華水の月

25.煙る刹那の恋

「泉効果抜群ね」
 少しだけ開いた古ぼけた窓に向かって、煙草の煙をゆっくりと吐きながら、麗しの女教師はそう呟いた。
 艶かしいその色香は、声を辿ってさえも伝わってくる。本来彼女の持つ無邪気な愛らしさや美しさを伴えば、向かうところ敵なしの女だ。そのはずなのだ。本来は。
「泉効果……?」
「泉がいないから次は薫。元々貴方のファンも、泉一筋だったファンも、今じゃ全部あなたに向いてるでしょ?」
「なんだそれ」
「泉くんがいなくなってから、前にも増して人気者になったんじゃないの?」
「さあ……どうだかね」
「またとぼけちゃって。本当は迷惑に思ってるくせに、そんな風に感じさせないところ、やっぱり薫ってフェミニストね」
「迷惑なんて思ってないよ」
 小さく苦笑して俯く顔に影を落とした。そんな、些細な仕草さえサマになる。その長身の出で立ちも、細く長い指も、切れ長の氷のような目も。
 なのに、彼だけは麻里を見ない。絶対に、麻里に揺れることのない、男。
「嘘ばっかり。保健室にいたら女の子の相手が大変だから、ここに逃げてきたくせに」
「先約がいるとわかってたら、来なかったよ」
「あら、私がいるのが迷惑だとでも言うの?」
「いや? むしろ、ラッキーなことだと思うよ。君と時間を共にしたい男は数え切れないからな」
「……薫を除いて?」
 返事はなく、ただ微笑みが返ってくるだけだった。けして女性を否定しないその優しさは、昔も今も変わらない。変わったのは、麻里を見る彼の目だ。昔はあったはずの愛しさの欠片が、その眼差しからは消えていた。
 ――いいや、他の女のものになっていた。
「人間、安らぎを求める場所はそう変わらないってことなのかしら」
「ん?」
「だって、こんな陰気臭い所で貴方に会うなんて思わないじゃない?」
 鼻を掠めるのは、古ぼけた本の匂い。けれど、それがやけに人の心を落ち着かせる。静まり返った空気さえ、安らぎを与える。図書室の奥深くにある埃っぽいこの場所は、数日前に美緒とキスを交わした場所だ。少しの静寂が欲しくて、薫は一人ここへと向かったのだ。まさか、その場所に、麻里がいるだなんて思わなかった。
「二人とも悪趣味ってことじゃないのか?」
「あら。私を一緒にしないでくれない?」
「失礼しました」
 挑発的な麻里の物言いに、薫が苦笑する。
 はっきりと、そして真っ直ぐで嘘のない言葉は、麻里自身そのものだ。付き合っていた時も、そして今も、彼女は変わっていない。
「でも、まさかおまえがここにいるなんて思わなかったよ」
「だって、どこでも吸えないんだもん」
「ん?」
「タバコ。薫以外の人は、私が煙草吸ってること知らないのよね。生徒の手前、堂々と吸えないし、やっぱり女が煙草は……っていうのもあるし」
「おまえの場合は、似合ってるからいいんじゃないの?」
「似合ってる? 私が?」
 薫の言葉が意外で、じっと彼を見入ってしまった。
 付き合っていた当時は、彼に嫌われることが怖くて、喫煙していることを必死で隠していた。女だという体裁を守るために。それだけ恐れていたということなのだ、煙草というものが持つ悪いイメージを。
 だが、薫は意外にもあっさりと麻里のイメージを認めてしまったものだから、拍子抜けしてしまった。
「おまえの場合はすごくサマになってると思うよ、煙草を吸うっていう行為が」
「ふーん……意外ね。私はてっきり嫌がられるかもしれないと思ったけど」
「そう? 格好いい女って感じで、俺は好きだけど」
「ありがと……」
「どういたしまして」
 そろそろ簡易式の灰皿に煙草を捨てようと思っていたが、薫の言葉に、あと一服することにする。似合っていると言われた手前、すぐにやめるのはおかしな気がしたのだ。煙をゆっくりと吐いた後、煙草を灰皿の中にしまった。
「じゃあ……」
「ん?」
「だったら……もし真中さんが煙草を吸うって言い出したら、どうするの?」
 ふと、問うてみたくなった。
 比べることなどおこがましい。彼女を引き合いに出すなど、自分が余計に惨めになるのだとわかっているのに。でも、好きだと言われた瞬間、素直に嬉しかったのだ。だから、もしかしたらその先も、優越感が待っている気がして、引き合いに出してしまった。
「……たぶん、止めるかな」
「どうして?」
「あいつには似合わないよ」
「私とは違って、清純だから?」
「そういうわけじゃないけど、でも、止めると思うよ」
「似合ってるかもしれないじゃない?」
「たとえ似合ってても、だよ。喫煙者の俺が止めるなんて、変な話だけどな」
 やっぱり聞かなければ良かったと思った時は、既に遅い。期待していた半分、覚悟もしていた言葉は、やはり麻里を喜ばせるものではなかった。自分で招いたことだからこそ、馬鹿らしくなる。
「それに、吸って欲しくないんだ、美緒には」
 その言葉で、さっきまで僅かに感じていた優越感は欠片もなくなった。
 吸って欲しくはない。それは、薫が美緒を『女』だと思っているからだ。大事に思っているからこそ、彼女の体を思うし、そして理想の女を追い求める。
 その反面、麻里は、薫にとってただの人。性的対象ではなく、ただの一人の人間としてそこにいるに過ぎない。だから、麻里のすることに口を出すこともなければ、何も求めることはない。
 一人の女性として見てもらえていないという現実が、こんなにも惨めだとは思わなかった。たった少しのこと。煙草を吸うか、吸わないかに過ぎないことなのに……。
「ねえ。じゃあ、私と付き合っていた時、もしも煙草を吸ってたことを知ってたら、止めてた?」
「どうしてそんなこと聞くんだ?」
「答えて。ねえ、止めてた?」
 薫の目を真摯に見つめた。はぐらかされることのないように、彼が嘘を吐かないように。
「……ああ。止めてたと思うよ」
 困ったような微笑を浮かべながら、薫の答えた言葉に、少しだけ安堵した。少なくとも、過去の自分は美緒と同じように愛されてたという証。そんな遠い思い出に縋り付いてでも、薫と結びつくものが欲しかったのかもしれない。たとえ今は愛されていなくとも、彼の想いの中に自分はいたという証が欲しかったのかもしれない。
 そんなことに縋りつくなんて、本当に私は惨めな女だと、麻里はそう思った。
「バカな男……」
「そうですか?」
「優しくて、とても残酷だわ」
「誉めてるのか、けなしてるのかどっちか微妙な意見だな」
「女に愛される術は誰よりも知っているのに、女に嫌われる術を貴方は知らないのよ」
 別れても尚、愛していると想いつづけてしまうこの気持ちは、けして麻里のせいだけではない。彼女自身、ずっと努力しているのだ。新しい恋愛をしようと。そして、薫のことを忘れてしまおうと。
 けれど、優しい薫をいざ目の前にすると、自分が愛されていた頃の記憶がふっと蘇ってしまう。彼の仕草や、優しい言葉に、過去へとフラッシュバックしてしまう。いっそ徹底的に突き放してくれればいいのに、彼は昔も今も、変わらず麻里に対して優しかった。それは、他の女性に対してのものと同じ優しさだとしても、素直に嬉しかった。それ以上を求めてしまった。
 だからこそ残酷なのだ。彼は、女の心を惹き付けて、けして離しはしないのだから。
「まあ、女性に想われるのは光栄なことだよ」
「……嘘よ」
「どうして、嘘だって言える?」
「だって……だって少なくとも貴方は、私がいつまでも気持ちを引きずっていたことをよく思ってないはずだわ」
「そんな風におまえが思っていたなんて、初耳だ」
「それも嘘よ……。わかってるくせに、知らない振りしてるんでしょ?」
 薫の優しさは残酷だけど、けれどとても心地よい。憎めたらどれだけ楽だろう。こんなに優しい男を、嫌いだと思えたらどれだけ……。
「でも……ありがとう。フリでも、私嬉しかったよ」
 けれど、それでも嬉しかった。何も言わず、何も責めず、ただ優しく微笑んでそばに置いてくれる彼に本気で感謝した。たとえ今は愛されていなくても、過去はちゃんと愛されていた。こんな自分でも、彼の中にはちゃんと居場所があった。それを否定されなかったことが、麻里にとってどれだけ救いになっていたことか。少なくとも、自分という人間を否定することはなかったのだ。そのせいで、薫を忘れられないのは別として。
「バカだな、おまえは。何泣いてんだよ」
 俯いて、何も喋らなくなった彼女の髪をクシャッと弄った。昔と変わらない彼の癖。それが、尚も涙を誘った。俯いては、ポロポロと止まらない涙を必死で指で拭いながら、呼吸を落ち着けようとする。
 薫の前で泣いてはいけない。困らせてしまうだけ。惨めになってしまうだけ。どうせ彼は、麻里のものにはならないのに……。
 けれど、髪に触れる彼の温もりに、涙を止める術が見つからなかった。
「ほら、泣くな。美人が泣いたら台無しだろ?」
「わ、私だって泣きたくないわよ」
「じゃあ泣くなよ」
「薫が優しいせいでしょ」
「……おいおい。優しくして泣かれたら俺たまんないんだけど?」
 苦笑を零しながら、髪を撫で続ける。まるで子ども扱いしているような彼の態度に少し反発を覚えながらも、やはり嬉しかった。甘やかすその手が、愛しくてたまらない。この瞬間だけでも、薫は麻里を見ていてくれる。それだけのことが、嬉しくてたまらなかった。
 昔は、薫の永遠を欲したのに。
 今は、一瞬を奪えるだけでも心満たされている。
 なんとも、不思議だ。これが、恋というものなのだろうか。
「抱き締めてくれたら泣き止むかもしれない……」
「それはできないよ」
「どうしてよ……」
「生憎、この腕はおまえを抱けないから」
「何よ。『美緒』のことはしょっちゅう抱き締めてるくせに」
「イヤミだなあ……おい」
 率直で挑戦的な麻里の言葉に、呆れにも似た乾いた笑いを零す。元々、甘えてみたり、わがままを言ったり、拗ねてみたり、そういう女の特権や弱さ、愛らしさを麻里は普通に魅せつける。それを、わざとらしくというわけではなく、自然体でやってのけるのだ。だからこそ、溺れる男は多い。昔の薫も、そういった麻里の態度に、よく翻弄されていたと思い出した。それゆえの苦笑だった。
「抱いてくれないなら、もっと泣いてやる」
「勘弁してくれ」
「なによ、ケチね」
「ケチでもカスでも何でも言ってくれていいよ。それでおまえが泣き止むなら」
 呆れた声で麻里を嗜める薫の手を遮って、麻里が顔を上げた。そして、彼が見せた一瞬の隙を狙って、思い切り抱きつく。胸に頬を摺り寄せて、背中に腕をギュッと回した。
「おい、結城先生?」
「結城先生じゃない、麻里よ」
「何度も言ってるけど、もうその名では呼べないよ……」
「……たかが名前なのにね」
「ん?」
「……結城先生って呼ばれる月日よりも、麻里って呼ばれてた頃の方が確かに長いはずなのに……なんかもう、薫が私の名前を呼ぶ声を思い出せなくなっちゃったよ……」
 思い出は甘ければ甘いほど、それが現実だったのかどうか曖昧になっていく。まるで、夢だったのではないかと思うほどに。
 薫は、抱きついた麻里を無理矢理引き離すこともなかったが、けして抱き締めることもなかった。肩に置かれた手がもどかしい。少しでも力を緩めれば、容赦なく引き離されてしまいそうな気がして、麻里は抱き締める腕に力を込めた。
「じゃあ、いいわよ、結城先生で」
「ほら、離れて。君を抱けないってさっきも言っただろ?」
「……私はもう」
 麻里の声のトーンが一つ下がって、一瞬薫の力が弱まった。
 ただのワガママでなく、理性を持った言葉がこの先に待っているような気がして、耳を傾ける。
「もう、私は貴方の過去の女じゃないわ」
「ん?」
「だから、麻里って呼ばなくてもいい。結城先生でいい。その代わり、私も新しく始めるの。薫が、私を忘れて真中さんを大事にするようにね」
 泉と、体を交じり合わせようとして、わかったこと。
 結局、今の自分は、薫しか愛せないのだ。これから先、いずれ薫を忘れてもっと愛し合える人に出会えるのかもしれない。麻里を懸命に愛してくれる男性が現れるのかもしれない。けれど、今は今なのだ。薫を好きな気持ちに嘘はないし、止められもしない。今までは、一度自分が彼を振って終わった恋なのだからという引け目があった。あの時、彼との別れを選んでしまった自分が悪いのだと。
 だが、もうそんな考えは捨ててしまおう。過去に縛られず、今想うこの気持ちを大切にしたい。だから……
「元カノの結城麻里じゃなくて、この学園で出会ったただの教師結城麻里として、あなたに向き合うわ」
「……どういう意味?」
 怪訝そうな顔で見つめてくる薫の眼差しを、微笑で返した。その目元にはもう、涙は浮かんではいなかった。
「新しく生き直すの、私らしくね」
 麻里の言葉の真意がわからなくて、薫はどう返事を返していいのかわからなかった。全くもって、この女は昔から何を考えているのかよくわからない。今思えば、別れた時の彼女が切り出した理由さえ、実はよく理解できているわけではないのだ。いつも自分で考え、自分で決め、それを実行に移してしまう。たとえ突拍子のないことでも、自分自身が決めたことならば迷いがない。周りの気持ちよりも、自分の気持ちを最優先に。それが、結城麻里という女だった。
「恋愛も新しく始めるわ。もう余計な気持ちに縛られないことにしたの。私らしく、恋したいから」
「……そうか」
「覚えてる? 私ってかなり積極的なのよ?」
「……ああ。それは嫌っていうほど知ってる」
「俺も散々振り回されたから、って言いたいんでしょ?」
「それは、秘密で」
「意地悪ね。でも、そういうところが薫らしいけど」
「そうかな」
「まあ、そういうことだから、邪魔しないでよね」
「俺がいつ君の邪魔をした?」
「さあ……わかんない」
 クスッと微笑を零す麻里は、鮮やかなほど眩しくて、美しかった。彼女がどんな思いを秘めているかなんて、薫には知る由もなかったけれど、かつて愛した人の涙を見るよりは、やはり笑顔を見ている方が嬉しかった。
 けれど、素直に応援できないのは、やはりその気持ちが自分に対するものだと気付いていたからかもしれない。
「じゃあ、そろそろ離れようか? もう泣き止んだみたいだし」
「何よ、減るもんじゃないんだからもうちょっと抱いてくれたっていいじゃない?」
「抱いてるのはおまえだろ?」
「じゃあ、離さないわ」
「おいおい……俺を困らせないで」
「困ってる顔も好きなんだけどな?」
「俺は、困らせられるのはゴメンだよ」
 そう言って、麻里の肩に置いたままの手にグッと力がこもった。無理矢理引き剥がされる体。離れていく温もりに、やはり寂しさは伴ったけれど、そこまで気落ちはしなかった。きっと、心に新たな風が吹いたからだ。
 もう逃げない。薫を好きだという気持ちに負い目は感じない。たとえ、美緒という存在には敵わないとしても、それでも別に構いはしなかった。好きなものは好きなのだ。それでいいじゃないか。
 ただ、素直に薫のことが好きだという気持ちは、麻里をひたすらに美しくする。
「ケチね。『美緒』には甘いくせに」
「イヤミな女は嫌われるぞ?」
「ちょっとくらい意地悪言わせなさいよ」
「ハイハイ、もうお好きにどうぞ」
 クスクスと薫が笑う。冗談交じりのその言葉に、麻里にも微笑みが零れた。
「恋ってやっぱりいいものね」
「んー?」
「誰かを好きでいると、自分をも好きな気がするわ」
「……そうだな」
 窓の外に広がる空はとても青い。ただ、それだけのことも、薫がそばに居れば特別な空だ。
「ねえ、薫?」
「ん?」
「聞かないでくれてありがとう」
「何を?」
「わかってくるくせに」
 きっと薫は、麻里の新しい恋の想い人も自分であることを知っている。けれど、何も問わない、何も否定しない。想われることが迷惑であるのはわかりきっているのに、それでも彼女の気持ちを察して何も言わなかった。そんな、彼の優しさが、今の麻里には痛いほど嬉しかった。
「じゃあ、私もう行くわ。次の授業もあるしね」
「俺はもう少しここにいるよ」
「私がいないと、さぞ安らげそうね」
「……そうだな」
「そこは否定しなさいよ」
 二人顔を見合わせて、笑いあった。
 男女の情はそこになくとも、爽やかな風が、二人の間を流れた。


 図書室を後にし、ざわつく廊下を、ハイヒールを鳴らして歩く。
 途中、階段へと続く曲がり角を曲がった時、柔らかい体とぶつかった。衝撃でぐらつく体。麻里自身は、倒れはしなかったが、相手はどうやら勢い余って尻餅をついたようだった。
「だ、大丈夫?! 真中さん」
「あ……結城先生……」
「痛くない? 怪我は?」
「大丈夫です。すみません、私ぼーっとしてて」
「いえ、私も悪いのよ。ごめんね」
 偶然と言おうか運命と言おうか。こんなタイミングで出会うなんて、神様も本当に意地悪だ。
 美緒に手を差し伸べて、倒れたままの体を起こした。
 華奢で、愛らしくて、美しくて。それでいて性格まで最高に可愛らしい美緒。愛される要素を全て持っている女。けれど、そんな彼女を目の前にしても、逃げようなどとは、もう思わなかった。
「じゃあ、気をつけてね」
「あ、はい……」
 美緒が、戸惑いに満ちた表情を浮かべる。
 背を向け去っていく姿は、相変わらず麗しい女教師そのものなのに、いつもとは違う輝きのようなものを彼女から感じ取って、少し違和感があった。
 ただ、一瞬。
 何かを感じ取ったのは何か一瞬だったのに、それが心を捕らえて離さない。
 言葉では説明できない、何か嫌な予感が、美緒の中で駆け巡った。

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