華水の月

11.可愛い束縛

 昼下がりの保健室には誰もいなかった。
 少し開いた窓から入ってくる風が、ヒラヒラとカーテンを揺らし、柔らかい光がベージュと白で彩られた部屋内を明るく染める。
 後ろ手にドアを閉め、美緒は自分の前を行く薫の背中をじっと見つめていた。
「そこに座って」
 いつも仕事用にかけているメガネを外してデスクの上に置くと、薫の椅子とは対面の場所に置いてある患者用の椅子に美緒を促した。返事をするわけでもなく、トボトボと椅子の方まで歩み寄り、ストンと腰を下ろす。薫は、美緒の手当てをするために、消毒液を取り出しているようだった。
「あーあ。綺麗な肌が台無しだな」
 薫も椅子に座り、美緒の頬の傷に消毒液を付けた綿を押し当てる。白く柔らかい肌の上には、四、五センチほどの赤い筋がくっきりと姿を表していた。時間がたっているせいで、血は止まっているが、よほど強い力で殴られたというのがわかるほど、その傷は自分を主張しているように思えた。
「おまえも、ただ殴られるだけじゃなくて、殴り返してやれば良かったのに」
「え……?」
「樹多村にも、傷がつくくらい引っぱたいてやればよかったのに、て言ったの」
「どうして?」
「だって、一方的に殴られるなんて、癪じゃないか」
 少なくとも、俺は嫌だけど。と、苦笑しながら呟く。
 薫がそんなことを言うなんて、少し意外だった。
「どうして……あそこに来たの?」
「ん?」
「だってタイミング良過ぎませんか?」
「ああ。……ほら、ここからだと、中庭に抜ける通路が丸見えなんだ。あんまりにも深刻に歩いてるおまえを見かけたから、なんか気になってね」
 薫のデスクの前からは、確かに中庭に抜ける渡り廊下が見える。でも、今回ばかりは、薫に助けられたことを素直に喜べなかった。綾乃がいた時に感じた複雑な気持ちは、今も美緒の中で引きずっていて、薫の顔をまともに見られなかった。いつもなら、薫の周りに女の子がいようとも、見て見ぬフリをすることができるのに、なぜか今日は、そんな風に割り切れなかった。
 綾乃に触れた手で、触られることが許せない。それは、薫に対する軽い嫉妬心だった。
「何をそんなに拗ねてるんだ?」
「拗ねてなんか……」
「こんな膨れっ面しといて、拗ねてないなんて、どうして言える?」
 顔に出しているつもりはなかったが、鋭い薫の眼差しにかかれば、美緒の機嫌など一発で読み取れるらしい。傷を負ってない方の頬を、薫の指先が軽くつまんだ。優しく微笑む薫。まるで、その仕草が、美緒を子ども扱いしているように思えて、目を背けた。
 触れられたくないのだ。綾乃の髪に触れた、その手では。
「あの場では、ああ言うしかなかったんだ。おまえだってわかってるだろう?」
「……わかってます」
「おまえだけを庇えば、樹多村の気持ちは収まらないし、余計に疑いを持たれただろうしね」
「……わかってますってば」
 薫の対処は正しい。
 綾乃の気持ちを落ち着け、誰一人傷つけることなく事を終わらせた薫の対応は、何よりも正しかったと思う。あの時、美緒を殴った綾乃を諌めれば、彼女の憎しみは余計に募るだろうし、泉の評価も余計に下がったに違いない。そして、強い薫への想いは、美緒へと容赦なくぶつけられることになるだろう。
 わかっている。頭の中ではわかっているのだ。ただ、心が言うことを聞かない。それはきっと、薫の彼女としての自分の存在を、あの時の薫から何一つ感じ取れなかったせいだろう。
「少し……少し寂しかっただけだもん……」
「ん?」
「少し寂しかったの……イヤだったの……」
「何が?」
「先生が、私よりも、樹多村さんに優しくしたことが……」
 綾乃に向ける笑顔に嫉妬した。綾乃に触れる指に嫉妬した。馬鹿げているなんてことは、美緒が一番わかっている。彼の全てが、美緒のものではないのだから。
 そんな、いじける美緒を見て、その愛らしさに薫が苦笑した。
「バーカ」
 薫が、美緒の額を指先でピンと弾いた。
「あの時、俺が本当に樹多村に優しくしてたとでも思ってるのか?」
「え……?」
「本当は、怒鳴りつけてやりたかったよ。俺の美緒を殴ったんだからな。だけど、俺はおまえの彼氏だから、おまえがこれ以上つらい立場にならないように、わざわざ無理して優しいフリしたんだろ?」
「……本当?」
「当たり前だろ。おまえを傷つけるものは、たとえ相手が女だって許せないよ」
 薫の言い分はわかっている。それが、間違っていないということも。
 ただ……。ただ、それだけでは、美緒の心が満足しなかった。
「でも……」
「でも、何?」
「……私だって、先生の彼女だもん。わかってても、嫌なものは嫌なんだもん……」
 それが、自分を守るための行為だとしても、薫が他の女の子に優しくするのは嫌なのだ。自分の関係のないところでなら、割り切れるから構わない。けれど、美緒という存在がそこにいて、それでも尚、他の女の子に優しくする薫を喜んで歓迎できるほど、美緒は大人ではなかった。
「あんまり可愛いことばっかり言ってると、このままここに押し倒すぞ」
「え……」
「拗ねてみたり、ワガママ言ってみたり、そんな可愛いことばっかりやってると、俺の理性が落ち着かないって言ってんの」
 ふと、視線をあげると、ニヤリと企むような薫の笑顔に出会った。ポーカーフェイスではない。本当の薫の表情に、美緒はドキリとする。
「そんなに不安なら、俺が逃げないように、ちゃんと捕まえてろよ」
「……捕まえる?」
「俺が、他の女に優しくする余裕もなくなるくらい、美緒で縛り付けてみてって言ったんだよ」
「どうやって……」
「さあ。美緒の思うがままに」
 椅子の肘掛に肘をついて、手の甲に顎を乗せ、窺うように美緒を見る。その瞳の中には、いつもの怪しい色香が揺らめいていた。
 彼からはけして、近付かない指。近付かない声。だけれど、瞳は美緒を捕らえて離れない。自分から触れろ、と無言で言われていることが肌でわかる。その指で、その目で、思うがままに薫を欲しろ。そう言っているのだ。
 美緒は、妖しい色を操る薫の目に引き寄せられ、立ち上がると、彼の目の前に立った。
 空中を泳ぐ指先。どこに、どう触れれば、薫は美緒に囚われてくれるだろう。
 頬? 首筋? 髪?
 きっと、指先だけでは、この男は捕まえられない。
 薫の膝の上に、軽く腰を下ろす。左手を、彼の肩に乗せたけれども、ゆったりとした背もたれに全身を預けている彼の体は、美緒からは少し遠かった。ふと、何かを思いついたように、白衣の中に覗く彼のネクタイにそっと指先を寄せる。指先に触れる滑らかな布地。美緒は、それを掴むと、自分の体を彼に近づけながら、彼の体も引き寄せるように、グッと引いた。抵抗なく起き上がり、美緒に触れる薫の体。彼の首に左腕を巻きつけて、近すぎるほどの彼の瞳をじっと見ると、小さく呟いた。
「……好きです。……誰にも先生をあげたくない」
 触れそうなほど近くにある唇。
 美緒が呟いた言葉は、どんなキスよりも官能的で、薫はそんな彼女の姿に一瞬にして魅入った。美緒のするがままに仕向けたことを、後悔するくらいに。
 じっと見つめたままだった視線に堪えきれなくなってか、美緒が恥ずかしげに目を伏せる。俯いた視線は、薫の唇を捉えていた。引き寄せられるように、近付く唇。ぎこちなく幼い唇が、優しく薫の唇に触れた。触れては離れ、触れては離れ、時折薄目を開けて薫の表情を窺う。
 自分のキスは、正しいのだろうか。
 角度を変えては小さく繰り返す、美緒の口付けに、薫は特に何も反応を返さず、ただ美緒から与えられる感触を楽しんでいるようだった。
「ねえ……先生。イジワルしないで……」
 恥ずかしそうに、呟く美緒。艶かしいほどの色気が、瞳の中で揺れる。薫は、その言葉に反応するように、彼女の腰を引き寄せると、急に深い口付けを彼女に与えた。
 絡まる舌。喘ぐ吐息。頭の中が真っ白になるくらい唇を犯されて、美緒は息をする間も忘れるくらい薫の波に囚われる。ただのキスに過ぎないのに、なぜにこんなにも体が熱くなってしまうのだろう。全身を愛撫されるのと同じくらい、薫の口付けは美緒を翻弄する。快感に抜け落ちていく体の力とは裏腹に、薫への愛しさは深さを増して、それがようやく美緒のバランスを保っているにすぎなかった。
 薫は、自分の口付けに堕ちていく美緒の様子を満足げに感じると、そっと唇を離して、彼女の耳元に囁いた。
「上出来」


 五時間目を十五分ほど過ぎてから教室へ戻り、何事もなかったように授業を受けた。
 頬に受けた傷は、細く小さくはあったけれども、色白で透き通るような肌の美緒にとっては目立つもので、親友のえみや、他のクラスメートたちが、次々と傷の理由を聞いてきた。それに関して、あえて美緒は、ただドジをしてしまったからだと答えた。その瞬間、美緒に向けられる綾乃の視線には、申し訳なさが含まれていたが、美緒はそれに気付かないフリをした。
 綾乃に対しての嫉妬は、驚くほどに薄れ去っていた。それが、薫との束の間の時間のおかげだということは、言わずとも知れている。ただ、なんとなく、薫に上手く誤魔化されたような気はしないでもなかった。捕まえろと言っても、結局いつだって、美緒は彼の手中にいるのだ。けして両手では覆い切れない存在。海のように広い薫の存在の中では、美緒はちっぽけな存在にすぎない。
 けれど、そのちっぽけな存在のためだけに、薫はいてくれるのだと、美緒自身もよくわかっていた。美緒にとって、薫という存在は、とても心地よい。ゆらゆらと揺らめいて、安らぎをくれるゆりかごのように……。
 下校の時間になり、図書館で少し本を物色した後、一人でその場を後にした。手には、以前香月ハルカが読んでいたシェイクスピアが一冊。ハルカがいなくなってからも、美緒は彼と二人で過ごした図書館の時間を思い出すように、時折訪れてはシェイクスピアを読みふけっていた。そろそろ、学校の図書館にあるシェイクスピアの本も読破しそうだ。それを、ハルカに伝えたら、彼はどんな顔をするだろうか。いつものように素っ気無く返事をする姿が脳裏に浮かんで、美緒はクスッと微笑を零した。


「あ、美緒。……じゃなかった、真中さん」
 玄関で靴を履き替えようとしていた美緒をたまたま見つけ、泉は彼女の背後から声をかけていた。
 薫に忠告されてからというもの、なるべく校内では苗字で呼ぶようにしていたが、やはりいつものクセは抜けないらしい。しまった、と表情に出して、苦笑いを浮かべた。
「今、帰り?」
「うん。泉……先生は?」
 美緒にとっても、居心地の悪さは変わらないようだった。彼女にとっての泉は、教師という感覚が欠如しているからかもしれない。
「俺はまだ仕事。超だりいの。早く帰りたいよ……」
「しっかりお仕事してよね。仮にも、先生なんだから」
「本当、仮なのにしっかり仕事してる俺って偉いよな」
「自分で言っちゃったら、おしまいじゃない?」
 クスクスと笑いが零れた。泉に対する嫌悪感は、もう美緒の中には全くないようだった。
 ふと泉が昼間のことを思い出して、美緒の左頬をマジマジと見つめる。生々しい赤い傷跡に、心が痛んで、自然と笑みが消えていった。
「頬、大丈夫か?」
「え? ああ、これのこと?」
「ああ」
「あ、これね、私がドジだから転んで擦り剥いちゃったの。本当、やんなっちゃう」
 ニッコリと微笑んで嘘を吐く美緒の笑顔に、心が酷く抉られた。泉のせいでついた傷を、自分のせいだと偽る彼女の言葉を、どう受け止めていいかわからなかった。
「ばんそうこう、しなくていいのか?」
「うん。それほど、酷いものでもないし。それに、ばんそうこうなんて貼っちゃったら、大げさでしょ?」
「痛くないなら、いいけどさ……」
「どうしたの? 昨日は、私が足をくじいたって、大して気にしてなかったのに」
 クスッと美緒が微笑を零す。泉のせいで痛い思いをしたにも関わらず、泉に対して責める雰囲気さえ見せなかった。きっと、綾乃とのことは、ずっと隠し通すつもりなのだろう。美緒に対して罪悪感のある泉だったが、彼女の気持ちを察して、あえて泉もその話には触れまいと決めた。自分の罪悪感を拭うために、美緒に謝ったって、きっと彼女は喜ばないだろう。
「少しくらい心配しとかないと、おまえに悪いかなあと思って」
「何それ。全然優しくないね」
「おまえに優しくして、得があるなら優しくするけど?」
「別に泉くんに優しくしてもらわなくていいもん」
 互いの顔を見て、思わず笑いが零れた。
「ねえ、泉くん」
「あ?」
「泉くんの笑顔って、どうしてそんなに周りの人間を一瞬で楽しい気持ちにしてくれるのかな」
 なんだそれ、と泉が少し照れたように笑った。美緒はそれが嬉しかったのか、零れんばかりの笑顔を見せて、
「私、泉くんのこと好きだよ」
 と、素直にそう言った。
「な、何言ってんだよ、おまえは」
 突然の美緒の言葉に、ドキドキと鼓動が打ち始めた。何の前触れもなく告げられた言葉はあまりにも甘美で、いとも簡単に泉を翻弄する。上手く言葉を返せずに、マジマジと美緒を見つめるしかない。
「最初は、大キライだったけどね」
 少しだけ首を傾げてクスッと微笑む美緒は、とても少女らしくて、その愛らしさに視線を外せなくなった。
 その光景は、あまりにも自然で、そして奔放で、愛しすぎた。ヒラヒラと逃げてしまいそうな少女を捕まえたくて、つい手が伸びそうになる。
 泉を掻き立たせる感情が一体何なのかはわからないが、彼女を抱き締めたいと、ただそう思った。
「好きだなんて言ったら、薫に怒られるぞ」
「シーッ! ここ学校なんだから」
「あ、ごめん……」
 唇の前に人差し指を立てて、泉を嗜めた。
 ここが学校だったことを忘れるくらい、美緒に心を奪われていたことに情けなさを感じて、苦笑する。
 そんな泉を見て、美緒は『もう……』と、困ったように呟いた。
「女の子にだらしのない泉くんは嫌いだけど、その他の泉くんは好きだよ。先生に怒られてしょげちゃってる泉くんもね」
 美緒が零した薫の存在に、熱く火照った心が、冷たさを取り戻した。
 なんだ。やっぱり、ただの恋人の弟としての自分を好きなのか、と。
 そう思った瞬間、泉の中で生まれた戸惑い。元々、泉と美緒の関係は、それに過ぎなかったではないか。それ以上でもなく、それ以下でもない。近いようで遠い。美緒は兄の恋人であり、泉は恋人の弟。それは、わかりきっているくらい、泉が意識していた美緒の存在位置だった。
 それなのに何故、自分のその位置を寂しく思う自分がいるのか、全然わからなかった。
「さて、帰ろうかな……」
「気をつけろよ」
「うん。まだ暗くなってはいないから、大丈夫」
 とは言っても、外はもう夕暮れの赤で染まっていた。きっと、宵の闇が訪れるのは早いだろう。玄関から見える狭い空を見た後、生徒もまばらな校門の方を見やると、学園の制服ではない見慣れない制服を着た男子生徒が目に入った。
 誰かを待っているようなその出で立ち。スラッとした長身の体型。
 遠くからでも覗く横顔は、女かと見紛うほど綺麗な顔立ちをしていた。
「彼女待ちかあ?」
「え? 何?」
「あ、ほら、あそこによその学校の生徒が立ってるだろ? 彼女待ちかなあと思って」
 美緒にも見えるように、校門の方を指差した。俯いたままの横顔は微動だにせず、ただ誰かを待っている、そんな雰囲気をかもし出している。
 美緒は、その姿を視界に捉えると、あっ……と小さく声を漏らした。
「ハルカ……」
 彼の姿を見つけた途端、みるみる内に喜びで満ち溢れる美緒の表情を、泉は見逃さなかった。

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