華水の月

24.君の手を離さない

 夢を見ていた。とても甘い夢を。愛しさ全てに包まれているような夢だった。
 唇に、優しさを降らせたようなキスの感覚さえリアルに感じるような。
「……お……みお……」
 肩を優しく揺すられる感触と、低く響く柔らかな声が心地よくて、夢の中を彷徨い続けていた。
 深い、深い海。
 深いのに、怖くなどなく、むしろ鮮やかとも言えるほどの安心感がある。まるで、胎内にいるかのような、そんな不思議な感覚。留まらず、けれど流されない。柔らかい波が、ゆらゆらと揺れては美緒を離さない。守られ、不安も抱かずに身を委ねられるこの感覚は、紛れもなく、あの人の腕の中と同じだと思った。
「……美緒。美緒!」
 その腕が、大きく肩を揺さぶっているのに気付いて、ハッと目を覚ました。耳には、夢の中と同じ声が、耳元で響いていた。
 恐る恐る目を開ける。すると、目の前には、夢の中でも感じていた、その人が立っていた。
「やっと起きたか」
「え……。先生、どうしてここに……」
「どうしてって、おまえの携帯にいくら連絡しても、繋がらないからだろ?」
「あっ。ごめんなさい、マナーモード解除するの忘れてました」
 机の上に置きっぱなしになってる自分の携帯を手に取り、すぐさま画面を見る。薫からのメールと不在着信を知らせる表示があった。
 いつの間に眠ってしまっていたのだろう。薫と泉を待つ間、勉強をしようと思って机の上にノートや教科書を開いたのはいいものの、なかなか集中できず、ハルカの思い出残るシェイクスピアを読むことにした。それを読んでいる間に寝ていたということなのだろう。うつ伏せていた腕の下には、途中まで捲られた本が、隠れるように置きっ放しになっていた。
「こんなところで寝てると風邪ひくぞ?」
 薫が小さく微笑んで、美緒の髪をクシャッといじった。ただ、それだけのことが、美緒の心を締め付ける。
 暗くなった淡い光の中で見る薫の姿も、相変わらず美しくて、その顔を直視できなかった。
「……ごめんなさい。寝るつもりなんか全然なかったのに」
「別にいいさ。おまえの寝顔、すごく可愛いし」
「か、可愛くなんか……」
「教室だってことも忘れて、思わずここで襲いたくなるね」
「なっ、何バカなこと言ってるんですか」
「……素直に受け入れられないところは相変わらずだな」
 薫の言葉に、顔を真っ赤にして否定する姿を見て、クスクスと笑った。
 自覚がないところが、いかにも美緒らしい。誉めれば、真っ先に否定の言葉を返してくるくせに、表情は恥ずかしげな奥ゆかしさを残して、そんな姿は純真無垢な少女そのものだ。そんな彼女だからこそ、意地悪したくなるのだというのに。
「ところで、泉は?」
「え? 泉くん……ですか?」
「俺の仕事が終わるまで、美緒と一緒に待ってればいいって言っておいたんだけど」
「私の知ってる限りでは、見てませんけど……」
 外は、もう薄い紺色をしていて、放課後と呼ぶには不似合いな光を放っていた。甘い夢を見ていたせいで、泉の記憶などこれっぽっちもない。もしかしたらここへ来たのかもしれないが、起こされた風もなかった。いつもの泉なら、無理矢理にでも美緒を起こしそうな気がしていただけあって、少し不思議な感じがした。
「ったく、何やってんだろうなあいつは」
「約束忘れたんじゃないんですか?」
「いや、それはないだろう。何せ、自分のための食事会だからな。好きなだけデザートも食べるだろうし……どんな理由を付けても絶対に来そうだよ」
「なんか、酷い言われようですね、泉くん」
 薫の物言いに、美緒がクスクスと笑った。そんな美緒を見て、薫も苦笑する。
 二人の間に流れる穏やかな雰囲気に、ゆっくりとした時間が流れた。
「あ、これは……」
「どうしたんですか?」
「ほら、これ見てみろ」
 薫が、机の上にある何かに気付いて、指を差した。その指の先を、美緒もじっと見る。すると、開いたままの美緒のノートの片隅に、誰かが殴り書きしていた。その文面で、これを書いたのが泉であることをすぐに悟った。
「ふーん。あいつにも遠慮ってものがあるんだな」
「ここに来てたんですね、泉くん……」
「ああ。もしかしたら、少し気を遣わせたかもしれないな」
 ノートの端に書かれていた泉の言葉。
『美緒へ。たまには薫とデートでもしてこいよ。いつも我慢ばっかしてると、可愛げのない女になるぞ。その代わり、次は俺との約束守れよな』
 泉らしいその言葉に、薫が小さく笑って、そして彼女に問い掛けた。
「で、約束って、何だ?」
「えっ? ……ええと、なんだろう?」
 あからさまに、美緒が嘘の微笑を浮かべた。特に気にするでもなかったが、美緒のそんな様子が可笑しくて、薫は更に追求した。
「何か俺にいえない秘密でもあるのか?」
「な、ないですよ。そんなもの……」
「でも、何か約束したんだろ?」
「してません……」
「もしかして、俺に秘密で浮気でもしてんのか?」
「してない!」
「じゃあ約束ってなんだよ」
「あれは泉くんが勝手に言ってたことで、守る気なんかないもん!」
 そう口にして、ハッと息を呑んだ。バツが悪そうに顔をしかめる美緒を、薫がニヤニヤと微笑みながら見つめる。意地悪なその視線が、どうにも憎らしい。ハァ……と小さく溜息をついて、俯いた。
 泉の言う『約束』とは、きっと以前スーパーで会話していた時のことだろう。太らない理由を教える代わりに、美緒が相手をすることを約束した。そう。泉のセックスの相手を……。
 そんなこと、口が裂けても薫に言えるわけがないのだ。元より、冗談だとしても、美緒の口からそんな言葉を口にはできない。すると、そんな美緒の気持ちを察してか、薫がわざとらしく話をはぐらかしながら憎まれ口を叩いた。
「あーあ。俺にまで嘘吐くなんて、ひどい彼女を持ったもんだな」
「何よ。先生だって、いつも私に意地悪ばっかりするくせに」
「それは、おまえが可愛いからだろ?」
「……っ。そ、そんな言葉で騙されませんから!」
「本当は嬉しいくせに」
「嬉しくなんかないもん。……先生のバカッ」
 そう言って、フンとそっぽを向いた。言葉とは裏腹に、頬は赤く染まって、今にも綻んでしまいそうな表情。そんな彼女があまりに可愛らしくてたまらなかった。
「泉もいないんじゃ、今日の食事の意味ないけど、まあいいか」
「どうするんですか? これから……」
「おまえさえ良ければ、これからの時間、俺にくれない?」
「え?」
「……せっかくだから、おまえと二人で過ごしたいなと思って」
 薫の言葉は、素直に嬉しかった。美緒を見る優しい瞳も、言葉も、どれも嘘がなくて、本心から二人でいたいと望んでくれていることを感じられた。
 でも、何故か、そういう気分にはなれなかった。泉がいなければ、何かが足りない。いつもなら、そんなことは思わなかったかもしれない。でも今日は……泉の最後の日を祝おうと心に決めていた今日は、薫と二人だけで楽しむという気持ちにはなかなかなれなかった。
「あの……先生?」
「ん?」
「あの……ね」
「どうした?」
「あの……」
「……泉がいないと物足りない?」
 俯きがちで、なかなか本心を切り出せない美緒を、腰を屈め、覗き込むように見た。視線の先には、少し寂しそうな表情を浮かべる薫がいて、その目を直視できなかった。思わず罪悪感が募って、胸がチクリと痛む。
「ごめんなさい……。なんか今日は泉くんがいないと変っていうか……」
「そっか」
「先生と一緒にいたくないとか、そんなんじゃないんです。本当はさっきの言葉もすごく嬉しかったし。でも……今日は違うっていうか……」
「わかったよ。気にすんな」
「ごめんなさい……」
「バーカ。謝らなくたっていいよ」
 ポン、と軽く乗せられた彼の手。その重みと温かさに、彼の優しさを心に被せられたようでジンとした。
 いつも、言葉にできない些細な気持ちを察してくれる。全てを優しさで包んでくれる。責める前にいつも認めてくれて、理解してくれて、そんな彼の大人な考え方を、本気で見習いたいと思った。時に理性だけでなく感情の欠片を見せて、恋人の気持ちを繋いで離さないその愛し方さえも。
「じゃあ、帰るか」
「うん」
「外も暗くなったしな。家まで送るよ」
「え……いいんですかあ?」
「送らなくても『いいんですかあ?』」
 美緒の言葉を復唱するようにわざとらしく答えた薫に、美緒が顔を歪める。
 その表情が可笑しくて、薫が笑った。
「真似しないで下さい」
「ごめん、つい可愛かったから」
「可愛いも余計です」
「可愛いもんは可愛いんだから仕方ないだろ?」
「……先生が言うと、なんか信憑性に欠けるんですよね」
「そう?」
 薫が、片眉をピクリとあげた。心外だ、とも言いたげに。
「だって、誰にでも言ってそうだから」
「まあ、全否定はできないな」
「でしょ? だから信憑性に欠けるんです。信用できないっていうか……」
「バーカ。本心から言ってるのなんておまえにだけだっつーの」
「……その言葉さえも欠けるんです」
 フェミニストな薫は、自分の周りにいるどんな女の子にも平等に優しい。けして疎ましがったり、蔑んだり、傷つけたりはしないのだ。それは、まだ美緒が恋人でなかった時からそうであったし、そして、美緒に対しての薫も、この上なく優しかった。そんな彼の行動や言動は、一見プレイボーイと勘違いされそうな雰囲気があるが、美緒はそれが嫌いではなかった。恋人として、妬くことも稀なくらいで、時折それが不思議でもあった。なぜ、自分以外の女に優しくする男を、黙って見ていられるのだろうかと。
「本当バカだな、おまえは。俺が抱き締めたいと思うのはおまえだけだって言うのに」
「……あっ」
 座ったままの彼女の体を引き寄せて、胸の中にギュッと閉じ込めた。愛しげに髪を弄ぶ彼の指。胸の中に閉じ込めるようなその抱き方に、全てを包まれているような錯覚に陥る。
 その時、なんとなくだが、わかってしまった。
 彼は、いつだって、美緒だけの場所を用意してくれている。どんなに彼の周りに想いを寄せる女がいようとも、けして入れない領域が彼の中にある。けれど、美緒にだけはその場所をスッと差し出してくれるのだ。今、こうやって抱き締められている腕の中のように、広く温かく、心地よい場所を。
 彼の特別であることを感じる瞬間。
 愛されていることの自信がない時、そんな彼女の気持ちを察して、突然ぽつりと『愛してるよ』などと口にしたり。不安に押しつぶされそうな時、さりげなくギュッと抱き締めてくれたり。心だけでなく、体で愛されたいと思えば、優しいキスを唇にくれる。言葉にしなくとも伝わる薫の愛情。美緒の不安を一つ一つ拾い上げては、真綿で包むようにやんわりと守ってくれる彼のその大きさに、何もかもを委ねてしまっているのだと、その時思った。
 だからこそ、意識しなくともわかるのだ。他の女の子にはない特別な宝石のようなものを、美緒が薫からもらっていることに。
 薫の腕に抱かれながら、心地よく思っていたその時、夢の中で感じた彼を思い出した。
「ねえ……先生?」
「ん?」
「私ね、夢を見たの」
「どんな?」
「わからない。でも、とっても先生を感じられた夢でした」
「ふーん、それは光栄だ」
「……あの、それでね」
 夢の中で、感じたリアルな感触。唇に触れたあの感覚は、もしかしたら、現実にも薫なのではないかと思った。
「私が寝てる時に、何かしましたか?」
「何かって……どういう意味?」
「触ったりだとか……」
「いや? なんでそんなこと聞くんだ?」
 体をそっと離して、彼女の顔を覗き見る。少し恥ずかしげに頬を染める彼女の表情に、なんとなくだが考えてることが読めた。
「いえ、何もしてないなら、別に……」
「キスとか、そういうことしたかってこと?」
「……キスしたの?」
 消え入りそうな声だから、わかってしまった。唇に覚えがあるということだ。薫の知らない、唇の感触が彼女の唇に残っているという……。
 薫は一瞬怪訝な表情を見せると、美緒の後頭部に手を当て、グッと引き寄せた。そしてそのまま、強引に口付ける。まるで、奪い去るような突然の口付けに、美緒は驚きで身を固くした。
「な、何? 突然……」
「ん? 消毒だよ、消毒」
「消毒……?」
 唇を離した途端、ニヤリと笑ってそう口にした薫に、余計に疑念が深まるばかりだ。
 すると、今度はついばむようなキスを、彼女の唇に軽く落とした。
「な、何の消毒ですか?」
「まあ、おまえは知らなくてもいいことだよ」
「何? 気になります」
「大丈夫。ちゃんと消毒しといたから、気にするな」
 美緒の唇に人差し指を押し当てて、クスッと微笑んだ。
 それは、美緒の夢の中のことで、現実ではないのかもしれない。キスの感触など、夢が誘う幻なのかもしれない。けれど、泉の気持ちを悟っている薫だからこそ、なんとなく気付いたのだ。自分が泉であっても、そうしたに違いないと……。あえて、責めようという気にはなれなかった。自分の想いが何かとリンクしたせいもあるかもしれない。
 けれど、放っておくのも癪だ。だから、苦い思いを抱き締めながら、彼女へと口付けていた。薫の残すもの以外、何も彼女に映らないように。
「さあ、帰ろう。外はもう暗いし」
「あ、はい。じゃあ準備しますね」
 机の上にあるものを片付ける美緒をよそに、薫は窓の外を見つめる。
 いつもなら、明るい日差しが差し込むはずの教室。けれど今は薄い闇に覆われて、互いの表情を覗うのがやっとだ。そう、二人いることを確認するだけにすぎない、薄い闇。
 二人の関係は、けして太陽の光を浴びることなく過ぎていく関係。それが、美緒が卒業するまでのことだとしても、やはり切なくてたまらなかった。美緒にとっても、今の関係がつらくないと言えば、嘘になるだろう。きっと、誰の目も憚ることなく愛せる男を欲しいと思ったことだろう。わかっている、薫自身が、美緒にとってプラスだけの存在ではないことくらい。
 けれど、愛してしまったんだ。
 どうしようもなく、君を――。
「先生、準備できましたけど」
「……え? ああ、じゃあ行くか」
「どうか……しましたか?」
「いいや、どうもしないよ」
 心配そうな目で見る美緒の瞳を柔らかな笑顔で返して、彼女の手をスッと握った。軽く引いて、後ろからついてくる彼女を背中で感じる。愛しさが胸に募って、穏やかな気持ちが薫を包んだ。
「ねえ、先生?」
「ん?」
「もしかしたら誰かに見られるかもしれないし……手……」
「駄目、離さない」
「でも……」
「大丈夫。暗くて誰だかわからないさ」
 たとえ薄い闇の中でも、互いの存在がわかるならば、それでいい。君を繋ぐ右手をけして離しはしないと、強く思った。そんな小さな幸せに過ぎなくとも、美緒のくれる幸せならば、甘く、美しい。愛されているという事実さえあれば、それだけで何もいらないと思うほどに。
 強く握る薫の右手を、左手でしっかりと受け止めると、美緒はそれ以上何も言わず、ただ彼の後をついて歩いた。表情は、小さく微笑んでは甘さを残す笑みを、浮かべながら……。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.