華水の月

28.狂恋開花

「出張?」
 アイスクリームを頬張っていた動きを止めて、泉が大きな声で聞き返した。
 保健室にある硝子のテーブルの上には、手に持っているアイスクリームとは他に、違う種類のものが4個置いてあった。元々、泉が薫への差し入れにと持ってきたものだが、冷凍庫に入れずに置きっぱなしにしているところからして、全部泉が食べきってしまうつもりなのだろう。薫への土産だと言ったのは、とりあえず建前上、といった意味しか持っていないようだ。
「そう、来週から十日間ほど出張に行ってくる」
「十日間? それはまた長いな」
「まあ、これも仕事だから仕方ないな」
「何気に薫先生は名医と名高いからね。どこにでも引っ張りだこってわけだ」
「なんだ、嫌味か?」
「べっつにー」
 一つ目を食べ終えて、二つ目のアイスクリームを手に取る。
 薫が、眉を顰めて怪訝そうに泉を見た。全く、このスレンダーな体のどこにこんな甘いものたちばかりが入っていくのだろうと、いつも不思議で仕方がない。元々泉は大食いで異常なまでの甘党だが、全く太る気配はなさそうだ。
 教育実習を終えた泉が、この学校に訪れるのは二週間ぶりだった。特に用はないが、放課後の誰もいない保健室を見計らって薫に会いに来たのだ。そこには、もしかしたら美緒にも会えるかもしれないという少しの期待もなかったわけではないが。一度校内に顔の知れている泉が学園に訪れたところで、大した違和感はなかった。
 まだ仕事中の薫をよそ目に、泉はソファにゆったりと座ってデザートを頬張る。他愛のない話でも、薫が相手だととても心地良い。ただ聞いているだけではなく、すぐさまシャープで的確な反応が返ってくるのがなんとも気持ち良いのだ。
 それに、ミステリアスな兄の存在は、泉の興味を引いて仕方がない。美緒を通じて、薫の恋愛観が少しは垣間見れたが、それもごく一部だ。気になる私生活を覗きに薫の家へ訪れたって、薫はいつでも隙がなくて、ストイックさそのままである。この兄は、心の中が波立つことはないのだろうか、といつも不思議に思う。いつだって、いろんなことに露骨に一喜一憂する泉とは全く逆の人間だ。
「で、出張って、どこ行くわけ?」
「ん? 大阪だよ、大阪」
「え、いいなあ。たこ焼き」
「おまえの頭の中は食べ物のことしかないのか……」
「え、じゃあお好み焼き」
「どっちも食べ物だろ」
 薫がクスッと苦笑を零した。
 泉はというと、アイスクリームを持ったまま立ち上がり、保健室にある冷蔵庫を物色しているようだった。ここには薫の私物も入っているが、教育実習中に泉が散々残していったジュース類もそのまま置いてある。中から一本炭酸飲料を取り出すと、プシュッという音を立ててペットボトルを開けた。
「おまえ、アイスにジュースって、その組み合わせはどうよ?」
「ん? 最高の組み合わせですよ、薫お兄様」
「腹壊すぞ? そんなに冷たいものばかり食べたり飲んだりしてると」
「大丈夫だよ。でもまあ、欲を言えば、お菓子が欲しいとこかな」
 本来なら、部外者が校内に立ち入るなどもっての他だが、泉の場合は叱ったところで言うことを聞くような男ではない。まあ、放課後という時間帯に訪れるところからして、泉は泉なりに考えているのだろう。ジュースとアイス両手に、冷蔵庫の中を物色し、目的のものがないと知ると、途端に不機嫌になった。
「なあ、薫。お菓子がない」
「あるわけないだろ、そんなもの」
「俺が買ってたやつ、もうなかったっけ?」
「そこにないなら、おまえが食ったってことだろうが」
「マジで? えー、腹減ったんだけど、俺」
 元々、泉がここへ訪れた一番の理由は、夕飯目的だ。薫が居れば、外食にしろ、薫の手料理にしろ、何かしら夕飯にありつける。これまでも、薫と一緒に夕飯を共にすることは多かった。用がなければ、ほぼ毎日と言っていい。どちらかが奢るといった決まりのようなものはなく、その時の気分でどちらかが支払う。圧倒的に薫の支払いが多いのは言うまでもないが。
 両親が多忙で、実家で食事をすることのない泉にとってみれば、友達以外との食事は、ほとんど薫と一緒だと言ってもいいだろう。元より泉は、一人で食事をするのが、あまり好きではないのだ。
 美緒への気持ちを自覚した今、正直に言えば薫に会うと胸が痛くなることは避けられない。けれど、恋よりも大事な絆を守るために、逃げてはいけないと思った。目の前で、幸せに微笑む薫の姿を焼きつけて、美緒への気持ちを完全に封印せねば、と。兄の不幸の上に成り立つ幸せなど、本当の幸せではないのだ。
「なあ、本当にないの? 薫の机の中とかさあ」
「あるかそんなもの。おまえと一緒にするな」
「えー。お菓子お菓子。なんか食いもんー」
「……おまえはダダッコか」
 拗ねた口調でたかる泉を見て、呆れて深い溜息が出る。半分冗談で言っていることはわかるが、裏を返せば半分本気というところが恐ろしい。
「もしかしたら、美緒が持ってるかもな」
「え? 美緒ここに来るの?」
「来ちゃいけないのか?」
「いや、そうじゃないけど、病気じゃないのに美緒が保健室に来るなんか珍しいと思って」
 一瞬、複雑な感情と、幸福な感情が泉の中で入り乱れた。
「出張で当分留守にすること言ってないから、顔見て言おうかと思って呼んだんだ。まあ、おまえの期待する食いもんはたぶん持ってないとは思うけどね」
「頼む美緒サマ! なんか食いもんを可愛い泉ちゃんに」
「……気色悪い」
 おどけた口調で懇願する泉を尻目に、薫が冷ややかな視線を投げる。
 すると、それまで冗談めいていた泉の表情が、拗ねたように怪訝になった。薫の言葉が、よほど気に入らないらしい。
「だからその気色悪いって言うのやめろって言ってんだろ」
「おまえが自分で自分のことを可愛いって言うのをやめたら、考えてやる」
「あ、それは無理だから。だって俺可愛いもん」
「……気色悪い」
「あー、傷つく。薫のせいで俺の心ズタズタ」
「それは光栄なことだ」
 皮肉な笑顔を浮かべて、鼻で笑った。だが泉は大して気にするでなく、二個目のアイスを食べ終えて、ジュースをゴクリと一口飲む。
 チラリと時計を見ると、五時五十分に差しかかろうとするところだった。美緒が来るとさっき薫は言ったが、それはいつのことなのだろうかと、気になって問い掛けた。
「なあ、お菓子を持った美緒は一体いつになったら来るんだ?」
「お菓子を持ってるかは知らないけど、六時にここへ来るようにとは言ってるよ」
「ふーん。じゃあ今ごろ、教室?」
「いや、たぶん図書室じゃないか? あいつは放課後図書室で過ごすことが多いから」
 美緒は、昔も今もずっと変わらず図書室でシェイクスピアを読み耽る。まるで、ハルカを忘れまいとするように。心の中で、いつもハルカを感じられるように。恋人ではないにしろ、やはりあの二人は不思議な絆で結び合ってるのだと、薫自身が一番感じていた。だからと言って、嫉妬するようなものではないが。美緒に愛されてることを一番感じているのも、薫自身なのだ。
「じゃあ俺、ちょっと図書室行って来ようかな」
「行く必要はないよ。ここで待ってろ」
「なんで? あと十分もあるし、まだ来ないだろ?」
「いや、十分前だから行かなくていいんだよ。美緒はもう来るから」
「は?」
 美緒は必ずと言っていいほど、約束の十分前までには訪れる。それは、とても律儀な彼女らしくて、だからこそその決まったリズムが薫は好きだった。なぜか安心するのだ。美緒のそういう行動は、薫の気持ちをとても落ち着かせる。
 薫が時計を見やると、ちょうど五十分。もう来るかな、と思ったと同時に、遠慮気味にドアが開いた。
「ほらな? 来ただろ」
「おー。本当だ。薫すげえ」
「な、何?!」
 二人に同時に見つめられた美緒が、驚きに一瞬身を引いた。まさか泉が来ているとは思ってなかったが、二人同時に注目されたことの方がよっぽどびっくりした。刺すような視線に居たたまれず表情が歪んでいく。
 すると、泉は立ち上がり、美緒の前までスタスタと歩いていくと、手を出して呟いた。
「美緒、お菓子」
「は?!」
 泉を見上げて、思いっきり聞き返した美緒の表情が可笑しくて、薫がクスクスと笑った。
 美緒にしてみれば、全くわけがわからない。
「おい、泉。いくらなんでも美緒だって食いもん持ってないって」
 薫がそう言ったおかげで、ようやく泉の言葉の意味が美緒にもわかった。なるほど、泉にはものすごく似合いな言葉だ。
「なんだ。泉くん、お菓子が欲しいの?」
「もう腹へってさあ。薫は全然食いもん持ってないし」
「だからって美緒も持ってるわけ……」
「ちょっと待ってね。今出すから」
 薫が後ろからかけた言葉は全く美緒には届いていなかったのか。美緒は言葉を遮ると、鞄の中をゴソゴソと探り出した。
 まさか持っているとは。薫からしたら、二人ともなんだか異様だ。
「チョコレートでもいい?」
「あ、むしろチョコレートがいいです」
「アハハ。調子良すぎだよ、泉くん」
「いや、本当チョコレート大好きです!」
「アーモンドチョコだけど、はい、これあげるから」
「ああー美緒ちゃん超愛してる。お礼にチューしていい?」
「……やめてよ、気色悪い」
 チョコレートを手渡した瞬間返ってきた泉の言葉に、美緒が表情を歪めた。本気で嫌悪する視線を泉に投げる。その表情を受けて、泉がショックで項垂れた。
「ったくよお……おまえらは二人して俺を気色悪い気色悪いって言いやがって……」
「ご、ごめん。悪気はなかったんだけどね」
「おまえの場合は、俺に対しての遠慮がなさすぎだよ」
 それは、美緒自身もわかっている。泉に対しての自分は、全く遠慮なく、素顔のままで接していると。
 薫に対して抱く、好かれたいだとか愛されたいという感覚は、泉に対しては抱かない。だからこそ、良い感情も悪い感情も泉にはぶつけてしまうのだ。何を言い合っても、根本的には許されるような気がする。友達とはまた違った感覚。美緒にとって泉は、友達を超えた兄のような感覚に等しい。無邪気に語れて、そして甘えられる兄のような存在に。
 それがどれだけ罪深いことなのか、今の美緒は知らないけれど。
「あ、そうだ。チョコのお礼におまえにアイスやるよ」
「え? アイス?」
「あそこにあるやつ、どれでも一つ取っていいから」
「またいっぱい買ってきたんだね……」
 空いたものも含めて、五個並ぶそれを見て、美緒が呆れたように溜息を零した。少なくとも、こういった感覚は、泉よりも薫に近い。元々甘いものは好きだが、ここまで度を越える泉の感覚には付いていけないのだ。
「それより美緒。ちょっとこっちにおいで」
 後ろからずっと二人を見ていた薫が、美緒に手招きをした。
 ふいに絡み合った視線に、思わずドクンと美緒の心臓が波打つ。ただ優しく見つめられただけだ。それだけに過ぎないのに、やはり美緒にとっての薫は特別な人だった。
「あの……今日呼ばれたのって……」
「おまえに言っておきたいことがあって」
「言っておきたいこと?」
 デスクの前に座る薫の前まで歩み寄ると、彼が美緒の手をさりげなく握った。乾いたその手の温もりに、美緒も無意識に握り返す。
「週明けから十日ほど、出張に行ってくる」
「え……出張?」
 出張という言葉よりも、十日間という言葉の方が、美緒の心に重くのしかかった。単純に薫は十日と言ったが、実際毎日会えるわけではない二人にとっては、もっと長い間会えなくなることになるだろう。週明けからということは、週末も含め、軽く二週間は会えないことになる。しかも今日は、金曜日だ。会えるのは、今日が最後ということだ。
「大阪に行くんだけど、何かお土産に欲しいものある?」
「大阪に……十日間ですか」
「何か欲しい物があったら、買ってくるから」
「お土産なんて……」
 お土産なんていらない。いらないから、行かないで欲しいなんて、そんな理不尽なことをふと思った。
 けど、口には出さない。彼を困らせてしまうだけだと、わかっているから。
「あ、俺にはたこ焼き買って来て」
「たこ焼きなんか、土産に買ってこられるわけないだろ……。近所で買えよ」
「なんだよ。ケチ」
「じゃあ買ってきてもいいけど、冷めたたこ焼きをおまえは食う気になるのか?」
「あー……確かに仰る通りです」
 俯いて何も喋らなくなった美緒の背後から、冗談めいた泉の言葉が飛び交う。その間も、美緒の頭の中は、これからの二週間のことばかりだ。
 普段から、素直に会える関係ではない。まともに話をすることも叶わなくて、学校内で見ることができたらそれはラッキーなことで、キスをしたり抱きあったりするのは、本当に時折のことなのだ。でも、近くにいるという感覚があったからこそ、自分の気持ちを支えていられたし、我慢もできた。だが、遠く離れてしまうとなると、それはまた別のこと。
 以前、美緒を置いて薫が海外へ行ってしまったことが、脳裏を掠めた。あの時の感覚が蘇った。もう、二度と会えないと覚悟して涙したあの時の感覚を。
「じゃあ、週末は準備で大変ですよね……」
「急なことだったから、まだ何も支度してないし、持って行く資料も作ってないから、まあ少しバタバタするかもな」
「そうですか……。長い出張だし、色々と支度しないと」
「どうした?」
「いえ、何もないです。……気をつけて行ってきてくださいね」
 少し寂しげに、美緒が微笑んだ。無理をした作り笑いであることは、薫にはすぐにお見通しだった。彼女の瞳の奥にある切なさが見えて、それは自分のためだと思うと心が痺れるようにジンとする。求められていると、自分は不可欠な要素なのだと思うと、それだけで幸せだと思えた。
「なんだよ、美緒。そんなに寂しそうにしなくても薫なら十日もすれば帰ってくるんだからさあ」
 泉が、美緒のそばまで近寄って、彼女の頭をポンポンと叩く。それが合図になってしまったのか、急に涙腺が緩んだ。何故、そんな風に自分を追い詰めてしまったのかは、わからない。
「薫がいなくたって、優しい泉お兄様がいるだろ?」
 兄だと、勝手にそう言い訳を作って、美緒を慰めようと彼女の肩に手をかけた。ただ、自然を装ってじゃれるように美緒を抱き締めて慰めるつもりだった。
 だが、その瞬間、美緒が泉の手を遮った。
 目の前で揺れる彼女の長い髪。それはゆらっと揺らめいて、そして薫の元へと辿る。
「……美緒?」
 何も言わず、美緒が薫に抱きついた。首に腕をギュッと巻きつけて、けして離さぬように。
「バカだなあ……何泣いてるんだよ」
 必死に堪えているつもりでも、小刻みに震える肩は、泣いていないと嘘を吐けない。薫は美緒を膝に座らせて、優しく髪を撫でながら抱き締め返した。あまりの愛らしさに、思わず笑みが零れる。唇に触れる髪に、キスを落とすのはごく自然の振る舞い。
 そんな二人を見て、泉はギュッと拳を強く握り締めた。切なく苦い思いを、奥歯で噛み締めながら。
 求めた瞬間遮られた手は、どこに戻せばいいかなんてわからない。目の前で、互いに想いを寄せ合う二人を、どんな目で見ればいいのかわからない。
 決めていたはずの決心。薫を想えばこそ、美緒への恋は封印すると決めたはずだ。これからは、美緒の兄のような存在に徹すると、決めたはずだった。けれど、こうやって目の前でまざまざと見せつけられると、切なさのナイフが胸を切り刻む。美緒の涙が、泉を溺れさせる。一瞬、一体自分の一番望むものは何なのか、わからなくなった。
「なるべく早く帰ってくるよ。……だから泣くな。離せなくなるだろ?」
 苦笑して、ギュッと抱きすくめる薫の力強さを、美緒は体全部で受け止める。不安でたまらなかった。たかが十日間の出張なんだと、頭ではわかっている。
 でも、嫌な予感がしてたまらなかった。それは、過去のことがあるからなのか。それとも、女の直感がそう言ってるのか。とにかく不安でたまらなくて、寂しくて潰されそうで、美緒はもっと強く薫を抱き締め返す。言葉にすれば、何かの封印が解けてしまいそうだった。この腕を、けして離してはいけない気がした。

 そして、この瞬間から、歯車は狂い始める。
 クルクル……狂狂と――。

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