氷花

24.恋焦がれる

 薫の残した言葉の意味を、日に日に感じずにはいられない。
『いつか、美緒と一緒にいることを後悔する』
 忘れようとすればするほど、頭の中で薫の声が聞こえた。薫の言葉通り目の前で変わって行く美緒の姿を見て、痛感せずにはいられなかった。後悔とまではいかない。けれど、確実に、美緒と一緒にいることが切なくつらく、悲しくさえあった。
 今になって、目に見えない薫の仕打ちを痛いほど感じている。


「大丈夫か?」
「うん。もう大丈夫。明日からは学校も行けると思うから」
「あんまり、無理すんなよな」
「大丈夫だよ。これからはもうちょっと気を付けるし」
 体調を崩して学校を休んでいた美緒の家へと、見舞いに訪れていた。両親が不在ということで、家には美緒一人しかいなかった。上げられた部屋は、女の子らしい清楚なイメージが漂っている。パジャマ姿の美緒は、憔悴しきったように青白い顔をして、元々色白の肌が強調されるように透き通っていた。その原因が、体調を崩しているせいだけではないということも感づいていた。きっと、体調を崩した原因も、薫と関連しているに違いない。
「つらいと思ったら俺にでも言えばいいだろ」
「そうなんだけどね……」
「一人で頑張るなよ」
「うん……」
「どうしても我慢できないときは、保健室で――」
 保健室、と口にした途端、空気が凍りついた。ビクッと美緒の手が動いたのにも気づいた。口にしてはいけない言葉を言ってしまって、ハルカは咄嗟に口を噤む。
「そういえば……櫻井先生の後任の先生って、女医さんだったっけ……」
「え? ああ、確か中年くらいの女の先生だったと思うけど」
「そっか……もう櫻井先生がいなくなって一ヶ月近く経つんだよね……」
「連絡、ないのか」
「ないよ……あるわけないじゃん……」
「そっか」
 ベッド際にある窓に、美緒が目を向けた。まるで、ハルカの視線から逃げるように。
 薫がいなくなってからというもの、美緒のこういう行動が目に付くようになった。何かを問えば、はぐらかし、じっと見つめれば視線を外す。時折見せる笑顔も、今にも泣いてしまうのではないかと思うような切なげな笑顔。今までは、どんな感情も面と向かってストレートにぶつけてきた美緒が、彼がいなくなってからというもの、いつもハルカから逃げている。
 そばにいてあげる、と優しい瞳で慰めてくれたあの時の美緒は、今ではもう影も形もなかった。まるで抜け殻のように、心を失っているようにも見えた。時折ぼーっと遠くを見つめている姿ばかりが目について、放っておけばどこかに行ってしまうのではないかと思うほどだった。その度、彼女の名を呼び、自分に振り向かせるのに、心はどこかに置いてきているようで。
 一緒にいるのに、どうしてこんなにも孤独を感じるのだろう。どんなに近くにいても、彼女の心がここにいない。その心が、どこにあるのかも、わかっていた。薫が、連れて行ってしまったのだ。抜け殻だけを、ハルカに残して……。一緒にいればいるほど募る切なさに、胸が引きちぎられそうな思いがした。
「ごめんね……」
 窓に目を向けたままの美緒が、小さく呟いた。
「何が?」
「私、こんなんで……」
「どういう意味?」
「自分でもわかんないの。自分が今どうしたいとか、何をしなきゃいけないとか、全然わからない。だから、ハルカにも何もしてあげられない……」
「いいよ。そんなの……」
「約束したのにごめんね」
 もうずっと、彼女に謝らせてばかりいる。薫がいなくなってからずっと、ハルカに謝るばかりだった。何も悪いことなどしていないのに……。自分という存在が、美緒にとって罪悪感の根源だと思うと、居た堪れなかった。
 謝るばかりの美緒。けれど、何もしてあげられないのは、ハルカの方だった。そばにいても君は抜け殻で。心に触れようとすれば、それを無意識に拒否してしまう。好きだからこそ、一緒にいられるだけで意味を感じるハルカとは反対に、美緒にとって香月ハルカという存在は、薫を思い起こさせるだけの存在だろう。
 何もできない。何もさせてもらえない。触れることさえ、叶わない。そんな状況は、いつしかハルカの首を締めていた。
「優しくなれないの。ハルカのために頑張ろうって思ったのは嘘じゃないよ。先生と少し距離を置いてでも、ハルカを助けてあげたいと思った。でもね……そんなの私の奢りだった」
「美緒……」
「先生がいないと私、何もできない……。それが今になって痛いほどわかるの。ハルカに優しくすることも……笑うことも全部……先生に愛されてないと……」
 美緒が両手で顔を覆った。いつの間に、こんなにも恋焦がれていたのだろう。彼がいなくては、まともに生きることさえできない。知らず包まれていた彼の愛情に、自分がいつも守られていたことを思い知った。彼が優しさをくれるから、誰かにも優しくできる。彼が笑顔をくれるから、笑い方も忘れずにいられる。泣くことさえ、彼がいなければ意味がない。
 櫻井薫という存在が、いつも美緒を支えていた。こんなにも、自信を失ってしまったのは初めてだ。留学した時でさえ、一人で立っていられたのに、今はもう自分をコントロールすることさえできない。それは、去っていく時に何も愛情を残していかなかった彼のせいだと十分わかっていた。
「先生何も言わなかったから……そのうち忘れられるだろうって思ってたのに、全く逆だよ……。日に日に好きになっちゃう……」
「そっか……」
「酷いよね……なんであの人を好きになったのかわからないよ……」
「そんなこと言うなよ」
「酷すぎるよ……だって、忘れさせてもくれないんだから……忘れたいのに、忘れられない」
「ムリして忘れる必要なんてないからさ」
 顔を両手で覆ったまま、微動だにしない美緒の肩に手を触れようとした。もしかしたら泣いているのでは? と思ったのだ。けれど、触れそうになった瞬間、美緒がポツリと呟いた。
「どうせだったら、ハルカを好きになってれば良かった……」
 残酷すぎる言葉。美緒の言葉に、ズキン、と心が痛んだ。全く嬉しくなどなかった。むしろ、その言葉に、傷つかずにはいられなかった。美緒の言葉に悪意などなかっただろう。きっと、心から素直に出た言葉だったと思う。けれど、その言葉は、逆の意味も告げていた。結局美緒は、どこまでいってもハルカを恋愛対象としてみないという真実を。無邪気な少女の優しさは、少年の心をどん底に突き落とした。
「ごめん……ごめんね……」
「いいんだもう……」

 ――櫻井先生。
 あなたの言った言葉の意味を、今痛いほど感じている。美緒をそばに置いてわかったことは、自分の非力さと、美緒の本心。そして、櫻井薫という大きすぎる絶対的な存在感。知らなくていいことを、わざわざ自ら覗いてしまった。忠告も聞き入れず、ただ好きだという感情だけで美緒を求めてしまった幼い感情は、今になってその残酷さを噛み締めている。手離せなかった美緒の優しささえ、実は櫻井薫という存在があるからこそということを、本当は気付きたくなどなかった。
 ――貴方は優しいけれど、とても残酷な人だ。
 言葉とは裏腹に、櫻井薫という存在に清々しくさえ思う自分がいた。そして、このまま美緒のそばにいても何も得られることがないことを、素直に受け入れようとしていた。


「ちょっとそれは約束が違うんじゃないですか」
『そうは言ってもねえ。確かに君の病院へ櫻井君を薦めるという話はしたけれども、絶対と言うわけではなかっただろう?』
「確かにそうですが……今になってそんなことを言われても困ります」
 少し遠くに聞こえる電話の主の言葉に、焦りを隠せずにはいられなかった。海外からの電話のせいか、少し言葉と言葉に間があるように感じた。脂ぎった大きな手が、受話器を強く握り締める。額には汗を滲ませ、思わぬ方向へと転んだ話に、慌てふためいていた。
『私の目で彼を見て、それで彼の腕が評価に値するならば、君の病院へ薦めても良いと言ったはずだが?』
「そうです。その通りです。だからこそ、一度教授の方へと櫻井先生にも行っていただいたんですから」
『だったら別におかしいことはないじゃないか。私の目で櫻井薫という医師を判断した結果、君の病院には相応しくないと言っているんだ』
「またそんなご冗談を。櫻井先生の医者としての技術なら、教授だけでなく私でさえ知っているんですよ」
 薫が校医をやめてから一ヶ月。そろそろ自分の病院への移転話が進んでいるだろうと思っていた榊原だったが、急にかかってきた教授からの電話に、その期待は裏切られた。今になって、やはり薫は榊原総合病院には行かせないと言うのだ。元より、絶対に移転させるという話をしていたわけではない。教授という立場から教え子を薦める以上、一度その腕を評価してからという条件付だった。けれど、薫の腕を一番欲しているのは榊原自身であり、自分の手の内に入るのも時間の問題だと思っていただけに、今回の教授の申し出は、信じられるはずもなかった。
 今になって、せっかく練ってきた考えが全部泡になろうとしている。粘着質な声は、それでも何かに縋ろうと、必死に意見した。
「櫻井先生が優秀なのは私がよく知っています。実際に、そちらでも高い評価を受けていることも耳に入ってるんですから」
『だからだよ。櫻井君を君の元へやるのは、勿体無いと言いたいんだ』
「なんですって……?」
『悪いが、彼の技術は、日本やそこらの個人病院に留めておくには勿体無い。彼にとって君の病院で医師をするなど、役不足だ』
「そんな……」
 悔しさにギリギリと歯を噛み締めた。薫を手に入れられないばかりか、自分の誇りでもある病院がバカにされた気がして、今にも怒鳴ってしまいそうなほど、胸の中が憤怒していた。思い描いていたことが全部パァだ。教授にこう言われたのでは、何も言い返すことができないのは、この男が一番わかっていた。彼に逆らえば、それは世界を敵に回すことと同じことになる。
「だったら、これから先教授が櫻井先生をそばに置くおつもりですか?」
『もちろん、彼の腕を買ってる以上、一流の場で一流の仕事をさせたいと思ってるよ。私の右腕としてね。……まあ、できればそう願いたいところなんだが、彼も頑固でねえ』
「それはどういう……」
『とりあえず二年間自由にさせて欲しいという期間を条件に突き付けられたよ。それがどういう期間だかは知らないが、二年経てば、私も日本の大学へと戻る予定になっている。そしたら、そこでまた助けてもらえるという話だ』
「そんな……だったら、その二年の間だけでも私の病院に……」
『君が一度手に入れたものをけして離さない人間だと知っていて言ってるわけだが?』
「……くっ」
 まるで嘲笑うような教授の物言いに、自分の入り込む隙など全くないことを悟った。確かに、二年間だけの期限付きでの医師など不要だ。櫻井薫という存在を手に入れて、手離す気など起きるはずもないだろう。けれど、それを見抜かれて、いい気などしなかった。
『いやあ、しかし櫻井君には参ったよ。あんなにも腕がたつとは思ってもいなかった。最初は教え子として接していたんだが、今はもう対等だ。いや、それ以上かもしれないな。何せ、この私が、彼を欲しくてたまらない』
「それは私も一緒ですよ……」
『あんなに魅せつけられては、彼の言うことを聞かざるをえないじゃないか。なあ、榊原君』
 完全に、櫻井薫に骨抜きにされていた。最初は、教え子だから、説得するくらいは簡単だと言っていた男が、今ではもう薫の言うなりになっている。彼を欲するがあまり、彼に心を支配されていた。
 やはり、一筋縄ではいかない男だった。いつもの、柔らかく優しい薫の笑顔を思い浮かべる。その裏には、悪魔の顔があることを知った上で、手に入れたいとそう心から思っていた。むしろ、手に入れなければならなかった逸材。
 けれど、自分の計画を踏みにじられて、この怒りをどこにぶつければいいのかわからない。教授を骨抜きにし、世界を味方につけた薫に敵うわけもない。榊原は、受話器が今にも壊れてしまうのではないかと思うほどの力で握り締めていた。
 しかし、二年という期間は一体何なのだろう。一瞬、息子の姿を思いだして、ちょうどハルカが卒業するまでの期間が二年ほどあるな、と思い当たった。ただそれは、校医という薫の職業が、息子の姿を思い浮かばせたにすぎなかった。
「ところで、今櫻井先生は……」
『櫻井君なら、日本に帰ったよ』
「日本に帰った……?」
 思いもかけない言葉に、榊原はただ呆然と立ちつくした。

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