氷花

25.薫風に散る花

「おかえりなさい」
 土曜日の午後。
 誰もいるはずのない保健室に足を踏み入れると、思いもかけない少年の声が、そう呟いた。
「久しぶりだな、香月」
「お久しぶりです。櫻井先生」
「で? こんなところでおまえは何をしてるわけ?」
「先生を待ってたんです。いけませんか?」
「いいや。大歓迎だよ」
 少し、変わっただろうか。はっきりとものを言うハルカに、少し違和感を感じて、薫は眉をひそめた。そして、そのもの言いではなく、ハルカの瞳に、明らかに違う何かを感じ取る。以前の、戸惑うような曖昧な瞳ではなかった。意思のはっきりした目。それは、少年ではなく、もう男と言うに相応しくさえ思った。
「先生が、日本に戻られたというのを聞いて、ここで待ってたら会えるんじゃないかと思って待ってたんです」
「へえ。それは察しのいいことで」
「この学園の校医。やめられたわけではないんでしょう?」
「なんでそう思うわけ?」
「先生が簡単に自分の仕事を投げ出すわけがないと言ったら、理由にはなりませんか?」
「いや、十分なんじゃない? 外れてはいないわけだし」
 薫は手荷物をデスクの上へと置き、そしてハルカの座る正面側のソファに座った。目の前にいる少年を見て、ヤレヤレという気持ちになる。別に会いたくないわけではなかったが、ハルカには色々と振り回されてウンザリしている部分もあったからだ。だが、いつかカレとはもう一度話をする必要があると思っていた薫にとって、今の機会はちょうどいいとも言えた。
「榊原総合病院の引き抜きの話をキッパリと白紙にしたらしいですね」
「さあ? 俺はその辺のことはよく知らないけど」
「先生の恩師の方が、直々に引き抜きの話を断ったと聞きましたけど」
「まあ、教授が榊原先生とどういう話をしてたかは知らないけど、そう言うんだったらそうなんじゃないか?」
「とぼける気ですか? 先生は、最初からわかっていたと俺は思ってるんですけど」
「へえ……おまえもなかなか賢いじゃないか」
 タバコを一本手にとって火を付ける。ニヤリと笑ってハルカを見た後、ゆっくりと煙を吐いた。いつの間にか、話らしい話をできるようになっていたハルカに、楽しささえ感じていた。
「でも、わざわざそこまでしなくとも、断れたんじゃ……」
「まあ、確かに榊原先生の誘いを断るだけならいくらでもできたさ。ただ、おまえが知っている通り、あの人はそう簡単に引き下がる人じゃない。ましてや、何をするかわからないという点も否めない。まあ一番の理由は、校医という立場上、理事長の顔を立てるためにも、うちの学園の多額寄付者である榊原院長を直接無視できないからなんだけどな」
「それで海外に赴任ですか」
「簡単に言えば、今までの俺は選ばれる立場だったわけ。どこの病院に行くにしても、誰かの指示を受けるにしてもね。だけど、この一ヶ月で、その立場は逆転した。自分の実力を知らしめることで、皆がその実力を欲し、そして認めるようになる。そうなると、どう変わるかわかるか?」
 薫の目がじっとハルカを見据えた。元より、この一ヶ月は、ハルカにこのことを知らしめるためにやったことなのだ。そのことを、この少年がわからなければ意味がない。
「選ぶ立場になる……ということですか?」
「正解。……渡米したばかりの頃は、日本人ということでバカにされたりもしたよ。それこそ、劣勢からのスタートだ。誰も俺の実力を期待しちゃいない。認めてもいない。けれど、日に日に自分の実力を周りに見せ付けることで、自分が変わらなくとも、周りの目が変わってくる。それが手に取るようにわかってくる」
 一ヶ月という期間は、この男にとっては長かったのか短かったのか。けれど、思惑通りに事は進んだと言えた。
「そのうち、俺のすることに誰も意見するものはいなくなった。最初は劣勢だった立場が、一ヵ月後には誰しもが認める立場へと変わっていた。最初は上の立場だった教授も、今は対等な立場として接してくれるしね。選ばれる立場が、選ぶ立場に変わったんだ。もしも、俺がそこで何も変われずにいたら、きっと今頃は榊原総合病院に飛ばされてるだろうな」
「そういうことですか……」
「なあ、香月。この話、誰かの人生と重ねられないか?」
 薫の話す言葉は、ハルカの人生をも重ね合わせていた。
 妾の子として生まれ、誰からも愛されず、期待さえされずに育った香月ハルカ。そして、厳しい現実は、将来さえも憎い父から医者になることを決められていた。いつもその決められた人生を卑下するばかりで、現実から逃げていたハルカ。父を憎むことで、自分の心を支えていた。
 そんなハルカを見て、薫も心配せずにはいられなかった。同じ医者を夢見るもの同士。痛いほど、カレの気持ちは察していた。カレを憎いなどと思った事はない。美緒のことは別として、薫の優しさがハルカを変えてあげられることができたらと切に願っていた。だからこそ、現実を受け入れ、強く生きて欲しかった。榊原の隠し子としてではなく、香月ハルカとして。
 タバコを灰皿に押し付けて、優しい目でハルカを見た。一瞬、何を言われているのかわからないハルカは、戸惑うように薫を見つめ直す。そして、彼の話す言葉に、耳を傾けた。

「誰しもが、最初から最高の立場を用意されてるわけじゃない。おまえにとって、自分の出生は耐え難く苦痛なのかもしれない。でもな、香月。それを悔やんで生きるだけには、勿体無い気がするんだよ」
「櫻井先生……」
「弱いのなら、強くなればいい。選ばれるのではなく、選ぶ立場になればいい。今はただ、父親の言うなりに医師になるしか道はないかもしれない。けれど将来、おまえが医師として一人前になった時、初めて道は開けるんじゃないか?  認めてもらえない立場なら、認めざるを得ないほど強くなれ。おまえになら、それができるよ」
 心臓が、掴まれたようだった。薫の言葉に、思わず涙が零れた。本当に本当に、嬉しかったのだ。口先だけの言葉ではない。実際に、自分の想像も付かないほどの厳しい場で、それをやってのけた薫が言う言葉だからこそ、深く重かった。心の中の闇がサァーっと吹き飛ぶようで、素直にその言葉を受け入れられた。一度は、美緒のことで憎みさえした男。自分を嫌っているとさえ思っていたのに、それどころか生き方を指し示してくれた。暗闇ばかりを歩いて、迷っていた自分の足元に、光を差し込んでくれた。
 やっぱり、人としてこの人以上に尊敬できる男などいない。ふいに押された背に、戸惑いながらも一歩を踏み出せた気がする。ハルカはわけもわからず零れ落ちる涙を拳で拭った。
「男のくせに、メソメソ泣くなよ」
「すみません……」
 そんなハルカを見て、自分の想いが伝わったことを悟ったのか、薫は優しい瞳で苦笑いした。
「安心しろ。俺は、出来る奴にしか、滅多なことは口にしない」
 きっとハルカならば、強い人間になれるだろう。過去の傷跡は、いずれ香月ハルカという人間を大きくし、そして支えてくれる。今の苦しみは、それまでの通過点に過ぎない。もしその苦しみでカレが立ち止まり迷ってしまっているのなら、それを導く光として、少しばかり手を差し伸べるのに、薫には理由などいらなかった。
 一ヶ月という薫にとっての期間。一見、それは長い月日なのかもしれない。けれど、香月ハルカにとってその一ヶ月が一生をも動かす力となるならば、惜しみなく使うことは苦ではなかった。今、目の前で涙を零す少年の姿を見て、やはり自分のしたことは間違いではなかったと、薫は強く確信した。
 そして、もう一つ。この一ヶ月は……美緒。君を、再びこの腕に抱きしめるために――。
「まあ、だからと言って、このことと美緒のことは別だけどな」
「わかってますよ……」
「おまえには悪いが、そろそろ美緒を返してもらおうか」
「そうですね」
「俺の言ったこと、この一ヶ月でせいぜい噛み締めただろう?」
「ええ。おかげさまで……」
 やはり、薫の渡米は計算でのことだったのかと、ハルカの中で確信する。そうでなければおかしな点が多数あったのだ。美緒は全く気付いていなかったが、この赴任劇も薫がわざと仕掛けたことなのではないかと疑っていた。
「美緒に何も言わずに姿を消したのは、わざとですか?」
「さあね」
「美緒が先生を忘れられないことを知ってて、わざと急にいなくなったんですよね?」
「だとしたら?」
「そうだとしたら、先生の賭けは大勝利ですよ。美緒は、あなたのことを、一時も忘れられなかったみたいだから」
「付け加えて、おまえに対する態度も、大幅に変わっただろう?」
 ニヤリと企む笑顔が印象的だった。やはり、計算づくでのことだったのかと思うと、呆れる反面天晴れだとも言いたくなる。結局皆、この男に踊らされていたのだ。全て、この男の計算どおりに。
「悔しいけど、美緒は先生でないとダメみたいです」
「そんなことは最初から承知の上だよ」
「俺じゃ……全然ダメでした」
「当たり前だろ。おまえじゃ、美緒は愛せないよ。俺の方が、おまえよりもずっと、美緒が必要だから」
「必要なのは、俺も一緒です」
「だが、美緒にとって必要なのはどっちかな。所詮、おまえには美緒と離れてまで心を繋ぎとめておける自信なんてないだろう」
「全く……先生は、残酷な人だ」
 目の前にいる完璧な男に、皮肉な言葉をぶつけた。
 ――完敗だ。到底、この男には勝てそうもない。
「美緒のことはもう諦めます。先生の策に溺れるのはもう御免ですから」
「自分から、はまったくせによく言うよ。だがまあ、これくらいで済んで良かったんじゃないか? 次は何をするかわからないからな」
「だけど、美緒をほったらかしにして、悲しませたことに関しては、怒ってるんですよ? だから、今は諦める、ということにしておきます」
「ほおー。じゃあまたいつか取り返しに来るわけ?」
「先生と対等に立てる時になれば、その時に必ず」
「だったら、余計なことするんじゃなかったかな。下手に強い男になられたら困るし」
「そんなこと、微塵も思ってないのに、よく言いますね」
 そう言って、互いに見つめ合い、笑った。以前のような険悪さはもうなかった。何も言葉はなくとも、穏やかな気持ちで向き合っている。
「俺のいない間、美緒はどうしてた?」
「気丈に振舞ってましたよ。逆にそれが、痛々しくも見えましたけど」
「今なら少しはわかるんじゃないか? 美緒の気持ちが」
「え……?」
「おまえを放っておけなかった美緒の気持ちだよ」
「ああ……そうかもしれませんね」
 苦笑いを浮かべた。そうか、言われて初めて自分を客観的に見つめ直せる。こんなに切ない思いを、彼女にもさせていたなんて、今考えるととても滑稽だった。本当に好きな人と離れてまで、自分を救おうとしたその優しさ、切なさを。それが理解できるようになったということは、自分が少しは成長したということなのかもしれない。
「結局俺は、美緒に何もしてあげられませんでした。むしろ、苦しめただけかもしれない」
「そんなことはないさ。あんまり自分を卑下するもんじゃない」
「そうでしょうか……」
「この俺を手こずらせたたんだ。少しは自信持っていいんじゃない?」
「アハハ。櫻井先生にそう言ってもらえると、少しは自信になるかもしれませんね」
「おまえの将来が楽しみだ。すごくね」
 そう言ってじっと見据える薫の視線を、逃げずに受け止める。そこにはもう怯えはなかった。対等に、一人の人間として向き合っていた。
 最初は弱かった香月ハルカ。少なくとも、カレを強くしたのは、美緒の存在があったからだろう。
「美緒には本当に、優しさをたくさんもらいました。一生分の愛情をもらったんじゃないかってくらい……。だから、今度は俺の番です」
「……ん?」
「彼女のためにしなくてはいけないことがある」
 そう言ったハルカの表情には、何かを決心したような強い意思があった。薫も、あえてその内容を問うことはしない。ハルカにはハルカなりに考えることがあることを察してくれていた。
 薫が一息つこうと、再びタバコに手を伸ばす。だがその時、懐かしい影が二人の瞳に映った。
「美緒……?」
 いつも彼女の姿を見つける渡り廊下を、懐かしい影が駆けていた。びっくりして薫が思わず立ち上がる。すると、ハルカは薫に視線を向け、そして一言呟いた。
「俺が、呼びました」
 少し、寂しそうな風をも纏ったハルカの声。薫は、愛しい彼女が来る予感に胸が高鳴り、そしてその時を待った。
 近づく足音。ガラッと勢いを付けて扉が開いた。
「先生……!!」
 捨てられた子猫が、やっと愛を見つけたかのような鮮やかな笑顔。
 瞳には、涙をいっぱいためているのに、その涙さえも、嬉しさのあまりに溢れるものなのだとすぐにわかった。
 ――初めて。初めて本当の美緒の笑顔を見た気がした。
 そして、ハルカにはけして見せなかった、彼女の涙も……。思い切り薫に抱きつく美緒の姿を優しく見つめた後、ハルカは俯いて、彼女の隣を通り過ぎた。
 良かったな、美緒――。
 そう嬉しく思いながら、けれどやはり、心の中は泣いてしまいそうだった。

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