成績など知らないが、人として、医者としてこんなに魅力を感じた男はいなかった。けれど、こんな卑劣なやり方は、納得できなかった。それと同時に、父をここまで動かす櫻井薫という存在に、少しばかりの嫉妬さえ覚えた。
「前にも言ったが、櫻井先生はどうしても私の病院に欲しい逸材だ。あんな学校の校医におさめておくにはもったいない」
「もったいないかどうかは、アンタが決めることじゃないだろ……」
「フン。おまえはまだ子供だからわからないだろうが、所詮医者は綺麗ごとだけじゃつとまらない。あの男は、一見穏やかで優しそうに見えるが、したたかで賢い男だ。敵に回したら、それこそ恐ろしいことになる。それに付け加えて技術も最高と来ている。どこかに持って行かれる前に、手にいれようと思うのは至極当然のことじゃないか」
「結局、櫻井先生もあなたにとっては、ただのモノですか……」
「おかしなことを聞くやつだな。そんなことは聞くまでもない当たり前のことだ」
 そう言って、高らかに笑う父の姿を疎ましい目で見つめた。けれど、そんな父の姿が、少し滑稽にも思えた。なぜか、ハルカの中で引っかかるものがあったのだ。
 自分と対立した時に見せた、薫の男の顔。あの顔は、優しさだけでなく、現実をも見据えた厳しい顔だ。優しさ以上に、怖ささえ兼ね備えた……。そんな表情を見せる男が、まんまとこんな話に乗るとは到底思えなかった。榊原の思惑を、見抜けないほど素直だとも思えなかった。
 踊らされているのは、もしかしたら薫ではなく――。
 満足気に微笑む父の姿を見据えながら、ハルカは薫のことを考えていた。


 ここへ来て、早二週間が経つ。大学時代の恩師の必死の説得により、一時の間だけという条件でこの病院へと赴任した。その一時が、一ヶ月で済むのか、一年以上になるかは定かではなかったが。
 美緒には何も言わなかった。悲しげな表情を見たくなかったということも、もちろん理由ではある。けれど、元よりここへ来ることは、薫の計算内だった。いつまでも逃げるわけには行かない。ハルカに対する誠意としても、薫はどうしてもここへ来る必要があった。それは、薫なりのけじめの付け方として。
 いつまでも、親に振り回され、自分の感情も上手くコントロールできない少年との違いを、示さねばならない。それには、榊原という共通の人物を通してするのが一番効果的だと思えた。
『大学時代のあなたの恩師が、あなたを欲しがっていると言っている』
 と、榊原が急に言い出した時、彼の思惑を瞬時に悟った。確かに、大学を卒業後も付き合いのある恩師が、今になって薫を欲しがるというのには不自然な点はない。彼は会う度に薫を褒め称えたし、校医の位置に収まることにいい顔をしなかったのだ。
 けれど、それを告げるパイプ役として、榊原が存在することに、不信感を覚えずにはいられなかった。今まで、自分を無理矢理にでも欲してきた男が、手のひらを変えたような態度で接してきたのだ。せいぜい、どうにか手を回して策を練っているだろうことは、想像が付いていた。
 付け加えて、薫が美緒から離れることで、美緒の中に何らかの変化が見られることも想定済みであり、それが自然とハルカを追い詰めることになるだろうとも思っていた。一見、自分がいなくとも強く立ってられそうな美緒。確かに、少し前までの美緒ならば、それも可能かもしれない。けれど、今ならば……。
 大きな賭けではあったけれども、心の奥底で、彼女の一番大事なものは自分なのだと確信していた。それを失った時の、彼女の気持ちも理解した上で。
 甘い声が耳に残っている。自分を求めて、甘く響くあの声を。柔らかな肌の温もりを。彼女の体に、自分という存在をわざと刻みつけるように抱き、そして何も言わずに去った。今頃きっと、美緒の心の中は自分でいっぱいだろう。卑怯なやり方だ。けれど、どんな卑怯な手を使ってでも手離したくないものがあるとすれば……。それは美緒、君だけに他ならない。

「カオル!」
 仮眠室で一人くつろいでいると、仕事仲間の白人の女医が声をかけてきた。遠慮なく、彼の腰かけるベッドの隣へと腰を下ろす。スレンダーな体つきにブロンドの髪。日本人の目から見ても美しく、それでいて愛らしい人だった。
「君も休憩?」
「そうよ。カオルが休んでるって知ったから、少し休憩をもらったの」
「それはまた意味深な発言だな」
「そのままの意味で受け取ってもいいわよ」
「光栄なことです」
 ニッコリと微笑を返す。彼女が薫に対し好意を抱いていることは明らかだった。ストレートな物言いに、表現。何気なく触れる指や手も、その意味を隠してはいなかった。
 けれど、最初から好意的だったわけではない。薫がここへ来て二週間という月日。日を追って接近してると言ったほうが正しかった。
「私実はね、日本人の医師が新しく来るって聞いた時、バカにしてたのよ」
「挑戦的だね」
「でも、私の誤解だったみたい。あなたは日本人にしておくにはもったないくらい魅力的だわ」
「それは、男としてかな? それとも医師として?」
「両方よ。医者としての技術も一流だわ。今じゃ貴方を認めない人はいないんじゃないかしら」
 彼女の言う通り、薫がここへ来てからというもの、彼の噂が立たない日はない。それは、悪い噂ではなく、全部真逆のものだった。新しく来た日本人の医師が、とにかく優秀である。技術も知識も、彼に並ぶものはいない。そんな噂が耐えないのだ。期待されていなかった分、その実力に周りが驚かずにはいられなかった。
 最初は日本人ということで敬遠されがちだった薫だったが、実力を認められると共に、自然と周りと打ち解けていた。元より、彼のフランクな性格は、どんな人ともすぐに打ち解けてしまう不思議な魅力を兼ね備えていたという点もあった。
「でも私は、男としての貴方の方が魅力的だと思うわ」
「危険な人だ」
「本当よ。いつでも見ていたいくらいよ」
 薫の首に腕を巻きつけ、甘えるように抱き付いてくる。そんな彼女を、疎ましく感じるわけでもなく、薫は少しばかり微笑むと、彼女の髪に指を絡めた。それを、YESと取ったのか、彼女がなおも身を寄せる。
「あなたほどの人なら、どうせ日本に恋人もいるでしょう? でも、そんなことは置いといて、今は今だけの恋を楽しまない?」
「それは、悪くない提案だね」
「好きよ、カオル……」
 自分の方へと彼を引き寄せながら、ベッドに倒れこむ。腕を首に巻き付けているせいもあって、薫もなだれこむようにベッドへと倒れた。唇と唇の距離が近い。絡み付く足と足。どう見ても、そこには男と女の雰囲気があった。甘く溶けそうな視線。穏やかに微笑む彼の瞳に、彼女のブルーの瞳も堕ちていく。触れそうになる唇。けれど、その瞬間、薫がニヤリと笑ってそれを制した。
「悪いけど、俺は好きな女以外には欲情しないんだ。ごめんね」
 途端、ブルーの瞳が、困惑と怒りに震えた。女として最低の屈辱。あまりの言い草に、声もなく、体も動かなかった。
 そんな彼女の姿を冷ややかに一瞥して、立ち上がると、振り向きもせず目の前に置いてある資料へと目を通し始める。屈辱に歪む彼女の目は、こちらを向かない薫を睨み付けて、足早に部屋を出た。よほど悔しかったのだろう、力のままにドアを叩き付ける。バタン! という大きな音が、部屋中に響き渡った。
「ちょっと前の俺だったら、乗ってたんだけどなあ」
 心にもないことを口ずさむ。けれど確かに、美緒に出会う前の薫だったならば、彼女の誘いに乗っていたかもしれない。そこに愛はなくとも、自分の嫌いな女でさえなければ。一夜限りだとか、その場限りという恋愛を楽しんでいただろう。
 だが、美緒に出会ってしまってからというもの変わってしまった。彼女以外に、欲情しないのだ。心を熱くさせることさえも……。
「罪作りな女だよ、全く」
 苦笑いを浮かべて、美緒のことを思い出していた。今何をしているだろう。自分のことを考えているだろうか。そんなことを、ふと思いながら、心の中がポッと温かくなるのを感じていた。
「誰が罪作りな女だって?」
 言葉と同時に開かれたドア。さっき女医が立ち去って行ったドアから現れたのは、薫をここへと呼び寄せた男だった。細身の体格に、年齢とは似合わない若い顔立ちをした男。手は細く華奢で、オペにおいては世界でも最高の技術をその手に備えていた。
「教授……盗み聞きですか?」
「失敬だな。君の声が大きいんじゃないか?」
「それは失礼しました」
 笑って軽く一礼する。教授は、薫の控えめな態度を見て、満足そうに微笑んだ。
 榊原に頼まれて呼び寄せた昔の教え子。薫の腕を一番知っているのは、他ならないこの男だった。その技術を買っているのも、保証しているのも。少しの間自分を助けて欲しいという理由で呼び寄せ、その後は榊原の総合病院へと移転するよう説得するつもりだった。実際、榊原との約束がそういう話だったのだ。薫が、自分の言うことを聞き入れてくれるだろうという過信があったというのもある。最初から榊原のところへ行けというのならともかく、自分のそばに置き、自分が彼を認めた上での説得ならば、それに力は伴うと思っていた。
 一見、やんわりとしているが、義理というものを大事にしている男なのだ。自分が行けと言えば、行くだろうという確信があった。付け加えて、自分の自慢の教え子を、知り合いの右腕として託すという満足感もあった。
 しかし、薫が来てからの二週間。この男の中で、何かが変わり始めていた。榊原との当初の約束。それが、疎ましく感じてきていることを、感じずにはいられなかったのだ。どういう感情が、それを呼び起こしているのかはわからなかったけれど。
「しかし、君はよくやっている。私も鼻が高いよ。教え子がこれだけ活躍してくれると」
「お役に立てて光栄です」
「本当に、校医などさせておくのはもったいない。私よりも技術は上なんじゃないかと思うよ」
「買いかぶりです。世界的にも有名な教授と比べるだなんておこがましい。私はそんなにできた人間じゃないですから」
「いやいや、大したものだ。名が知れれば、世界中の誰もが君を放ってはおかなくなる。私が保証するよ。だから、君にはこれからもずっと……」
「ずっと?」
 何気なく口から出る言葉に、本心を悟る。頭の中の最後のピースが嵌りそうな予感。薫の穏やかに微笑む表情を見つめて、本来の自分の感情が目を覚ました。
「ずっと……これからもずっと私の右腕として……欲しいと思うよ」
「教授ともあろうものが、私のような若輩者を欲しいなどと、そんなことを言ってはいけませんよ」
 震えながら自分に向けられる声。薫に対する独占欲。教授の中に起こる心情の変化を悟って、薫がニヤリと不敵に笑った。

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