華水の月

18.恋海に堕ちる

 泉が寝室を後にして、暫くした後、手にトレイを抱えて戻ってきた。やけにニコニコと微笑む泉の様子に、少し不安を覚える。ベッド際にトレイを置き、美緒の寝るベッドに腰をかけると、泉が美緒に向かって微笑んだ。
「起きろ美緒。昼ゴハンだぞ」
「……昼ゴハン?」
「そ。俺の初めての料理が食べられるなんて、おまえはなんて幸せ者なんだろうな」
「……初めて?」
 自身満々に言う泉とは対象的に、泉の話す言葉一つ一つに、美緒の心は不安に曇っていく。
 泉が持ってきたトレイの上には、何の料理かまるでわからない物体がそこにあった。そう、物体。そう呼ぶのがふさわしいと思うものだった。
「さあ、遠慮せず食えよ。食わなきゃ治んないぞ」
「え……うん、ありがと……」
「形は悪いけど、味はいいから」
 食べろといわれても、一体これが何なのかわからない。
 赤茶色のゴハンのようなものの上に、焦げた黄色や白の物体が乗っているのだ。形、と呼べるものはなかった。端的にこれを表現するならば、グロテスク、こんなに的を射ている表現はないだろう。とりあえず、皿の脇にスプーンが用意されていたので、それを手にとって、その物体をすくった。
「どう?」
 口の中にゆっくりと入れていくのを見ながら、泉が輝いた目で美緒にそう問う。もちろん、期待している言葉は一つ。美味しい。ただそれだけだろう。
 けれど、口の中に広がるなんとも言えない苦味に、美緒は表情を歪めないように耐えるのに必死だった。
「美味い?」
 ……どう答えたらよいのか。お世辞にも美味しいなどと言える味ではない。飲み込むのも必死で、今にも吐き出してしまいそうだ。けれど、こんなにも嬉しそうに見つめる泉を傷つけることなどできるわけがない。
 そんな風に美緒が困っていると、遠くから足音が聞こえ、急に寝室のドアが開いた。現れたのは、救いの人物。
「ただいま」
「あ、薫。お帰り」
「何やってんだ? そんなところで」
 ネクタイを緩めながら近づいて、二人を見た。泉の後ろにいる美緒に目をやると、まるで泣きそうな顔で薫に助けを求める目をしている。もしかして、泉にまた何かされたのか、と思ったが、膝の上に置かれた何やら不思議なものに、目が釘付けになった。
「何って、美緒に昼ゴハン作ってやったんだよ」
「昼ゴハン?」
「喜べ。薫の分もあるぞ。俺の初めての料理」
「……おまえが、作ったのか?」
「あったりまえじゃーん。なんなら薫の分もここに持ってきてやろうか?」
 ニコニコと楽しげな泉とは対照的に、薫は驚きを隠せないと言った表情を浮かべると、美緒のそばまで近寄った。そして、美緒からスプーンを奪うと、皿の上に乗った物体を、つつき始めた。
「……泉。聞いてもいいか?」
「ん?」
「これは……何だ?」
「へ?」
 美緒も聞きたかった言葉。その答えが知りたくて、泉に視線を向けた。すると、泉は、平然とした表情を浮かべて、答えた。
「何って、オムライスじゃん。薫、オムライス知らないのか?」
「え、オムライス……?」
 薫の言葉と同様、美緒も心の中で思ったこと。
 まさかこれがオムライスだとは思わなかった。見た目だけではない。あの何とも言えない苦味……。あれは、オムライスとは到底結びつかない。
「アホか、おまえは。これのどこがオムライスなんだよ」
「見た目は悪いけど味はいいんだよ。なあ、美緒?」
「……ん」
 飲み込めないままのオムライス? が、口の中に残っていて返事が出来ない。ずっと口内に残っているせいで、苦さは余計に増し、出すのも飲むのも叶わなくなっていた。瞳は自然と涙で滲んでくる。
 薫は、そんな美緒の様子を窺うと、ベッド際に置いてあったティッシュを取って、美緒の口元に押し当てた。
「美緒。無理はしなくていい。吐き出せ」
「なっ……何言ってんだよ、薫。失礼にも程があるぞ」
「ウルサイよ、おまえは。こんなもん美緒に食わせて、余計に体調悪くさせる気か?」
「ひっでえ。せっかく俺が作った料理を、そんな風に言わなくてもいいだろ」
「料理と呼びたいのなら、まともに食べられるものを作ってから、そう言え。……ほら、美緒。無理しなくていいから」
 心配そうに美緒を見つめる薫。
 本当は吐き出したくてたまらなかったが、自分のためにオムライスを作ってくれた泉のことを思うと、簡単にそうはできなかった。無理をして、ゴクリと飲み込む。こんなにも、異物が喉を通る感触を味わったのは、初めてだった。
「……無理すんなって言ったのに」
「美味しいから食べたんだよ。なあ、美緒?」
「……う、うん」
 泉の言葉を否定できなかった。まずいなんて言ったら、泉がどんな風に思うか。それならば、いっそ嘘を言った方がいい。
 そんな美緒の嘘など薫にはお見通しで、小さく溜息をつきリビングの方へ向かうと、少しして戻ってきた。手には、クスリの瓶を持って。
「美緒。クスリだ。飲みなさい」
「え……? まだ食事は終わってないんだぞ、そんな今すぐ飲ませてどうすんだよ」
「今飲まないと大変なことになるかもしれないんだよ」
「はあ?」
 渡された錠剤を三錠、口に入れる。水を手渡されて、ゴクリと飲み込んだ。薫が持っていた瓶を、泉がすかさず取り上げて中身を見る。すると、怪訝な表情を浮かべて、薫に食って掛かった。
「おい、薫。これ胃薬じゃん? なんで胃薬なんか美緒に飲ませんだよ。風邪薬の間違いだろう?」
「間違いじゃないよ。適切な判断だ」
「はあ? 俺の料理が胃を壊すとでも言いたいわけ?」
 口を尖らせて不服そうに話す泉を見て、薫はクスッと笑うと、美緒の膝の上に置いていた皿を取り上げて泉へと手渡した。それが何を意味しているのかわからず、泉が渋々受け取る。
「おまえ、味見してないだろう?」
「え……? 味見?」
「してないんだろう?」
「……さ、さあ?」
 その反応でわかった。味見なんて、最初から全くしていないことに。
 薫がスプーンで皿の上に乗っているものをすくい、泉の口に入れる。すると、口に入れた途端、泉が苦痛に歪む顔をした。
「どうだ? おまえの初めての手料理だ。さぞ美味いだろう?」
 ニコニコと皮肉に微笑む薫を前にして、泉の目はウルウルと涙で滲んでいく。少しの間の後、ゴクリと飲み込んだ。
 そして、第一声。
「薫先生……俺にも胃薬を下さい」
 泉の言葉に、薫は満足気に微笑み、美緒は笑いを堪えられなくなった。


 結局、薫の作った昼食を三人で食べた。
 泉への当てつけなのか、見事なほどに綺麗に作られたオムライスが、三人の前に並ぶ。最初不服そうな表情を浮かべていた泉だったが、一口食べるとすぐさまニッコリと笑った。『やっぱり薫のゴハンは最高だな』と、とても満足気に食べていた。体調が優れないせいか、半分ほど残してしまった美緒の分までペロリと平らげ、その後のデザートも忘れてはいない。半ば呆れ顔で泉を見る薫の表情が、美緒からするととても可笑しかった。
 食後の薬のせいで、眠気に襲われた美緒は、薫に見守られながら少し眠りについた。髪を撫でる優しい手が、とても心地よい。隣に一緒に寝て欲しいとせがむと、薫は嫌な顔一つせず、美緒が寝付くまで抱き締めていた。
 
 気付けば、外は赤。太陽が夕日に変わる瞬間。街を赤一色に染め、寝室内もそれに混じるように、赤い光が差し込んだ。
 白いシーツが、オレンジに染まる。体を起こし、目覚めたばかりのぼんやりとする目をゆっくりと開けると、隣に薫がいないことに気付いた。あたりを見回して、彼を探す。広い寝室には、結局、彼の姿はなかった。ただそれだけのことが、ひどく寂しいことのように思えた。
「……先生?」
 いないとわかっているのに、名を呼んだ。
 その声が、聞こえていたのか、いなかったのか。もしくは、美緒の想いが無意識に彼を呼んだのか。扉がゆっくりと開かれると、愛しい彼がその向こうに姿をあらわした。白いシャツが、オレンジに染まっていた。
「もしかしたらと思って来たんだけど、呼んだ?」
「……呼びました」
 コクリと、頷いた。薫は、そんな美緒を見て微笑むと、近寄り、ベッドの淵に腰を下ろした。彼の重みの分だけ沈むベッド。ただそれだけのことが、美緒にとっては愛しさに溢れているように思えた。
「調子は?」
「もう、大丈夫です」
「熱は?」
「……平気です」
 答えるよりも先に、薫の手が額に触れた。少しの間、触れたままにした後、ニッコリと美緒を見つめて微笑むと、額から手を離した。そして、美緒の髪をクシャッといじる。いつもの、彼のクセだ。
「もう大丈夫だな。良かった。これで家にも無事に帰れるよ」
「え? ……家?」
 薫の言っていることの意味が一瞬わからなかった。
「美緒の家だよ」
「……あ、ああ。そっか」
「もしかして、一瞬忘れてただろ」
 薫が呆れ顔で笑った。彼の言う通りだった。自分の帰るべき家のことなど、すっかり頭になかったのだ。薫に抱き締められ、口付けられ、ずっと寄り添っていた、たった一日間の間に、美緒にとってはそれが世界の全てになっていた。ずっとこのような時間が続くのだと、勝手に思っていた。甘く心地良すぎる理想の世界に、浸かりすぎていたようだ。
「明日から学校だから、さすがに今日は帰らないとな」
 また、髪をいじられる。
 言葉ではそんなことを言っていても、その瞳の奥には少し寂しそうな色が見えて、胸が締め付けられた。
「たまにはいいな。おまえがいる週末も」
「たまには? ……いつもじゃなくて?」
「いつもだったら、俺はきっとおまえのことを離せなくなるよ」
「え……?」
「校医と生徒だってことを忘れて、きっとこの部屋から出られなくなる」
 ――なあ、美緒。
 君と二人でいつまでも一緒にいられたら、それはどれだけ幸せなことなのだろう。そのためには、どれだけの罰を受けなくてはいけないのだろう。
 けれど、それさえも甘美だ。君と引き換えに、受ける罰ならば。
「だから、時々が丁度いい」
「……そっか」
「うん」
「なんか、寂しいですね……」
「そうだな」
「こんなに、近くにいるのにね……」
 俯く美緒の目元に、夕日が影を作った。髪に触れていた手を後頭部に当てて、引き寄せる。何の抵抗もなくされるがままの彼女の体が、胸の中にストンと納まった。弱々しく背に回される小さな手。思わず切なさが胸を掻き毟って、美緒の唇を奪っていた。
「……ダメ。風邪がうつるから」
 柔らかい口付けを静かに重ねた後、美緒がポツリと呟いた。
 言葉とは裏腹に、唇は薫を受け入れたくせに。
「おまえから貰えるものなら、全部欲しいと思うよ」
「……風邪も?」
「風邪でも、甘いキスでも……たとえ罰だとしても」
 今度はさっきよりも深い口付けを彼女の唇に落とした。最初は少し戸惑い気味だった美緒の唇も、段々と薫を受け入れる。背に回されたままだった小さな手は、薫の首に回され、自ら彼を引き寄せた。
 もっと……。もっと、深く口付けるように。
「……先生。昨日の約束」
「昨日の約束?」
「一晩中……その……」
「何?」
「……わかってるんでしょ?」
「いや、わからないな」
 唇が触れそうなほど近くにある距離。真っ赤になって俯く美緒を、いつもの意地悪な瞳で見つめると、彼女の鼻先にチュッと口付けた。距離感は変えないまま、ゆっくりと押し倒す。初めて美緒に触れた時と同じように、簡単にベッドに倒れこむ華奢な体。薫も同じように、美緒の上に覆い被さると、彼女の耳元へそっと口付けた。
 その、微かな感触が、美緒の欲情に火を付ける。
「……しよう?」
 上目遣いで見つめて、小さく怯えたような声で呟いた。まるで猫のような愛くるしさ。無防備なくせに、怯えていて。震えるくせに、容赦なく男を誘う。
 薫は、そんな彼女の言葉を受け止めると、一息置いて苦笑した。
 本当に参ってしまう。自分より年下の少女に、こんなに心揺さぶられるだなんて。
「その誘い文句は、反則」
「どうして?」
「優しくできなくなりそうな気がするから」
「……いいよ?」
 戸惑うような瞳で彼を見るのに、けれど、薫を全て受け入れた。
 だから、そんな仕草がダメなのだ。そんな風に、無防備に求められると、ずっと守ってきたはずの理性が飛んでしまいそうになる。無茶苦茶に、壊してしまいたくなる……。
「私、先生の全てが見たいの。いつも優しくなくてもいいよ? ……だから、全部見せて」
「……バーカ。煽んなよ」
 ギュッと、美緒を抱き締める。
 愛しいのに、切なかった。切ないのに、好きで好きでたまらなかった。いくら恋人でも、少女相手に大人のワガママをぶつけてしまうなんて、格好悪い。けれど、君が見せて欲しいと願うのなら……。
「……愛してる。先生以外に……何もいらない」
 ――愛してる。
 美緒が薫に残した言葉はとても甘く切なくて……。無色に揺れる彼女の波に、薫は次第に捕らわれていった。


 少し開いた扉の向こうから、小さく漏れる嬌声と、二人の乱れた呼吸の音が響く。
 それは、思わぬ偶然だった。少しの間、薫の家を留守にし、戻ってきた時に、二人の姿が見えなかったのだ。だから、探すつもりで、薫の寝室の扉に手をかけた。ドアノブに手をかけ、開こうとした瞬間、響いた少女の声。
『……愛してる。先生以外に……何もいらない』
 一瞬、時が止まった。ドアノブにかけたままの手が、震えた。言葉は、とても甘く囁くのに、泉に向けられたわけではないその言葉は、泉を絶望の底へ突き落とす。
 わかりきっているのに、それを言った少女が美緒でないことを望んで、中を覗った。薫の首に腕を巻きつけ、倒れこみながらキスを重ねる二人の姿。紛れもなく、その少女は美緒で、泉はすぐさま目を背けた。
 ――なぜ。
 なぜ、こんなにも胸が痛い?
 握りつぶされそうな痛みに、思わず嗚咽が漏れた。以前、路地裏で見せ付けられた時とは比にならなかった。まともに、見ることさえできなかった。この扉の向こうにいるのは、薫と美緒でないことを、何度も何度も願った。
「……バカみてえ」
 皮肉な笑いが零れる。
 近付いたのは泉の方だ。兄の彼女がどんな女なのかと、興味を抱き、手を出したのは泉の方。だから、薫にも美緒にも、何ら否はない。
「今になって気付いたよ……美緒……」
 君はきっと、最初から兄の彼女なんかじゃなかった。
 初めて美緒に近付いたあの日。目の前で涙を零したあの時。きっと、泉はあの瞬間に美緒という少女に恋をした。
 初めての本気の恋だから、わからなかった。だから、何の恐れもなく、不安も抱かず、美緒という海に足を踏み入れた。波が、あっさりと泉を引き込むことを知らずに。

 もう三人でいた楽しい日々には戻れない。
 もう君は、兄の恋人なんかじゃない。
 可愛い妹なんかじゃない。
 ――君は。

 君は、この世で一番愛してはいけない愛しい人。

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