氷花

7.緋色に染まる嘘

「誰? 電話の相手」
 ヘッドライトで反射する眼鏡のせいで、彼の表情は読み取れなかった。言葉だけなら、あまりに感情のなかった声に、無音とも言える静寂を感じさせた。知らず知らず、自分の表情が強張っているのがわかる。携帯を鞄の中にそっと戻した後、美緒は、どう答えようか迷っていた。
 別に、何もやましいことをしているわけではない。ハルカはただの友達で、今でも好きなのは薫だけなのだから。けれど、薫の冷たい声色が、美緒の心を萎縮させた。
「友達……です」
「何か、深刻そうだったけど」
「え? ……あ、友達がその、色々と悩みを抱えているみたいで」
「へえ」
 なぜか居たたまれない気持ちになって、美緒は膝の上に置いていた鞄を抱えた。顔は俯き、薫の視線に自分の姿が映らないように、身を小さく丸めている。まるで、何かから自分を守るようなその仕草に、薫は、美緒が隠し事をしていることを悟った。
「何か俺に言いたくないことでもあるのか?」
「え?」
「いや、おまえの態度が、そんな風に感じるから」
「別に……別にないです、隠してることなんて」
「じゃあなんで急にそんな暗い顔するの」
「それは……別に……」
 歯切れの悪い返事。薄々だが、電話の相手がハルカであることを、薫はわかっていた。チラッと、美緒の携帯画面が見えたのだ。ハルカ、というカタカナ三文字と、携帯番号が表示されていただけだが、薫は以前保健室の帰りに、美緒がハルカを『ハルカ』と呼んだことを鮮明に覚えており、その記憶が携帯を見て一瞬にして呼び起こされた。
 ずっと気になっていた、『ハルカ』という名前。そして、さっき麻里の言っていたことが心の中で不安として燻っていた。
『香月ハルカには気をつけた方がいい』
 それは、女性としての直感が導いた言葉だろう。軽く聞き流したいところだが、生憎美緒に関わることとなると、そうもいかなかった。麻里の話した美緒とハルカの光景が、映像として頭の中を駆け巡るのだ。自分では逆らいようのない現実に、薫はイライラした。
「香月じゃないのか。さっきの電話」
「えっ……それは」
「別に驚くことでもないだろう。おまえたち、友達なんだろう?」
「はい。そうです……」
「責めてるわけじゃない。別におまえがどんな友達と会おうと俺は何も言わないし、むしろ友達と遊ぶことも、いいことだと俺は思ってるよ。恋人だけじゃなく、友情を育むことも、今のおまえには大事だからな。男女の友情が成り立たないなんてくだらないこと、俺は言わないから」
 なぜだろう。薫の言う言葉は、美緒の行動を何一つ責めているわけではなく、むしろ擁護しているというのに、どうしても責められている気持ちになった。本来なら楽しいはずの、薫との車での下校が、苦痛でたまらない。息が止まりそうなほどの緊張感の中で、美緒はまた余計に目を伏せた。
 もしかしたら、自分に罪悪感があったのかもしれない。薫以外の男性と、一緒にいたという事実に。どんな理由があったにしろ、香月ハルカという男性に惹かれたのは事実だった。
 ――恋ではない。恋ではないが、ハルカの持つ寂しそうな一面、優しい一面、会うたびに見つけてしまう色々な一面に、心惹かれた。なぜかほっとけず、そばにいてあげたいと思ってしまうことも、嘘ではなかった。薫が自分以外の女性と一緒にいたり、電話したりということを思うと、嫉妬してどうしようもないくせに……。自分の我侭さに嫌気がさし、美緒は余計に自己嫌悪に陥った。
「香月、何か困ってたのか?」
「ううん。そんな、たいしたことじゃないんです」
「本当に? そうは、見えなかったけど……」
「本当に。何もないです」
 そんな青い顔をして、何もなかったなどとよく言えたものだと、薫は少し思っていた。
 自分の知らない何かが、二人の間に起こっていることは、事情を聞かなくても容易に想像できる。麻里が言っていたこともあるし、それに、普段ならば、薫と一緒にいるといつも明るい顔をする美緒が、電話の後、途端に暗い表情を浮かべ、黙りこくったのが何よりの証拠だった。
 別に、自分に遠慮することなく、友達なら友達として、大事にすればいいのに。薫は、美緒の雰囲気が不可解で、小さくため息をついた。
「行かなくていいのか?」
「どこにですか……?」
「香月のところだよ」
「なんで、私が香月君のところに……」
「おまえが、友達のことをほっとけない優しい子だってこと、知ってるから言ってるだけだけど?」
 責められると思っていたのに、薫が言う言葉はどれも意外で、美緒は余計に複雑な気持ちになった。薫は、自分を信じているのか、それとも試しているのか、そんな判断も付きかねるほど、心が乱れる。どう答えていいのかわからず、美緒は、自分で今一番いいと思える答えを出した。
「香月君とは、まだそんなに知り合ってるわけじゃないし、香月君だって、私のことを別に友達だと思ってないと思うから、いいんです」
 じゃあ、なぜハルカと呼ぶほど親しげに話したり、香月のために、そんな深刻な顔したりするんだよ。
 薫は無言のまま思ったが、口にはしなかった。彼女の吐く嘘が、どんな意味があるのか、全くわからなかった。
「俺は、そうは思わないけど」
「え?」
「少なくとも、香月は、おまえのことを友達だと思ってるんじゃないのか」
 むしろ、それ以上とも言えるかもしれない。
「そんなこと……」
「なんでおまえがそんなに否定するのか俺にはわからないよ」
「別に否定なんてしてないです……」
「友達なら友達だと言えばいいのに」
「だって違うから……」
「おまえはさっき友達からの電話だと、そう言ったよ。香月と友達なんだろう? と聞いたら、そうです、と答えた。だったらどうして堂々と友達だと言わないんだ」
 友達だと、そう言えないのは、香月を友達以上として見ているからじゃないのか?
 そんな考えが、薫の脳裏をよぎった。嫉妬ともいえるドロドロとした感情が、醜く心中を渦巻く。こんなのは自分ではないと思うような歪んだ笑顔が、一瞬窓に写った。
「違うんです。本当に香月君とは何も関係ないから……」
 何を守るためにそんなに嘘を吐く必要があるのか。
 ――薫のため?
 もし、そうなら、それはハルカを恋愛対象として見ているから、罪悪感を感じてのことだろう。
 ――じゃあ、ハルカのため?
 そんなの、理由にはならないことは明らかだった。最初から、友達は大事にすべきだと言っている薫に、ハルカのために何の嘘を吐くというのだ。ただの友達ならば、嘘なんて、吐く必要はないのだ……。薫の気持ちなど何も知らず、嘘を吐き通す美緒を見て、頭にカッと血が上った。
「キャッ! 先生、どうしたんですか?」
 アクセルを踏む足に、強く力をこめた。噛むようにタバコを咥え、火をつけると、今までは通ったことのない道へハンドルを切る。激しく揺れる車内で、美緒は戸惑いながら、シートから自分の体が浮かないようにと必死に掴まった。

 それからほどなくのこと、車は、殺風景な空き地のそばで止められた。
 咥えタバコをしたままの薫が、煙を吐きながら、遠くを見つめていた。眼鏡に手をかけ、そっと外すと、ワイシャツの胸ポケットへと無造作に放り込む。タバコは、ぶっきらぼうに灰皿へと押し付けられた。薫の放つ異様な恐ろしさに、美緒は何も言えず黙り込むだけだった。
「なんでだよ。なんで嘘ばっかり吐くんだよ」
 薫が、ポツリと呟いた。
「友達なら友達でいいじゃないか。嘘吐くことなんてないだろう」
 君が嘘を吐く度、疑ってしまうんだ。心の中で、君を悪にしてしまう。
 言葉にならない思いが、薫の中で静かに溢れていた。
「友達じゃないと言いながら、どうせ車から降りた後、香月のところへ行くんだろう?」
「それは……」
 図星だった。薫には何も言わなかったが、ハルカのことがどうしても気になっている美緒は、また電話をかけ、会えればいいと密かに思っていたのだ。自分が思っていることを見透かされて、余計に募る罪悪感。
「なんで嘘吐くんだよ。俺は、香月のところへ言っても構わないとおまえに言っただろう。それを否定して、それでも隠れて香月に会いに行く理由って何なんだよ」
「ごめんなさい……」
 返す言葉が見つからず、ただ一言ごめんなさいと口にした。それ以外の言葉が見つからなかった。窓に目をやりながら、やるせない気持ちで言葉を口にする薫を見て、自分は悪くないなどと言い訳できなかった。自分が逆の立場なら、きっと嫌だったに違いないだろう。薫が、イライラしていることも、充分に承知していた。いつも感情を見せない薫が、こんなにも感情を見せたのは初めてだった。
 けれど、なぜ薫に嘘を吐いたのかはわからない。なぜ、ハルカとの仲を、想像されたくなかったのかなど……。
「謝るってことは、自分で悪いことしたって自覚してるってことだぞ。わかってるのか」
「はい……」
 素直に認める美緒に、余計に腹が立つ。どうせなら否定してほしかった。自分は、ハルカなど見ていない。薫だけを見ているのだと。
 しかし、今日の美緒は、全て薫の期待を裏切るものばかりだった。何一つ、薫の望む言葉を、口にはしなかった。目の前にいる女が、自分の知っている女とは違う気がして、余計に憤りを感じさせる。
「ごめんなさい……」
 美緒が、そう言い終えると同時に、薫が激しく唇を奪った。まるで、逃げられないような口付けだった。唇と唇がぶつかり、ちょっとした隙を見つけて美緒の中へと舌が入り込んでくる。息もできぬほどの激しい口付けに、美緒はどう応じていいのかわからず、ただただ身を委ねるだけ。途端、頭がボーっとしてきて、薫のことしか考えられなくなる。手は、薫のワイシャツを掴み、そして薫の腕は、逃げられないほどの強い力で美緒を抱きしめた。喘ぐ呼吸が、車中を満たした。
 時間も忘れるほどの口付けに夢中になった後、
「悪かった」
 美緒の唇から自分の唇を離し、薫は一言そう言った。
「悪かった。おまえにはおまえの思うところがあったんだろう。そのことも考えず、ただ責めたりして。大人気なかったな……」
「…………」
「もう何も言わない。俺はおまえのこと信じてるから」
 美緒の頭に手を乗せ、クシャクシャといじった後、いつもの優しい笑顔で、美緒の顔を覗き込んだ。額と額をコツンとくっつけて、小さくため息をつく。ごめんな、と呟きながら。両手で頬を優しく包み込み、その手から伝わる体温はまるで薫の愛情に似た温かさだった。
 泣きそうになる。恐ろしさから解放されたこともあるかもしれない。でも、薫の優しさを、これでもかと言うほど感じたことが、一番の理由だった。いつもの癖なれど、髪に触れられ、そして優しく微笑まれただけで、涙が出そうなほど愛しさが募ったのだ。
 やっぱり私は、この人しか好きになれない。そう思うほどに……。
 我慢していた涙は、もう堪えることができず、ただポロポロと涙を流しながら、ごめんなさいと何度も謝った。美緒に非があるのにも関らず、薫は、美緒を優しく抱きしめて、髪をなで続けるだけだった。何も言わないことが、逆に薫の優しさを感じさせた。


 美緒が泣き止んだ後、彼女を家へと送り届けた。さっきまでの、暗い雰囲気はもうなかったが、家に帰った後、やっぱりハルカのところへ行くのかと思うと、薫の心中は穏やかなものではなかった。別れ際、複雑な表情を浮かべていた美緒の姿が、瞳の奥に焼き付いていた。
「子供相手に何ムキになってんだよ……俺は……!!」
 ドンと、ハンドルを強く叩くと、その上にうつ伏せになり、独り言のように呟く。声色は、怒りの色を帯びている。さっきの自分の醜態を、恥ずかしく思っていた。あんな風に彼女を問い詰めたのは、自分らしくなかったと。
 優しく許したことも本心である。
 しかし、怒りを覚えるほど美緒に対し激情を抱いたことも本心だった。
 今までに感じたことのない嫉妬の感情が、薫を捉えて離さなかった。

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