氷花

5.シガレット

 ガラッという引き戸の音とともに、姿を現したのは懐かしい造形だった。
「珍しいな」
 相手の顔をチラリと見るなり、再びパソコン画面へと視線を戻すと、薫はポツリとそう呟いた。カツカツとハイヒールを鳴らして、机のそばまで近寄ると、彼女は薫のもたれる椅子の背に手をかけ、少し体を傾けた。
「そうね。ここに来るのはいつぶりかしら」
「とりあえずはっきり言えるのは、一ヶ月以上前というところかな」
「一ヶ月だったっけ? 休職してたの」
「ああ。そんなもんだ」
 もっと長くいなかったように感じたのは、主観の問題かもしれない。彼がいない日々は、彼女にとっては心を癒すのに絶好の機会となった。毎日顔を合わすのでは、忘れたくとも忘れられるはずもない。しかし、一ヶ月という期間は長かったのか、短かったのか……。やけぼっくいに火がついたとも言える大人の恋心は、今でもまだ、心の奥底で燻っているかのようだった。
 会えなかった日々はやはり寂しいもので、もう叶わない恋だとわかっていても、時折思い出しては涙した。今となってはもう涙を流すことはないし、薫に対して激しい恋心を抱いているわけではない。友人の佐伯祐介のことも、恋愛対象として見られるようになるほど仲は進展していた。
 しかし、一度は本気で愛した男だ。こうして、目の前にその姿を見せ付けられると、愛していたのがつい数分前かのように、鮮明に心に蘇ってくる。そっと手を伸ばして、触れたくなってしまう。いや、触れるだけでなく、触れられたいと。
 いつまでも忘れられないなんて、私はなんてバカな女なのだろう、と思いながら、麻里は座っている薫の後頭部に自分の背を合わせ少し天井を見上げるようにため息をついた。
「どうした、お疲れのようだな」
「別に。それより、ちょっとタバコ吸ってもいい?」
「おまえ、タバコなんて吸わないだろう」
「吸うわよ。タバコくらい」
 さっき図書室でしまったばかりのタバコを、スカートのポケットから取り出した。ついでに、ライターと簡易式の灰皿も取り出したが、灰皿だけは、またポケットに戻した。
 麻里がタバコを吸うようになったのは、大学に入ってすぐからだ。当然、薫と付き合っている時も吸っていたし、今でもやめていない。薫が知らないのは、麻里がいつもタバコを吸う素振りを見せなかったからだ。女がタバコを吸うなんてみっともないと、思われるのが怖かった。
 しかし、今となってはどうだろう。思いの丈を全てぶつけ砕け散った今は、もう隠すこともなく、自然体で振舞えることに気楽さを感じた。今さらどうこう思われたって、また昔のように元に戻れるわけではない。そう思うと、心が軽くなる反面、虚しさが黒い闇のように麻里の心を包んだ。女を捨てたような気分にさえなった。
「今なら別に構わないよ。生徒も誰もいないから」
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく」

 薫は自分がいつも使っている灰皿を机に置くと、立ち上がり窓のそばまで歩み寄った。タバコの煙が抜けるように十センチほど窓が開けられ、この近くで吸うようにと麻里を促した。華奢で綺麗な指に、タバコを一本絡ませると、ライターで火をつけながら息を軽く吸った。口紅が綺麗に塗られた唇から細く煙を吐く。
 女性がタバコを吸うのも悪くないな、と薫はふと思った。それくらい、タバコを吸うという行為が、麻里には似合っていた。
「しかし意外だな。結城先生がタバコを吸うとは」
「これでも学生時代から吸っていたのよ。あなたはちっとも気付かなかったけれど」
「全く気付かなかった」
「まあ、私もばれないように必死で隠してたしね。あなたに会う前は歯磨きをかかさなかったし、一緒にいる時、隠れてタバコを吸った後でも、ガムを噛んだりしていたから」
「そういや、君はいつもミントの香りがするなって思ってたよ」
「キスした後とか?」
 二人して、クスクスと笑った。昔のことをこうやって笑い話にできるようになったことに、二人とも安堵していた。一ヶ月前はあんなに激情を見せた麻里が、今はこうして自然体で薫の前にいる。昔は見えていなかった麻里の本来の姿が見えて、薫は不思議な感覚を覚えた。
 ――まるで昔と今では別人のようだな。
 女性は、恋をすると変わるというが、逆を言えば、恋が終わればまた変わるということなのだろう。その証拠に、この女のことならなんでも知っていると思っていた麻里が、今は別人のように見えてならかった。
「さっきね、図書室に行っていたのよ」
「図書室? へえ……」
 図書室、という言葉を聞いて、 美緒の姿がピンと頭の中に浮かんだ。
 その薫の様子を察したのか、麻里が次に出した言葉は、彼女のことだった。
「真中さんを見かけたわ。何か楽しそうに談笑してた」
「本来、図書室は談笑の場じゃないんだけどな」
 藤井とでもおしゃべりしてたのかな、と、頭の中でその時の 美緒の様子を思い浮かべた。楽しそうに笑う 美緒の笑顔が、薫の心の中にぽっと火を灯したように温かくさせた。しかし、麻里が続ける言葉は、その想像を見事に打ち破った。
「あの子、男の子とは一切遊んだりしないのかと思ってたんだけど、そんなこともないのね」
「ん?」
「男の子と隣に座って仲良く話してたわ」
「男の子?」
「確か、香月ハルカと言ったかしら。真中さんと同じクラスの男の子よ」
 先日ここへ来た時のハルカの様子が頭に浮かんだ。麗しい外見とは似つかない、暗い表情をした男子生徒だ。なぜカレと 美緒が一緒にいたのかはわからないが、意外な風でもなかった。そう思ったことにびっくりしなかったのが、一番薫には不可解だったけれど……。
「とっても意味深な感じだったわよ。時々見つめあったりして。何も言わずじっとよ?」
「何か、クラスのこととかで重要な話でもしてたんじゃないのか?」
「そんな風には感じられなかったけど。少なくともカレは、彼女に対して普通の友達以上の感情を持っているように見えたわ」
「何か聞いたのか?」
「何も聞いてない。ただ……なんとなくね。なんとなくだけど、カレは真中さんを特別な人だと認識しているように感じたのよ」
「へえ……」
「ああいう暗くて、自分の思うことは何も話さないような子が、あんな風に切なそうに真中さんを見るなんて、普通だったら考えられないもの」
 女のカンというのは恐ろしい。何気なく口にしている麻里だが、言葉一つ一つとってみても、どれも信憑性を帯びているようにしか聞こえなかった。麻里の言う言葉の全てに、映像がくっついて頭の中で再現されてしまう。嫉妬に似た感情が、薫の心をえぐった。
 そんなハルカに対し、 美緒はどうだったのだろうと聞いてみたくなったが、聞くまでもなく麻里が話し出した。
「でも、真中さんは別に普通だったかな。とてもいい子だから、ただほっとけなかったっていう感じ」
「元々、あの二人は仲がいいみたいだからな」
 自分に言い聞かせるように言った。この間だって 美緒を迎えに来ていたし、その前だって二人で図書室にいる姿を見かけた。別にそんな二人を見ても、ただの友達にしか見えなかった。しかし、麻里の言う言葉がどうしても心に引っかかって離れなかった。
「ふーん。まあ、真中さんにはあなたがいるものね。あなたがいるから留学期間だって早めて帰ってきたんでしょ?」
「さあ、そこらへんのことは知らないけど」
「嘘。絶対あなたが絡んでるに違いないじゃない」
 本当に、その辺のことを薫は知らなかった。美緒が一人で決断したことなのだ。彼女は、そうやって自分の進路や行動を決めるときに、薫に頼らないということを、彼は十分承知している。だからこそ、時折寂しくなるのだった。
「あれは真中の決めたことだから、俺は何も言ってないよ。帰ってきてくれたことは、まあ……嬉しいけどね」
「私にはわかるわ。同じ相手を好きになった同士だもの。あなたの気持ちを聞いて、帰らないなんて、そんなバカな女いるわけないじゃない」
「買いかぶりだよ」
「相変わらず謙遜ね」
 その優しい笑顔の奥に考えていることは、けして誰にも見せないくせに。麻里は、薫のポーカーフェイスを見つめながら、そう思った。
 確かに薫が恋人ならば、他の男になど目が行くわけがない。しかし、香月ハルカの持つ魅力は、薫とはまた違う部類で輝いて見えた。薫が完璧ならば、ハルカはまだ未完成だ。その未完成さ、曖昧さが、どうしても女の心を惹き付けてしまう気がした。未完成ゆえに、見えてしまう切ない表情。時折見え隠れする心の闇も、守ってあげたいと思う母性をくすぐってしまう。
 普通の女ならば、薫とハルカを比較して、迷いなく薫を選ぶかもしれない。けれど、誰よりも優しい彼女ならば……。優しさが邪魔をして、ハルカを放っておけないのではないか。彼を心配するあまり、その気持ちが恋に変わったりはしないのだろうか。そんな心配が、麻里を悩ませていた。
「でも、あの子には気をつけた方がいいわよ」
「え?」
「香月ハルカよ。なんだかあの子、気になるのよね」
「そうか?」
 変わらずに微笑みながら、薫は平気だと言うように麻里に返事を返した。
「真中さんはあなたのものでしょ? せいぜい香月ハルカに取られないように気をつけなさいってこと」
「真中は俺のものじゃないよ」
「はあ? まだしらばっくれる気? あなたたちが付き合ってるのなんて、私には隠したって意味ないわよ」
「違う。そういう意味じゃないよ」
 あまりにも麻里の言うことが的を外れていて、薫は声を立てて笑ってしまった。そんな彼の様子に、じゃあ何よ、と麻里が怪訝な表情を浮かべる。
「真中は、『モノ』じゃないってことだよ。あいつにはあいつの意思がある。誰のモノなんかにもならない」
「相変わらず綺麗事を言うわね」
「本当のことだよ」
 美緒はけして薫の所有物なんかではない。互いに一人の人間なのだ。だから、求めつづけるし、求められたいとも思う。幸せにしたいし、幸せにされたいとも願うのだろう。所有物ならば、欲などありはしない。すでに自分のモノである物を、欲しいとは願わない。
 美緒を一人の愛する女性として尊重しているからこそ、薫はけして、彼女を自分の女だとか、モノという表現をしたくはなかった。
「そういうことサラリと言ってしまうところ、やっぱり男前ね」
「そうでもないと思うけど?」
「今になってまた、そんなあなたに愛される真中さんを羨ましく思ったわ」
 嫌味でなく、素直にそう思った。
 彼と一緒にいると、自分もこういった人間になれるのではないか。優しく、強く、そんな素敵な人間になれるのではないかと思うのだ。しかし、その彼の隣にいる彼女のことを思うと、その考えは打ち消された。
 違うのだ。
 彼女自信も、彼と同じように人の気持ちを大事にできる人だった。だからこそ、彼たちはつり合っているのだと。
「私、一つ気になることがあるのよね」
 タバコの吸殻を灰皿に押し付けながら、麻里が複雑な表情を浮かべながら話し始めた。
「気になること?」
「うん。さっきも話してた香月ハルカのことだけど」
「香月がどうかしたのか?」
「カレ、ちょうど真中さんが帰ってくる半月前くらいに転校してきたじゃない?」
「ああ、そういえばそうだな」
「転校の時期にしては少しおかしいでしょ?」
「まあ、そう言われてみればそうかもな」
 大して気にするでもなく答える薫に対し、麻里は腕を組み、深く考えるように首を捻った。
「私、カレのクラスの英語の授業持ってるじゃない? それで、ちょっと気になっていたのよね。なんでこんな時期に転校してきたのかなって」
「突然の何かがあったんだろう」
 誰にでもやむをえない事情というものはある。しかし、それだけの理由では麻里は納得しなかった。
「それはそうだと思うのよ。でも例えば、引っ越したから、という理由なら納得できるんだけど、カレは転校前も今も同じ住所なの。それに……」
「それに?」
「例えば金銭的理由だったのだとしたら、わざわざここへはこないと思うわ」
 確かに、ここは私立高校である故に、金銭的に苦しいのであれば転校してくるのは不可解だ。それでなくとも、有名進学校であるこの学校に通うということは、制服、教科書、参考書類だけでも多額の金銭がかかるというのはわかりきったことである。だからと言って、別に薫が気にするようなことではなかった。元より、生徒のプライベートに関与する主義ではない。
「カレが転校してくる前に私、理事長室でカレの話をしている人物を見たのよ。今度ここに転校させたい人間がいるが、急遽お願いできないか、という内容だったの」
「親だろう」
「いいえ。それが違うのよ。以前どこかで見かけた顔で、私も最初は誰だかわからなかったんだけど、この間思い出したの。あれは、榊原総合病院の院長だったわ」
「榊原総合病院の院長……」
 その人物は、この学校に多額の寄付をしている総合病院の院長だった。理事長の古くからの友人ということらしく、この学園にも時折顔を見せていた。医師である薫の腕を高く評価しており、時折保健室に顔を見せては、自分の病院に来ないかと誘いを受けていた。全く相手にしていない薫だったが、その誘いが、社交辞令によるものではなく、本気で言っているということも薄々感じていた。
「なんで、榊原院長は、カレをこの学園に入れたのかしら……」
 いつも薄笑いを浮かべた表情。話し方は粘着質で、その言葉の裏にはいつも薄汚れた印象を受ける男だった。
 麻里の言葉を遠くに聞きながら、薫は男のことを思い出していた。

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