氷花

6.花の哀愁、氷の美貌

 広くて暗い部屋の中で、小さなルームライトだけがぼおっと光を放っていた。その光を見つめながら、冷たいガラスのテーブルの上に頬を付ける。無心のまま、小さくため息をつくと、ガラスが白く曇った。
 ――チリン。
 頭の中で鈴が鳴る。
 ――チリン。
 何度も何度も、頭の中の鈴の音がやまない。
 思い出したのは、母の面影ではなく、彼女の笑顔だった。携帯ストラップの鈴の音が、ずっと頭から離れない。

 自分の気持ちをうっかり彼女に喋ってしまったことは失敗だった。あの時自分を心配そうに見つめていた彼女の表情を思い出すたび、後悔だけが募る。自分はまたしても、他人を悲しませることしかできないのかと、落胆した。
 しかしあの場は、どうしようもなかったのだ。なぜか美緒を目の前にすると、心のベールを剥がされてしまう。どんなに抗っても、あの笑顔を見ていると自分も嬉々とし、それと共に、優しさに縋ってしまいたいという気持ちも生まれてしまうのだ。自分の気持ちを吐露してしまったのも、自然の成り行きとしか言えなかった。
 ――チリン。
 また鈴の音がなった。あの鈴の音は、自分を救ってくれるかもしれない音だと、ふと思った。
 過去ではなく、未来を生きるために。


「入るぞ」
 コンコンというノックの後、声がかけられると同時に扉が開いた。全くノックの意味を成してない。扉の向こうに誰がいようといまいと、自分には関係ないとでも言いたげに、いつも傲慢に入ってくる。
 しかたがないと言えばしかたがない。この部屋、このマンションは、彼に与えられたものなのだから。それがまた、ハルカの神経を逆撫でしてしかたがなかった。
 どっしりとした体躯に、少し低めの声、整えられた髭。目はいつも野心に満ち溢れていた。少し、薄汚れた光を宿しながら。相手の顔をチラリと見ると、ハルカは視線を外した。聞こえるか聞こえないかほどの小さな舌打ちをして。
「暗い部屋だな。電気くらいつけたらどうだ」
「ほっとけよ」
 ハルカの言葉など意に介さず、男はドアの左手にある蛍光灯のスイッチをパチンと入れた。途端、あらわになるハルカの顔が、眩しさに歪む。
「どうだハルカ。学校の方は」
「別に……」
「前の学校よりはずっと環境もいいだろう。一流の教師も揃っている」
「別に前と変わった事もないですよ。今も昔も、俺は俺ですから」
「おまえは以前からずっと成績が良かったからな。しかしお父さんとしても安心だ。あの学校ならまずおまえが不自由をすることはないだろう」
 お父さんと言う言葉を聞いて、背筋に冷たいものが通った。寒気がするほどゾッとした。この男と同じ血が通っている。そう思うと、自分の体を滅多刺しにして、おぞましい血を抜き取ってやりたいと思うほどだ。
 けれど抗えない。この男と血がつながっているということは、変えられようのない事実なのだから。
「わかっているだろうとは思うが、あまり目立ったことはするなよ」
「ええ」
「なにせ私がおまえをこの学校に入れたというのは、誰にも知られていないことだからな。おまえがあまり目立ったことをして、瑠璃子の耳にでも入ったら……」
「わかってますって」
 一人、言い訳がましく語る男の言葉を、きつい口調で遮った。
「そうだな。おまえはちゃんと自分の立場をわきまえてる賢い子だから」
「心配しなくても、俺は香月ハルカとして普通に過ごすだけです。榊原とは、何の関係もないですから……」
 消え入りそうな声でハルカが答えた。悔しくてたまらない。唇を噛み締め、気持ちが溢れそうになるのをぐっと堪えた。
 瑠璃子とは、榊原の妻だ。今までに一度も会ったことはないが、ハルカにとっては、義理の母ということになるのだろうか。いや、瑠璃子がハルカのことを知らないのだから、そういう言い方は不自然でしかなかった。
 『香月』という苗字は、母の姓である。ハルカは榊原の愛人との間にできた隠し子で、中学生の頃までは、この家で母と一緒に住んでいた。今住んでいるマンションは、榊原に与えられたものだ。母の死後も、行き場のなかったハルカは、それまでの生活と変わらずここで暮らしていた。榊原に与えられた部屋というのに反発を覚えたが、母の面影があちこちに残るこの部屋を離れることは心苦しかったのだ。
 母の生前。時折榊原が家にやってきては、食事をしたり泊まって行ったりと夫婦ごっこのような生活を送っていた。何も知らない人間が見れば、仲の良い夫婦。けれど、実際はやはり、妾生活以外の何者でもなかった。榊原は、気が向いた時だけハルカにも父親の表情を向けた。それもほんの気紛れで、榊原が来ている時のほとんどは、母と榊原の二人だけで過ごしているに過ぎない。母と榊原の情事を見たことさえあった。榊原がくるたび、母は女の顔に変わり、そして自分の居場所はなくなった。その度に、ハルカは父親を憎んだ。脳内で、何度殺したことだろう。
 しかし、母にとっては、榊原が全てだった。たとえ妾という立場でも、そばにいられるならば文句一つ言わなかった。自分という存在は、榊原との関係を絶やすことのない唯一の鍵とでも思っているのか、彼女はハルカを溺愛したのだった。
 今思えば、母はハルカを見ながらも、その奥に榊原の姿を見ていたのかもしれない。彼に会えないときのスペアとして……。自分に向けられる愛情は、この男を通してのものなのだと思うと、泣きたくなるほど悔しい思いもした。大好きだった母が、嫌いになる瞬間。そのどれも、全て母の隣には榊原がいた。
 そんな母の存在を、榊原の妻である瑠璃子は知らない。正確に言えば、母と、ハルカと、榊原以外の誰もだ。だからこそ榊原は怯えていた。香月ハルカという存在が、妻や周囲の人間に知られることを。愛人だけならば、そう怯えることもなかっただろう。しかし、その妾との間に子供まで作っていては、言い訳の余地もないというものだ。
 最近になって、時折ここへやってきては、自分の存在を否定していく父を、愛せるはずなどありはしない。もうずっとこうやって隠れて生きるような生活を十七年も過ごしているハルカにとって、目立たないように生きることは、そう苦ではなかった。
「おまえの兄さんと同じ高校に入れてやることができて、お父さんとしても嬉しい限りだよ。せいぜい頑張っていい医者になってくれ。期待してるからな」
「……はい」
「おまえしかいないんだ。おまえが医者になれば、母さんも喜ぶだろう」
「…………」
「じゃあ、また様子見に来るから」
 おまえしかいないなどと、よく言ったものだと、ハルカは歪んだ笑みを浮かべた。そんな息子の様子をとりわけ気にする風もなく、粘着質で嫌味な声をかけた後、榊原はそそくさと部屋を出た。
 同じ空気の中にいたと思うと、吐き気がする。以前は榊原の人間と同じ高校に通わす気などなかったくせに。ハルカは無言のまま、思った。

 彼の母が三年前に死んだ後、彼は近所にある公立の高校へと進学した。それが榊原の希望であり、母の希望でもあった。慎ましやかに、目立たずに生きるには、そうするのが至極当然だったのだ。
 母の死後、榊原がここへ訪れることはなく、生活は穏やかなものとなった。変わらなかったのは、母の生前から毎月振り込まれていた金が、ハルカの口座に溜まっていくことだった。そんな生活に不満はなかった。憎い男ともう顔を合わすことがないのかと思うと、心の闇が吹き飛ぶ思いだった。
 しかし、そんな生活も一変した。ことの発端は、榊原と瑠璃子の間の長男が大学を卒業後失踪したことにあった。彼以外に榊原と瑠璃子の間には子供はおらず、後を継げるものがいなくなってしまったのだ。途端、榊原の目がハルカへと向いた。ある日突然、失踪した息子が通っていた高校へと転校させると言い出し、おまけに、医者になれというのだった。
 今までろくに息子として接したこともなければ、むしろいらない存在だと思われていたに違いないのに、本妻の息子がいなくなって、急に自分へとかけられた期待。最初から愛されでもしていたなら、反発もしなかったかもしれない。誰かの代わりなどではなければ……。普通の人間なら、憎い父親と同じ職業になれと言われても嫌だと言い張るだろう。しかし、理不尽だと思いつつも、ハルカは逆らえなかった。
 面倒を見て貰っていたという負い目もある。それよりも、一番先に脳裏に浮かんだのは、母の笑顔だった。息子の目から見ても、母は、榊原のそばにいる時が一番美しかった。そんな榊原の望みの一つも息子が叶える気がないと知ったら、母はどんなに悲しい思いをするだろう、そう思ったのだ。生前、榊原のことを一度だって良く言ったことのないハルカだったが、そんな彼を見る度に、母は悲しそうな表情を浮かべていたのだった。
 ――結局自分は、自分の意思や気持ちなどないのかもしれない。


 聞きなれた音を耳にして、咄嗟に鞄から携帯を取り出した。
 チリン。と、可愛らしい鈴の音が鳴った。
「はい、もしもし」
 相手を確認して、通話ボタンを押しながら、携帯を耳に当てた。少しの沈黙の後、電話特有の曇った声が、携帯の向こうから聞こえてきた。
『真中? ……俺』
 電話の相手はハルカだった。カレが電話をしてくるのは初めてのことで、美緒は少しとまどったが、すぐに平常心へと戻ると、明るい声で応対した。
「どうしたの? 急に」
『別にどうもしないんだけど……さ……。今日は悪かったな、と思って』
「気にしないで。私も別に気にしてないから」
 ハルカが何を言わんとしているかは、美緒にはすぐにわかった。図書室での、ハルカの不可解な行動や言動のことだろう。その件に関しては、あえて触れまいと思っているし、ハルカのことを思うと、とても聴ける雰囲気ではなかった。
 けれど、あえてこうやって電話をしてきてくれたことに、美緒は少し安心した。気にしていなかった、というのは少々嘘があったからだ。
『俺、不器用だからさ……だから、自分の気持ちとか、ちゃんと言えなくて、おまえのこと困らせて……本当にごめん』
「いいよ。そんなこと気にしなくて」
『おまえの悲しい顔見たくないって思ってるのに……結局、困らせて、不安にさせたかもしれない』
「大丈夫。私はどっちかっていうと、色々話してくれたことが嬉しかったりするから」
『気……遣わせてるよな』
 電話越しから聞こえてくるハルカの声は、いつものぶっきらぼうさは全くなく、弱々しい雰囲気さえ感じさせるものだった。
 小さく震えている……。そう思わせる声だったのだ。
 美緒に対する優しさが、逆に痛々しく思える。いつものように冷たい話し方ならば、こんなに心配することはないのに。さっきから話している内容は謝罪のことばかりだが、もしかしたら、言いたいことは別にあるのではないかと、美緒はふと思った。
「それより、大丈夫?」
『ん?』
「なんか、つらそうだよ?」
『俺のこと?』
「うん」
『大丈夫……じゃないかな。なんかもう頭の中ぐちゃぐちゃで……』
「何か……あった?」
 あえて聞く気はなかったが、ハルカが聞いて欲しいと思っているならば、力になりたかった。少し、遠慮気味に問い掛ける。しかし、美緒の心配とは裏腹に、ハルカはまた闇を纏った。
『何もない……ごめん。声、聴けて良かった。じゃ』
「あ、待って」
 言い終える前に電話は突然切れた。ハルカが一方的に電話を切ったのだ。途端、ツーツーという電子音が耳に届いた。その音が鳴っていたのも束の間で、すぐに静寂が戻ると、美緒の心中を、複雑な思いが駆け巡った。
 ――なぜ。
 なぜ『カレ』は、自分に電話をしてきたのだろう。しかも、何も言わずに……。自分に伝えたいことは、確かに『カレ』の中にあったはずなのに。
 数時間前に見たハルカの悲しそうで寂しそうな表情を思い出した。胸に、何か熱くなるものを感じて、美緒は胸の当たりをギュッと掴んだ。少しだけれど、『カレ』の苦しみが伝わってきたような気がしたのだった。

「誰? 電話の相手」
 突然かけられた言葉に、美緒の肩がビクリと竦む。
 抑揚のないあまりに落ち着き過ぎた感情のない声。怖いとさえ思うほどの……。
 隣の運転席に座る声の主を見つめると、『彼』は、正面を向いて運転したまま、美緒の返事を待った。いつもとは違う無表情が、綺麗すぎるほどシャープに、その美貌を描く。
 対向車のヘッドライトに反射して、運転用にかけている『彼』の眼鏡がキラリと光った。

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