氷花

8.憂い涙に濡れ落ちる

 陽も落ち、街灯もまばらな誰もいない公園。薄暗い空間の中で目を凝らすと、見覚えのある後ろ姿に、彼女の目が止まった。ベンチに座る『カレ』の近くまで駆け寄った後、ゆっくりとした足取りで、カレに気付かれないようにそばへと歩いた。
「ハルカ……?」
 呼ばれ、振り向いた顔は、ハルカに違いなかったのだが、浮かべる表情は、美緒が今までに見たどれでもないほど、暗く沈んでいた。何も言わなくてもわかる。カレの胸に潜む悩みは、普通の高校生が思うよりもずっと深刻だということを。
 美緒はそれ以上何もいわないまま、ハルカの座るベンチの隣へと行くと、視線を合わせることなく腰を下ろした。ヨイショ、と、わざと茶目っ気を感じさせるように言ったのは、この場に漂うピリピリした雰囲気を、少しでも和らげるためだった。
「別に、来なくても良かったのに」
 ポツリと、ハルカが呟く。
「どうして? 本当はそんなこと思ってないくせに」
「おまえが呼ぶから、来ただけだ」
「それでもハルカは来た。いつものハルカなら、そんな面倒臭いことに付き合わないよね?」
「べつに……」
 ふふっと微笑んで顔を覗き込む美緒を見た後、ハルカはわざと視線を外した。
 ――ちょうど一時間前。
 ハルカが一方的に電話を切ってから、三十分ほどして、再び美緒から電話がかかった。会いたいから、少し出てこられないか、ということだった。本当は、自分のことが心配でたまらないから電話をしてきたのだとわかっていたが、美緒はあえてそういう言葉を口にはしなかった。明るい声で、ただハルカに会いたい、そう言ったのだ。
 心配させている、と落ち込んでいたハルカにとっては、何よりの救いだった。本当に会いたかったのだ。ただ、何も言わず、美緒にそばに居て欲しかった。心配させたいわけじゃない。いつもの優しい笑顔で、そばにいてくれたらと願った。
 そして今……二人はここにいる。それが自然の成り行きであるかのように……。
「明日晴れるかな?」
「ん?」
「明日だよ、明日。明日晴れたらさ、お昼外で一緒に食べよう?」
 ふさぎ込むハルカをあえて気にすることなく、美緒がはしゃぐように語りだす。私がお弁当を作ってくるから、と、ニッコリと微笑んで、ハルカに同意を求めた。
「ダメかな?」
「暇だったらな……」
「じゃあ、はりきってお弁当作らなきゃ」
「暇だったら、って言っただろ」
「だからじゃない。どうせ、ハルカはいつも暇でしょ?」
「どういう意味だよ、それ」
「べつにー?」
 口を尖らせてそう言う美緒を見て、クスッと笑みが零れた。あ、笑った、と思ったのだろうか。美緒は、心底安心したような表情を浮かべて、穏やかに微笑んだ。ハルカの望む二人の雰囲気が、少し見えたような気がした。
「良かった」
「……ん?」
「ううん、なんでもない」
 ゆっくりと首を振り、空を見上げるように美緒がため息をついた。何も問わなくてもわかる。彼女の笑顔の裏に、どれだけの心配を抱えさせていたかくらい。だから、再び会った今、彼女に心配をかけさせたくはない。そう思う中、自然と笑えた自分に、美緒と同じように、良かった、と呟いた。
 それからしばらく、他愛のないことを話した。どの話題も、美緒が話し出したことだったが、ハルカは、どの言葉も聞き漏らすことのないように真剣に話を聞き、そして相槌を打つ。意味のない会話。しかし、二人には充分すぎるほど、互いの気持ちを思いやれる時間にもなった。ベンチに座る二人の間隔は狭まることはないのに、心の距離は近づいた。忘れかけていた笑顔も、自然とハルカの中に戻ってきていた。
 そうしているうち、再び、美緒はハルカの悩みの核心へと迫ってくる。元より、彼女がカレを呼び出した理由は、ここにあったのだから。ハルカは戸惑いながら、彼女にどう接すればいいのかを思った。
「私、何でも聞くよ?」
「いや、いいんだ」
「さっきの電話……私に何か言いたいことがあったからなんでしょ?」
「別に……そんなのない」
「嘘。電話してくるくらい、思いつめてたんじゃないの?」
 実際、携帯の番号を教えてからも、ハルカから連絡してくることはなく、さっきの電話が初めてだった。だからこそ、異様さを感じずにはいられない。
「おまえには……関係のないことだから」
「私、ハルカがつらいと思うことがあるなら、少しでもその痛みを分かち合いたい、って、本当にそう思うの」
「…………」
「だから、私にできることがあるなら……」
「だからいいって! ……言ってるだろ」
 明るく、それでいて心配そうな美緒の言葉を、冷たくきつい口調が遮る。思わず口走ってしまった言葉に、ハルカはアッと息を呑んだ。知らず握られていた手が、ハルカの言葉と共に、スッと離れた。あえて重荷に感じさせまいと、思いやる口調だったにも関わらず、自分の中の冷たさが美緒の優しさを殺してしまった。そんな、傷ついたであろう美緒の瞳を見ることはできるはずもなかった。
「ごめん……やっぱり私じゃ、言いたくないよね」
「悪いけど……」
「ううん。ごめん、私の方こそ、色々無理強いしちゃって」
「ほっといてくれ……頼むから」
「ごめんね。私もう、余計なお節介とか、そんなことしないから」
「一人に……一人にしてくれないか」
 何も悪いことをしていないのに謝る美緒。声は少し震えていた。もしかしたら、涙さえ浮かべていたのかもしれない。顔を見る勇気などないハルカは、そんな彼女を想像するだけで、居た堪れない気持ちになる。美緒の優しさを、踏み躙った。そう感じずにはいられないほど、空気は再び張り詰めた緊張感に包まれていた。
 彼女はただ、自分を想ってくれただけなのに。そんな彼女の優しさに、思わず縋ってしまいそうになる弱い心。傷つけるとわかっていても、彼女の気持ちを庇う言葉は出てこなかった。心配をかけまいとする気持ちだけで、ハルカの心はいっぱいだったのだ。
 そうでなければ、自分が、彼女の優しさに負けてしまう……。

 美緒は、じゃあ、と一言呟くと、少しの間、沈黙とともにハルカを見つめて、そしてゆっくりと立ち去った。背を向ける時に揺れた彼女の髪が、チラッと視界に入った。
 ――ごめん。
 言葉にはしなかったが、心の中で何度も呟く。最後まで、彼女を見る勇気はなかった。
 結局自分のやっていることは、父親と一緒だ。勝手に美緒に期待をかけていた。自分を救ってくれるのは、彼女なのではないかと。あの優しさは、自分をもっと強くしてくれる光なのではないかと。勝手に期待をかけ、そして自分の勝手で彼女を傷つけた。聞いて欲しいと願ったのは、ハルカ自身なのに、結局何も言えない臆病さ。言ってしまえば、もうきっと戻ってこられないとわかっていたからかもしれない。美緒の優しさに包まれる心地よさから……。自分の醜い心に、ハルカは打ちひしがれた。
「……くっ」
 どうしようもない自分の思いに、歯がゆくて悔しくて唇を噛み締める。こんな自分は嫌だと思うのに、自分ではどうしようもない。自分一人では変えられないほどの、あまりに重い現実が、ハルカを締め付けて離しはしない。
 言葉にできるならどれほど楽だろう。こんなにつらい闇を、簡単に言葉にできたなら、自分はそこから抜け出す答えも見つけることができるだろうに。
 ――弱い。自分はとても弱く、それでいて誰かに頼らなければ、もう立っていられないことを、無意識に自覚していた。苦しいほど締め付けられる胸の奥で、小さな涙がポロリと一滴零れ落ちた。
「なんで……一人で頑張ろうとするの?」
 背後から、小さくかけられる声とともに、彼女の匂いがハルカを包んだ。
 突然のことに、驚いて息を止める。
 温かい感触に、自分の置かれている状況をゆっくりと把握した。顔を覆ってベンチに座るハルカの背中を、優しい腕が抱きしめたのだ。母にも似た、懐かしく柔らかい声で。
「バカね。一人で何もかも抱えて」
「おまえ……なんで戻ってきたんだ……」
「ハルカが泣いてるのに、帰れるわけないじゃない」
 振り向こうとしたハルカの頭を、美緒が両手で優しく包み込む。右耳が胸に押し当てられて、静かな鼓動が、トクン……トクン……と心地よく響いた。その音にひどく安心を覚えて、瞳をゆっくりと閉じると、知らぬ間に溜まっていた涙が、ポツリと手の上に落ちた。美緒の前で泣いてしまったというのに、それよりもただ、彼女の胸に自分を委ねてしまいたい気持ちが、ハルカの中で溢れ出しそうだった。さっきまでの抵抗が嘘のように、自分の中にある弱さと、そして優しさが溢れ出す。
「泣いていいよ?」
「ごめん……ごめん……俺……」
「何も言わなくていいよ。私はここにいるから」
 体ごと引き寄せる。美緒の腰に腕を回し、折れてしまいそうなほどの強い力で抱きしめた。美緒は何も言わず、ただその力強さを返すように、ハルカの頭を抱きしめる。髪に口付けるように、そして守るように、母のような抱きしめ方で。
 何も言葉はいらなかった。互いの体、心は、二人という人間を分かち合うためにあるような感覚。二人以外、この世界には誰もいないのではないかと思わせる空間が、確かにあった。今の二人には、ただ、抱きしめあって支えあうのが、精一杯だった。

 涙しながら、心の奥底で溶けるハルカの気持ち。
 傷つけてもなお、そばにいて抱きしめてくれる君を、欲しくないなどと言える勇気は、もう自分にはありはしない――。

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