華水の月

10.ポーカーフェイス

 帰りの車の中は、驚くほど静かだった。
 とは言っても、薫も美緒も普段どおり喋るのだが、本来一番喋るはずの泉が黙り込んでいたのだ。美緒は助手席に、泉は後部座席に座り、時々薫が泉に話を振っても、緊張した返事が返ってくるだけだった。
 よほど薫のことを恐れているのだろう、と、さっきまでの泉の様子でわかっていた美緒は、笑いを堪えるのに必死だ。
「先生がアイスクリーム屋さんに来るなんて珍しいですね。どうして突然来たの?」
「あそこは泉の出現場所だからな」
「泉くんの?」
「暇さえあったら、ケーキ屋やアイスクリーム屋に行ってるんだ。こいつのお気に入りの店なら大体わかってる」
「え……。あ、だからあんなにアイスクリームばっかり……」
「ああ。こいつはバカみたいに甘党なんだ。なあ、泉?」
 薫がバックミラー越しに泉を見る。運転用にかけているメガネがキラリと光って、いっそう薫の眼差しをシャープにした。それを、睨まれていると勘違いしたのか、泉は目を泳がせると、曖昧な返事をする。
「どうやら、今日の学園中の噂を一人占めしていたみたいだから、ちょっと様子を見てやろうと寄ってみただけだよ。そしたら、おまえが一緒にいた」
 薫は泉から視線を外し、美緒の髪をクシャッといじった。柔らかい髪を指に絡めて弄んでいる。時々毛先が首筋に触れて、くすぐったさに身を捩った。
「学園中の噂って……」
「おまえと泉が付き合ってるっていう噂だよ」
「え……」
「所構わず名前を呼んで親しげにすれば、そう思われたって仕方がない。教師であることの自覚が足りないんだよ」
 薫が再びチラッとバックミラーで泉を捉えると、ばつが悪そうな表情を浮かべて、薫の視線から逃げた。悪いと思っていることは、泉の様子からして容易に窺えた。
 ただ、泉にしてみれば、これくらいのことで薫の逆鱗に触れるとは思っていなかったのだろう。それは、薫の中の美緒の存在を、軽んじていたせいとも言えるかもしれない。顔はにこやかに笑っていても、腹の中は気に入らないに違いない。そうでなければ、わざわざこんなところまで足を運ぶわけがないだろう。ある意味これで事が済んだのは、泉が弟だからこそ許される余地があるからだと、美緒は思った。
「しかも、おまえを自分の彼女だと紹介しようとまでしただろ? それで黙っていられるほど、俺が愚かな男に見えるか」
「せ、先生……怖いです」
「何が?」
「その……笑顔が……」
 顔色一つ変えない笑顔。口で言っていることと、表情があまりにも一致しない。
 いつもポーカーフェイスの薫を見慣れている美緒でさえ、今の彼はそれとはまた違うことを感じずにはいられなかった。
「だから、しっかりとおまえが俺の彼女だってことを認識させるために、見せつけたんだ。おまえが俺に感じさせられてる姿をね」
 美緒を感じさせられるのは、薫だけだ。触れて良いのも、口付けることも薫だけに許された特権。
 今になってようやく気づいたが、美緒が薫と行為に及ぼうとしているところを泉に見られていたことを思い出して、急に美緒の心臓が早鐘のように打ち始めた。相変わらずニッコリと微笑んで、過激なことをサラリと口にする薫の言葉に、美緒は真っ赤になり、泉は青ざめて俯いた。
 それ以降、車内はありえないほどの静寂に包まれた。


 ――パシッ!
 頬に鋭い痛みが走った。
 彼女の長い爪が肌を滑り、細い傷跡を付ける。
 シンとしすぎるほどの中庭には、やけにその音が響いて、乾いた痛みはヒリヒリと美緒を襲った。
「あんた……どういうつもりよ」
「どういうつもりって……何が?」
「とぼけるんじゃないわよ。私、昨日見たんだから」
 美緒を睨みつける目。容赦なく威嚇するその目に、美緒はただ困惑した表情を浮かべるしかなかった。頬を殴られた理由がわからない。ただ、美緒の頬に痛みが走るのと同じくらい、彼女の心も傷ついているように思えた。
「見たって、何を」
「あんたと、あの教育実習生と、櫻井先生が一緒にいるところ」
「え……」
「言い訳できるなら、ちゃんと言い訳して。私が納得するように」
 挑むような目が、印象的だった。
 ――昼休み。
 親友のえみと食事を取っている時、樹多村綾乃が急に美緒を外へと連れ出した。ただ一言、『話があるから』と。泉と綾乃の行為を目にしている美緒にとっては、彼女と二人きりになるなど歓迎できることではなかったが、真剣な綾乃の目に、渋々頷いた。
 きっと、あの時の泉とのことを口止めしようとでもしているのだろう。そう思っていただけに、突然の彼女の殴打は、驚かざるをえなかった。
「ねえ、どっちなの?」
「どっちって……」
「泉の方? それとも櫻井先生? どっちよ」
 綾乃の言っていることが、美緒の恋人はどっちなのかと問うているのだと、すぐに理解した。
 だが、どう答えれば綾乃が納得するのかわからない。泉と薫、どちらとも答えられないからだ。
 付け加えて、綾乃の問いに違和感を覚えたことも確かだった。もしも、泉に好意を寄せているのだとしたら、どっちかなどという問いは出ないだろう。実際、昨日の時点で、美緒と泉の仲が噂になっているのだ。問われるのだとしたら、泉との仲だけのような気がした。それにも関わらず、薫が引き合いに出されるということは、少なくとも綾乃の中で、薫が何らかの影響を及ぼしているとしか思えなかった。
「どっちって、どっちでもないよ。別にやましいことなんて何もないもの」
「嘘吐かないで。どうしてただの生徒が一緒に車に乗るのよ。どっちかの彼女でもない限り、そんなことありえないでしょ」
「そんなこと言われても……」
「それともアレ? 私への当てつけ?」
 歪んだ笑顔を浮かべる綾乃を見て、美緒が怪訝な表情を浮かべた。これまで、特に仲がよいというわけではなかったが、こんな風に敵対心を向けられることはなかった。異様な綾乃の雰囲気に、ついつい押され気味になる。
「どうせ、私が泉と体だけの関係だってこと、あんた知ってるんでしょ」
「それは……」
「別にいいよ。本当のことだもん。私もあいつも、ただ楽しんだだけだから」
 綾乃が皮肉に笑う。何もかもを投げ出したような、嘲るような物言いがたまらなく苦痛だった。
「どうせだから、教えといてあげるよ」
「何を……?」
「噂どおり、あんた泉とデキてるんでしょ? でもね、あの男は、本当に最低なんだから。女を女とも思ってない、卑劣な奴よ」
 綾乃の表情が憎しみで歪んでいく。その憎しみが、誰へのものなのか、美緒にはわからなかった。
「みんな上辺に騙されて、本当は根性腐ってるのにも気付いてない。あんな奴が櫻井先生の弟なんて信じられない。血が繋がってるなんか櫻井先生が可哀想よ」
 綾乃の物言いに、彼女の想い人が薫であることを悟った。
 何もかもが、急に納得できた。綾乃が泉と関係を持ったわけも、今こうして美緒に敵対心を抱いている理由も。
「悪いこと言わないわ。あんたも泉なんてやめときなさいよ。女としての価値下がるよ。ヤルだけヤって、後は捨てられるのがオチよ」
「泉くんのこと、そんなに悪く言わないでよ……」
「ふーん。やっぱり彼氏だから怒ったの?」
 クスクスと笑う綾乃に、美緒は苛立った。
 確かに泉は女癖も悪ければ、恋愛をバカにしている風も否めない。そういう点は、少なくとも美緒も好きにはなれない。
 だけれど、それだけが泉の全てではないのだ。美緒の料理を美味しそうだと言ってくれた時の笑顔も、美緒のことを妹だと言った時の無邪気さも、子供のようにアイスクリームを食べる姿も、紛れもなく泉そのものだ。本来の彼は、無条件で人を喜ばせ、楽しくさせる。それを知らずに、否定されるのは許せなかった。薫が愛している弟の泉だからこそ、薫と同じような感覚を胸に抱いたのかもしれない。
「樹多村さんと泉くんがどんな関係だったかなんて、私は関係ないけど、でもそんな風に悪く言われる筋合いはないと思う」
「なによ、急に……」
「上辺しか知らないのは樹多村さんじゃないの? 少なくとも、泉くんは樹多村さんのことを悪くなんて言わなかったよ。樹多村さんみたいに、蔑んだりしなかった」
 情がないセックスだとは言ったけれど、それを卑下することを泉は何も口にしなかった。綾乃のことを、少したりとも悪くは言わなかったのだ。それは、彼なりの、割り切りかもしれないけれど。
「……そう。自分は彼女だから違うって、そう言いたいんでしょ」
「違う。私は……」
「真中は、泉の彼女なんかじゃないよ」
 突然割り込んできた声に、二人が同時に彼を見た。
 白衣をヒラヒラと翻して近寄ってくる長身の出で立ち。太陽の光に反射して、メガネがキラリと光る。突然の薫の登場に、綾乃が頬を赤らめた。
「何か誤解してるみたいだな。真中は、泉の恋人でも、誰の恋人でもないよ」
「え……でも……」
 綾乃が、疑うような目を薫に向ける。だが、そこにはもう美緒を見据えていた時の険悪さはなかった。やはり、彼女の想い人は薫だったのだと美緒は確信した。
「元はと言えば、可愛い女の子に目のない泉が真中をからかったのが悪いんだ。それが知らないうちに大きな噂になってしまったみたいだけど」
「え……じゃああの噂……」
「あの噂も、全部嘘だよ。どちらかといえば、真中は被害者だ。そのことをちゃんと明らかにしておこうと思って、昨日二人を呼びつけたんだ。それだけだよ」
「先生が、呼びつけたんですか?」
「そう。一人ずつ聞くよりも、手っ取り早いだろ?」
 ニッコリと微笑んで、綾乃の頭にポンと手を乗せた。ただ、それだけの仕草が、綾乃にはどれだけ嬉しかったことか。
 頬を赤らめ、俯く彼女の様子に、美緒は複雑な気持ちになった。
「じゃあ、真中さんとは本当に……」
「ああ。俺も泉も、どちらも関係ないよ。……おまえにも悪いことしたな、真中」
「え? ……ああ、別に……いいです」
 ふと、自分に話を振られて、戸惑った。平然と嘘を並べる薫を、遠くを見るような目で見つめる。
「樹多村にも、余計な誤解をさせてしまったみたいで悪かった」
 綾乃に優しく微笑む薫の表情から視線が外せなかった。
 これでいいはずなのだ。薫との仲を疑われることなく、泉の噂をも一蹴して、何もかもが丸く落ち着くはずなのだ。けれど、そのために、綾乃に優しくする薫を見るのは居たたまれなかった。
 なぜだろう。慣れているはずじゃないか。薫が、誰にでも優しくすることは……。そしてそういうフェミニストな所が、薫らしいのだから……。
「もしかしたら、樹多村に泉が何か悪いことをしたのかな?」
「え……なんでですか」
「そんな感じのことを、言ってたから」
「あれは……その……なんでもないです」
 薫はきっとわかってて聞いているに違いない。そんなことを思った。あえて問うているのだ。綾乃が、薫には真実を言えないことを知っていて。薫はそういう人だ。
「だらしのない弟だけど、悪いところばかりでもないんだ。嫌いなら仕方ないけど、その辺、理解してくれると嬉しいな」
「あ、あの、わかってますから、大丈夫です」
「そうか。良かった。そうじゃないと、引っ叩かれた真中の立場もないからね」
 美緒に向かって薫が微笑みかける。
 その笑顔は、本当の笑顔ではなく、ポーカーフェイスの笑顔であると、わかってしまった。何故、彼が心から笑っていないのかは、わからなかったけれど。
「さて、そろそろ五時間目も始まる頃だから、教室に戻りなさい」
「あ、はい」
 ふいに時計を見て、薫がそう呟いた。
 綾乃はまるで条件反射のように、薫の言葉に返事をする。『美緒、戻ろうか』と、それまでとは全く違った態度で美緒に話し掛けた。
 すると、薫は美緒の方に振り向いて、急に彼女の頬を撫でた。
「真中は保健室だ」
「え……?」
「まさか、そんな傷をつけたまま、二人一緒には帰れないだろう?」
 その言葉に、美緒は自分の頬が痛んでいることを、急に思い出した。ズキズキと痛む左頬。綾乃の髪に触れた手で、自分の頬を触られたせいだ。そんなことを思った。


「こんなとこで、何してんのよ、あんた」
「別に?」
「まさか、ずっとそこで聞いてたの?」
 美緒と薫を残して、足早に中庭を後にした綾乃だったが、帰り際、壁に背をもたれかけて突っ立っている人物が目に入った。そこには、無表情の泉がいた。
「ちゃんと捕まえておいてよね」
「何を?」
「美緒を」
「なんで俺が……」
「あんたが捕まえててくれたら、私も何の心配もしないのよ」
「あっそ……」
 泉は綾乃から視線を外して、遠くを見つめた。
 捕まえるも何も、最初から美緒は薫のものだ。それをどうこう言われたって、何も始まらない。
「美緒だってまんざらでもないかもしれないじゃない。あんたのこと、庇ってたし」
 なぜ、庇ったりしたのだろう。どうせだったら、綾乃と同じように蔑んでくれたらよかったのに……。そしたら、薫ではなく自分が、あの場に出て、美緒を守れたかもしれないのに。
 陰で美緒と綾乃の会話を聞きながら、いつ出て行こうか様子を窺っていた。それなのに、美緒の言葉があっさりと泉を制した。美緒にしてみれば、薫の弟だからという理由で庇ったに過ぎないのだろう。
 けれど、期待してしまったのだ。薫を庇って涙を流した美緒を思いだして、無駄な、期待を……。
「なあ」
 去ろうとする、綾乃の背を、泉が呼び止めた。
「正しいのはあんただよ」
「何?」
「俺の上辺しか見てないのは、美緒の方だ。俺は所詮、あんたが言うような男にすぎない」
 綾乃は小さく溜め息を吐いた。
「……美緒、か」
 独り言かと思えるほどのか細い声。
「先生もあんたも、どうして美緒なの。……どうして」
 何がどうしてなのか、泉には分からない。
「私の名前は覚えてもいなかったくせに」
 綾乃は泉を睨みつけた。瞳の奥に揺らめく微かな嫉妬心が、泉の心に突き刺さるように感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
「あんたが下らない男ってことくらい、最初からわかってるよ。美緒が庇う価値も無い」
 ――そう、庇う価値などない。
 美緒の言葉に、自分が今まで軽い恋愛しかしてこなかったことを、少し悔やんだ。庇われる価値がない自分を、恥ずかしく思った。
「あ、それから」
 泉の言葉に、綾乃がまた振り向く。
「泉って呼び捨てにしないで。あんたに言われると、なんかムカツクから」

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