氷花

4.瞳の奥の音色

 明るく賑わしい昼休みの教室には不似合いな、低く響く大人の男の声が、空間を制した。瞬間、凍りつく空気。声色には、静かながらも怒りがこめられていた。その言葉は、一人の少年に向いていたため、一斉にそちらに視線がむけられる。突き刺さる数々の視線の中、しかし、その少年は平然とした顔をして、無言で見つめ返すだけだった。
「今から職員室へこい。おまえに聞きたい事がある」
 そう言って、言葉の主は踵を返す。黙っているだけでも充分に貫禄のある顔立ちと、体格。それを手伝って、性格まで厳格であるこのクラスの世界史教師のお呼びとあらば、周りの人間が騒ぎ出すのも無理はなかった。
 彼が立ち去った瞬間、一瞬凍りついた教室が、またざわめきを取り戻す。生活指導も受け持っている教師が直々に呼び出しにきたのだ。きっと、ヤバイことでもやってしまったのだと、好奇の目が少年に注がれた。
 しかし、言葉を直接かけられた張本人は、涼しい顔をして、ゆっくりと重い腰をあげ、教室を立ち去った。途中、大丈夫か、などと声をかけてくる級友には目もくれず、いつものようにただ面倒くさそうに歩くだけだった。


「どういうことだ、この答案は」
「どういうことって、見ての通りです」
「見てのとおりって……ふざけるな! こっちが真面目に聞いているのに、その態度はなんだ!」
 真面目に聞いているという割りには、ハルカが職員室に訪れた時から声を荒げていた。右手に先日行った中間試験の答案用紙をもち、顔は真っ赤に紅潮させ、時折机を叩く行為さえ見せていた。そんな教師を前にして、まるでつまらないテレビでも見ているかのようにしらっとした態度を取るハルカだったが、さすがに、このまま放っておくのも周りの迷惑になるのではないかと考えだしていた。実際、職員室にいる教師だけでなく、職員室の外にも、好奇心旺盛な生徒たちが群がっている様子が見えたのだ。
 しかたなく、斜めに座っていた姿勢を、教師に真っ直ぐになるように戻す。
「すいません。勉強してなかったんで、わからなかったんです」
「わからなかったあ? そんな言い訳が通用すると思ってるのか」
「でも、本当なんだから仕方がないでしょう」
「そんな言い訳は俺には通用しないぞ。おまえはただ単に、俺をおちょくっているとしか思えん」
 それもそのはず。教師が手に持っている答案用紙は、白紙だった。答案どころか、名前さえも記入されていない。こんなものを提出されては、おちょくられているとしか思えないのも無理はなかった。わからなかったという理由が通用しない一番の理由として、今回の中間試験は、ほとんどが選択問題だったことにある。わからないにしても、解く気があるのなら、何らかの答えを記入するのが当然だと、そう言いたいのだった。
「おちょくっているなんか……そんなことないです」
「何を考えているのかは知らないが、俺の授業でこういうことをするとはいい度胸だな。転校して間もないというのに、何か気に入らないことでもあるっていうのか」
 ――そういう傲慢な態度が気に入らないんだよ。
 そう言いかけたが、口を噤む。
 元々この教師が好きではないが、ハルカが答案を白紙で出した理由は、そんな下らないところにあるわけではなかった。誰にもわかりはしない、混沌とした孤独な闇が、自然とそうさせてしまったのだ。いつも唐突にハルカを襲っては、どうしようもなく身動きをとれなくする。彼さえも、自由にならない孤独な闇に――。
「何はともあれ、こんなことをしでかした以上、ちゃんと罰は受けてもらうからな」
「罰? わざとじゃないと言っているのにですか」
「おまえの成績は、こっちだってちゃんと知っての上だ。世界史に限らず、全教科においてもトップクラスだろう。おまえの編入試験の成績からして、今回の問題ごとき、答えられないわけないとわかってるんだよ」
「はあ……」
「わからなかったとまだ言い張るならば勝手だが、今後こんなことがあれば、ただではおかんぞ」
 太い腕が、ハルカの細い首元を掴んだ。シャツをギュッと掴み、締め上げる。途端、ハルカが少し苦しい顔をしたが、痛みはすぐにひいた。ふと自分の首元を見ると、白くて細い手が太い腕を覆っていた。
「まあまあ。先生もそうカッカなさらずに。香月君も疲れていたのかもしれないですし」
「真中……」
「私も疲れてしまうと、何も手に付かなくなることがあります。先生もそういうことあるでしょう?」
「いや、俺は……」
「先生ほど毎日大変なお仕事をされている方だったら、疲れも相当なものなんでしょうね。ごめんなさい、いつも私たち生徒が心配をかけてしまって」
「い、いや……別に真中が謝ることでは……」
 知らぬ間に、ペースは美緒のものになっていた。ハルカを隠すように前に立ちはだかり、教師の手をとって、優しく話しかけている。教師も一目置いている優等生の美緒が言うだけあって、怒りが崩れかけていた。もう、ハルカのことなど目に入っていない。生徒でなければ絶対に手を出すであろう美少女が、自分の手を握り、優しく語りかけているのだ。しかも、自分を慈しむような眼差しで見つめながら。
 教師の怒りが一段落したところで、周りの張り詰めていた空気が和らいだことをハルカは感じずにはいられなかった。どうやら、無意識に皆緊張していたらしい。方々から、ため息に似た息遣いが聞こえた。
「先生、私のテストはどうでしたか? 留学していたせいで、勉強していないところがたくさん出てしまったから、あまり点数はよくないと思うんですけど」
「いや、平均点以上はちゃんととっていたし、学年順位で見ても、トップクラスだから安心しなさい」
「そうですか? でも、やっぱり勉強不足が気になっていたんで、放課後残って勉強しようと思うんですけど……」
「それはいい心がけだが……」
「香月君も一緒に」
「香月も?」
 そう言って、美緒と教師の二人がハルカを見た。急に向けられた視線に、どう対応していいのかわからず、ハルカは無表情のまま何も喋ることができない。
 すると、美緒が、ハルカを見て少しだけ微笑んだ。まるで、安心して、そう言われているような、母のような優しい笑顔だった。
「それで香月君も許してもらえませんか? 私がちゃんと一緒に勉強しますし、次からはこんなこともないと思いますから」
「ま、まあ、真中がそう言うのなら……」
「本当ですか? 良かった。私では役に立たないんじゃないかと思ったから、怒られるかと思いました」
「先生が真中を怒るわけないじゃないか。くれぐれも香月を指導してやってくれ。おい、香月」
 美緒を見つめているときの優しい表情から、厳しい表情に戻り、ハルカを見据える。やはり、心の奥底では怒りは消えていないらしい。とりあえず、美緒という精神安定剤でこの場は収まっている、そんな感じだ。
「はい」
「今回だけは特別に許してやるが、今後はこんなことのないように」
「…………」
「聞いてるのか!」
「はい……」
「じゃあ真中、よろしく頼む」
 美緒を見て微笑んだ。気色の悪いオヤジだ、とふと感じさせる笑顔だった。しかし、そんな教師を気にもせず、美緒は、はいと返事をしてニッコリと笑った。


「ねえ。なんで答案用紙白紙で出したの?」
「どうでもいいだろ」
「どうでも良くないよ。私、監視役だもん」
「そんなの、おまえが勝手に申し出たんじゃないか」
「まあ、そうなんだけどね」
 ふふっと美緒が小さく笑った。
 もう何度も二人で訪れている図書室。大きなテーブルの角に、二人して並んで座っていた。真横ではなく、角を中心に斜め方向で座っていることになるので、自然とお互いの表情は見てとれる。美緒は頬杖をつき、シェイクスピアを読み耽るハルカをじっと見つめていた。けして美緒の方へ視線を返すことはない。言葉を返すことはあったとしても。
「よくは知らないんだけど、ハルカって頭いいんだってね」
「藤井か?」
「え? うん、そう。うちの編入試験ってレベル高いのに、それでもほぼ満点で合格したって言ってたから」
「満点だったかなんて知らない。俺は、問題を解いただけだから」
 本当に、言われるがままに問題を解いた、それだけのことだった。この学校に入りたいだとか、いい点を出さなければ、という気持ちは一切なかった。ただ、機械的にこなした。ハルカにとってはそれだけのことだったのだ。あの頃のカレには、そうするだけで精一杯だった。
「頭いいのに、ちゃんとテスト受けないなんてもったいないよ。損してるんだよ?」
 美緒が頬杖をやめ、腕をテーブルの上に置いた途端、胸のあたりから、チリンという音が聞こえた。懐かしいその音に、瞬間ハルカの心が揺れた。伏せていた顔を上げて、美緒に視線を向ける。
「鈴?」
「え?」
「さっき、チリンって」
「ああ。これのこと?」
 胸ポケットから、携帯電話を取り出した。ストラップ代わりに、古風な鈴の飾りが付いている。けして大きなものではなく、小さな小さな鈴だった。
 しかし似ていた。あの音に……。
「珍しいのな。携帯に鈴なんかつけて」
「そうだね。でも、なんか鈴の音って安心するんだよね。ちゃんとここにいるって感じがして」
「ふーん」
「よく変なのって言われるんだけどね」
「変じゃない」
「……そう?」
 返ってきた言葉が意外なもので、美緒はハルカをじっと見つめてしまった。てっきり、皆が言うように変だと言われるのだと思っていたのだ。あまり本心を表に出さないハルカなら、尚更そうだと思っていたのに。
「俺も好きだから、鈴の音。懐かしい気分になる」
「懐かしい……?」
「俺の母親、いつも鈴の音鳴らしてたんだ。財布にも、鍵にも、小さな鈴付けてた。一人で家に留守番してても、その音が鳴ると、母さんが帰ってきたってすぐに気づけたりしたんだ」
「そう……なんだ」
「俺は男だから、そんなのは付けたりしないけど、でも鈴の音を聞くたびになんだか穏やかな気分になる」
「ふーん」
「でも、複雑な気分になったりもするけどな」
 そう言って、小さく苦笑した。
 自分の母親のことを過去のことのように話すハルカに、美緒は上手く言葉が返せなかった。ましてや、普段自分のことを喋ろうとしないハルカが、こんなに饒舌になるなんて、特別な感じがした。聞かなくともなんとなくわかったのだ。ハルカの母は、もうこの世にはいない人なのではないかと。そして、その話題には、あえて触れない方がいいのかもしれない、ということも。
 美緒を見つめながら、彼女の瞳の奥を通して何かを思い出そうとしているハルカの視線が、何よりの証拠だった。

「つーか、そんなことおまえに言っても意味ないよな。悪い」
「ううん、そんなことないよ。ハルカが自分から話してくれて嬉しいよ」
 美緒はからかうでなく、ただ優しくハルカに微笑みかけた。母のような、全てを包み込むような優しい笑顔。微笑んでいなくとも、見つめるだけで吸い込まれそうになるその大きな瞳に、ハルカは初めて見た時から惹かれていた。優しさだけでなく、強さも持っている、そんな深い瞳だった。ハルカ自身に一番欠けているものを持っている人、それが美緒だった。
「俺……俺、逃げてるんだ。だから、答案も白紙で出したりして」
「何から?」
「さあ……なんだろうな。俺……自身かな」
「ハルカ……自身?」
「どうしたらいいのか時々わからなくなる。自分で自分が嫌になる……」
 自分にかけられる期待。その期待が、信頼の上に成り立つものではなく、誰かの代替として向けられたことに、反発を覚えずにはいられなかった。
『――がいなくなった今、頼りはおまえだけだ』
 嫌味に笑いながら、自分に向けられた言葉が耳から離れない。いつも、見下すように粘着質にかけられる言葉。ろくに会ったこともなかった、自分の父親。けして愛してなどいていなかった。自分の辞書に、憎悪というものがあるのなら、その代名詞として『父親』という言葉を使いたいくらいだった。そんな者から向けられた期待を、あえて逆手に取って自分が優位に立とうと思えるほど、強くなどなかった。
 無意識に、『逃げ』という言葉の闇が、ハルカをいつも支配しかけている。そして、それに光明を差すのが、幼き頃の母の優しさ。僅かながら感じた幸せの記憶を支えに、ずっとずっと、この闇に耐えなければならない。
「おまえは……どうしてそんなに優しく微笑むことができるんだろうな」
「え?」
「俺も、なりたいな……そんな風に」
「ハルカ……?」
 憧れにも似た、美緒の存在。ふと、闇に落ちそうになる瞬間、スッと光を差し込んでくれる。自分がここにいるんだ、ということを忘れないでいさせてくれる。
 美緒に出会ってからというもの、自分が笑っているということに、ふと気づかされるが多くなった。知らず知らず、優しい気持ちにもなることができた。母に似た美緒の笑顔は、それでいてけして母のものではなく、それを超えるほどの鮮やかさを兼ね備えていた。
 本気で憧れた。そんな彼女の存在に――。
「ごめん、俺帰るわ」
「え……うん。じゃあ私も帰ろうかな」
「俺、一人で帰るから」
「そう……? じゃあ、もうちょっと残るね?」
「ああ。気を付けてな」
 美緒は少し戸惑い気味に、ハルカを見送った。美緒を見つめながら見せた悲しそうなハルカの笑顔に不安を覚えていた。
 今日のハルカは、初めて美緒に見せる表情ばかりだった。時折、自分のことを話しだしたりして……。何も問い返すことはなかったけれど、ハルカの中で何かが起こっていることは、美緒も気づいていた。そして、それに自分という存在が関わっていることも。
 何も言ってあげられないもどかしさと、言ってはいけないと思う自制心に、戸惑うばかりだったけれど、去っていくハルカの背を見つめながら、ただただ、心配せずにはいられなかった。
 ハルカの心の闇に触れた。そう思わずにはいられない一日になってしまった。


「あーあ。女ってああいう哀愁漂う男に弱いのよねえ。真中さんも……なんて、そんなことにならなければいいけど」
 少し隙間を空けた窓に向けて、静かに煙を吐く。綺麗にマニキュアを塗った細い指に、粋にタバコを絡めながら、小さな声で呟いた。
 本棚にもたれていた背を起こし、タバコを簡易型の灰皿に押し込むと、栗色のウェーブの髪をした麗しの女教師は保健室へと向かった。
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