華水の月

35.美火に身を焦がす

 私をここから連れ去って――。
 美緒の言葉が泣いていたから。
 涙が、華のようにとめどなく咲いたから。
 まるで薫から美緒を守るように、彼女を攫って逃げた。


 帰りの車の中。美緒は、ほとんどと言っていいほど、言葉を口にしなかった。
 ただ、窓の外をぼんやりと眺めては、時々鼻をすする。対向車のヘッドライトが車内を照らすと、目尻から頬にかけて、涙の痕が見て取れた。
 泉の視線に気付いてないわけはないだろう。いつもなら、『どうしたの? 泉くん』と、柔らかな笑顔を浮かべて問い掛けてくる美緒が、今は全くの別人のようだった。明らかに、心の色を失っていた。
 赤信号で止まる度、泉は美緒の頭に手を乗せ、ポンポンと優しく撫でる。時折、無防備にだらんと下ろされた美緒の手をギュッと握った。小さくて華奢だけど、温かい手。なぜかその温もりに安心した。
 美緒は確かにここにいる。そう、思ったのかもしれない。
「どこかでゴハンでも食ってく?」
 さりげなく問うと、美緒がゆっくりと首を横に振った。胸元で揺れるピンクダイヤモンドが、キラキラと光った。


 ――私をここから連れ去って。
 抱き締めた小さな体は、それを言うだけで精一杯だったのだろう。自分の足さえも、彼女の意志だけでは動かせなかったのかもしれない。
 それは、ほんの一瞬に過ぎなかった。麻里が薫の首に腕を巻きつけ、半ば強引に口付けを交わしたのは、ほんの一瞬のこと。けれど、泉の目と同じように、美緒にもその光景がスローモーションに見えたに違いない。たった二、三秒のことが、永遠にさえ感じたのかもしれない。
 無理矢理口付けられた後、薫は麻里を跳ね除けるように軽く突き飛ばし、身を離した。手の甲を、唇に当て、拭っているようにも見えた。薫のその一連の動作で、薫には何ら否はないのだと、一瞬にして悟った。泉が心配していたような、男女の関係はこの二人の間には成り立っていないのだと思えたのだ。
 けれど、それを確信できたのは泉だけに過ぎないだろう。美緒の時間は、二人が唇を重ねたあの瞬間に、止まっていた。カチリ、と、美緒の心に隙間なくあの光景が収まったのだ。
「私をここから連れ去って……」
 この台詞が、全てを物語っていたように思う。
 ただ呆然と立ち尽くしたまま、まるで泣きそうなくらい小さい声で、彼女はそう呟いた。いいや、彼女は泣いていた。ハラハラと、まるで花びらを散らすかのように、綺麗に泣いていた。蕾が出来ては、熟す華のように。そして、胸元で光る薫の思いを、キラキラと濡らした。
 連れ去って――。
 まるで、姫を救い出す王子のような。駆け落ちを決め込む男女のような。美緒の口から出るには、とても不思議な響きを持った言葉だった。
 その意図は、わからない。薫と麻里の仲を、完全に誤解してしまったのか。それとも、最愛の恋人に手を出した麻里に対し、怒りが込み上げたのか。美緒と、遠くにいる二人を交互に見ながら、瞬時に思考を巡らせた。けれど、何か的確な答えが泉に見つけられるわけもなく、彼は腕の中で震える小さな体をギュッと抱き締めると、そのまま軽く抱えあげ、美緒を攫うようにその場を離れた。
 その時の泉は、最善より、正義より、薫より、何よりも
 美緒を優先した――。


「帰る……」
 食事はしないと言う彼女に、ドライブでもしようかと提案すると、美緒はただ一言、そう呟いた。
 やはり、相当傷ついているのだろうか。聞きたくても、彼女は無意識に心にバリアを張り詰めていたように思う。
 以前に何度か、薫の車で美緒の家まで行った記憶が残っていたおかげで、美緒に道を問わなくても迷うことはなかった。薫と美緒の家は、車でならそう離れてはいない。
 ただ沈黙の車中。段々と美緒の家へと近付いていくと、美緒が再びポツリと言葉を零した。
「違うの。先生の家に、帰りたい……」
 一瞬、我が耳を疑うような台詞に、泉はゴクリと唾を飲み込んだ。


 まだ、薫は帰宅していなかった。合鍵を使い、部屋に入ると、美緒がパチンと部屋の明かりをつけた。その足取りには迷いがなく、リビングまで真っ直ぐ向かうと、夕方、軽く一眠りしたソファにストンと腰を落とした。
 その隣に、泉もゆっくりと座る。車の鍵をテーブルの上に放ると、カシャンと、金属が鳴る音が部屋中に響いた。
「びっくりしちゃったね」
「……え?」
「まさか、あんなシーン見るなんて思ってなかったんだもん。びっくりしちゃって、逃げちゃった……」
 曖昧に微笑む彼女。
 戸惑いを隠しきれていない声色に、心がまだ乱れたままだということを感じ取れた。
「なあ。俺は、ちゃんと薫に聞くべきだと思うよ。なんで、あんなところで麻里さんと……その……」
「聞いても無駄だよ」
「どうして?」
「だって、あれは先生の意思じゃないもん。あれは、結城先生が一方的にしたことだって、わかってるから」
「おまえ……」
 てっきり、美緒はそういうニュアンスさえ認識できていないものだと思っていた。キスをしているという現実を受け止めるだけで精一杯で、何も感じ取れてはいないのだと。
 ふと聞かされた美緒の本音に、女の強さと貪欲さを垣間見た気がした。
「だから、先生を責めても、何も答えは出ないよ」
「責めろなんて、言ってるわけじゃないよ。ただ、薫の口からちゃんと聞けって言ってるんだよ」
「なにを?」
「どうして、麻里さんと一緒にあそこにいたのか、おまえ気にならないのか」
「結城先生も大阪に出張に行ってること、私知ってたもん。仕事が終わるのが、今日ってことも」
「な……んで……」
「だって、私の英語の先生だよ? 知らないわけないじゃない」
 ある意味、美緒の中で覚悟というものはできていたように思う。
 一昨日のことだ。麻里が、大阪へ出張に行っていると他の教師から聞いたのは。その時、漠然としたままだった不安が、何かを含み、形を作り上げていくのを感じた。
 ――ああ。やはり、彼女に結びつくのか、と。
 薫からは、麻里に関して何も聞かされなかった。もしかしたら既に会っているのかもしれないし、大阪の地に麻里がいることすら知らないのかもしれない。どちらにしろ、美緒は薫を信じていた。というよりは、彼女に関しての話題を、薫と共有できるだけの強さが、美緒にはまだなかったからかもしれない。
「それに……結城先生ね、あの時私を見たんだよね」
「え?」
「キスする前、私を見たの」
 麻里のあの目が今でも美緒の脳裏に焼き付いて離れない。
 彼女は、美緒が居ることを確かに認識していた。じっと美緒を見据えたあの目は、心の奥底に鉛を落とすような、なんとも言えない重圧感を送り込んできたのだ。美緒がそこにいるのを、わかっていて、彼女は薫に手を伸ばした。薫が、無防備にも隙を見せていることをわかっていて。美緒が目を逸らせないことも、傷ついてしまうこともわかっていて。まるで、美緒から薫をスルリと奪い取るように、糸を巻きつけては引くように、わざと薫に口付けたのだ。
 だからこそ、わかった。あの光景は、麻里の、悲しすぎる女のプライド故のものだと。
「でも、わかってるんだったら、なんで逃げたりなんか……」
「それが一番いいと思ったから……」
「なんで? 自分の男が他の女にキスされてんのに、なんで彼女のおまえが逃げる必要があるんだよ」
「だって……」
「おまえが引く必要はないって、前にも言ったよな? ちゃんと、先生は私の彼氏なんだから、って麻里さんに言ってやれば良かったじゃん。強引にでも奪い返せよ! 手出すなって、麻里さんを殴ったって良かったのに」
 何故、こんなにも声を荒げて美緒を責めたのかはわからない。彼女を責めたところで、どうにもなるわけではないことはわかっていたのに。でも、理解できない女心に、泉は苛立ちを募らせた。
 もし、自分が美緒の立場であったなら、あの時すぐにでも、彼らの元へと歩み寄り、薫を麻里の手から奪い返していただろうと、そう思ったからだ。そして、きっと何の否もないであろう薫の立場が、なんだか哀れに思えてならなかった。
「薫は、絶対におまえより麻里さんを優先したりしない。あの場で、おまえが現れたとしても、薫は絶対におまえを守ろうとすると思うよ。たとえ麻里さんを傷つけたって、おまえを絶対一番に大事にする」
 せめて、前日に電話をした時、美緒が迎えに行くことを薫に匂わせでもしていれば……。薫は絶対に、麻里と一緒に出てくることはなかっただろう。大阪での二人が、どんな関係になっていたにしろ……。
「……そうだね」
「薫は、絶対におまえを裏切らない」
「……うん、わかってる」
「じゃあ、なんでわかってるのに逃げたりなんか……」
 美緒の声は、とても穏やかだった。泉の言葉の一つ一つを優しく受け止めていた。焦りに顔を歪ませる泉とは対照的に、彼女は悲しいほどに微笑んでいた。
「ねえ、泉くん」
「なに……?」
「じゃあ、泉くんはどうして、私をあの場から連れ出してくれたの?」
「それは……」
 あのままあそこに居ては、美緒が壊れてしまいそうだったから。彼女の全てが泣いていたから。抱き締めてやらなければ、バラバラに砕けてしまいそうだった。
「おまえが、あまりにも小さくて、弱そうに見えたからかもしれない」
「そう。……だったら、それがきっと、私の答えだよ」
「え……?」
「泉くんから見た私が、そのままの私。泉くんの目に映る私は、きっと嘘のない私だと思うから」
 泉がいなければ、あの時美緒はどうなっていただろう。あの場に、泉がいたことを心から感謝した。守るように連れ去ってくれた腕も、帰りの車の中で握ってくれた手さえも、全てが美緒の心をしっかりと包んでくれていたと、そう思う。
 泉がいなければ、砕け散っていたに違いない。頭ではわかっていても、きっと心は硬化し、そして呆気なくバラバラに砕けていただろう。
「私ね、すごく弱くなっちゃったんだあ」
「ん?」
「先生を好きになってから、私、弱くなるばっかり。……先生を守るためなら、いくらでも強くなれるくせに、自分の気持ちを守るとなると、途端に弱くなっちゃうの。我慢してるとか、そんなんじゃないんだよ。……ただ、怖いの。自分の感情のままに生きて、先生を失っちゃうことが……」
「美緒……」
「いつも先生に愛されていたいの。嫌われるかもしれないってことをしたくないの。それくらい大好きなの。自分が自分でいることに、不安を覚えちゃうくらい……」
 全てを曝け出して愛される自信など、どこにもない。
 いつだって臆病だ。薫に嫌われる要素を、何一つ持っていたくないとさえ、願うほどに。
「だからね、笑顔でおかえりなさいって言いたかったの。とびきりの笑顔で、先生を迎えてあげたかった。それができないってわかってて、あそこにいられないでしょ?」
「何も知らないフリ……するつもりなのか」
「うん……」
「そんなんでいいのかよ……」
「だって、先生は悪くないもん。だから、忘れるの。私は何も見ていなくて、先生も何もしてはいなくて、そんな先生を私はいつものように、おかえりなさいって笑顔で迎えてあげたいの」
 薫をずっと待ち焦がれていたのだと、笑顔で伝えたかった。どれだけ会いたかったのかということを、抱き締めて伝えたかった。薫には、いつも幸せをプレゼントしたい。美緒の持つ全ての優しさや愛情で満たしてあげたいのだ。
 本当は、麻里が大阪へ行ってからの三日間、二人がどんな風に過ごしていたのか気になってしかたがない。疑っているわけではないし、薫が裏切るなんてことは少しも思っていなくても、そういう感情とは別の所に関心はあった。
 知るべきであることかもしれないし、知らなくて良いことかもしれない。だったなら、知らずにいることも間違いではないと、そう思ったのだ。逃げている、と言われたら、確かに否定はできないだろう。でも、悲しみや憎しみは、彼には見せたくなかった。
「だから、泉くんも黙っててね。……私のお願い」
「ったく、おまえは本当にバカだな。……薫は、アホなおまえでも愛してくれるって、さっきも言ったの忘れたのかよ」
「そういや、そんなこと言ってたね……」
 臆病に笑う美緒がとても愛しい。ソファの上で、膝を抱え、ギュッと身を縮ませる姿は、とても小さくて。泉は、そんな美緒の頭を引き寄せると、自分の肩に乗せて優しく髪を撫でた。
 ――バカな女だ。
 愛しいくらい、バカすぎるから、ほっとけない。
「おまえのそういうバカなところだって、薫は絶対愛しくてたまらないんだよ。男なんて、そういうもんなんだから。バカな女ほど、可愛くて仕方ないんだよ」
「もう、なんか私がバカバカ言われてるみたいじゃない」
「むしろ、おまえのそんな臆病なところとか、弱いところも見せてくれた方が、薫はきっと嬉しいに違いないのに。絶対……愛しいに違いないのに」
 同じ女を想う者同士だからわかる。最愛の兄だからこそ、全てが見える。きっと薫は、どんなに美緒が駄目な女であっても、それを全て知りたいに違いない。愛したいに違いないのだ。
 だからだろうか。薫には悪いとわかっていても、泉にだけ弱さや不安を打ち明けてくれる美緒のことを、優越感に感じたのは。
 それはあまりに恍惚とした感覚だった。
「でも、どうせだったら完璧な彼女でいたいんだもん」
「完璧な彼女?」
「いつも優しくて可愛い彼女」
「はあ? これだけアホなおまえが完璧な彼女なんかなれるかよ」
「もう! またイジワルばっかり言うんだから」
「まあ、心配すんな。薫は、何があったって、おまえを離したりしないよ……」
 彼女の頭を、ポンと優しく叩いた。
 うん、と、小さく呟いた美緒の言葉はとても甘く響いていた。
 それから、少しの間、静寂が二人を包んでいると、玄関の方で物音がするのに気付いた。ガチャガチャというその音は、この部屋の主が帰ってきたことを知らせていた。
 美緒は、すぐさま立ち上がって、泉の方へ顔を向けると、
「私、ちゃんと笑えてるよね?」
 と、聞き、泉の微笑みに勇気付けられると、玄関の方へと足早に向かった。
 そんな彼女の背を、泉もゆっくり追った。


「あ……れ。美緒?!」
 扉を開けるなり、入ってきた愛らしい光景に、一瞬驚きを隠せなかった。ある意味現実離れしているその光景は、焦がれすぎた故の幻かと思うほどに。
 けれど、その幻は、優しい笑顔を浮かべると、薫の元まで小走りに駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、先生」
 愛らしいその声は、電話越しでもない、とてもクリアな音色。薫の耳の奥に響き、そして甘く疼いた。
 ああ。美緒の元へやっと帰ってきたのだと、そう思った。
「……先生?」
 ただいま、という言葉も忘れて、薫もすぐさま靴を脱いで上がると、夢中で美緒を腕の中に抱き締めていた。
 何も言わない薫の顔を窺おうと、美緒が顔を上げた瞬間、重なる唇。吐息さえも奪うような激しい口付けに、二週間離れていたという事実をリアルに感じた。否応なくも、体が思い出す。重なり合う温もりは、この人でなくてはならないのだと。この人でなくては、快感さえ感じないのだと。
 それは、美緒にとっても、薫にとっても同じだった。
 玄関に置き去りにされた荷物たちをよそに、薫は美緒を抱き、口付けたまま、壁を背に座り込んだ。激しいキスに翻弄され、立っているのもやっとだった美緒も、まるで崩れ落ちるように、薫の腕の中にすっぽりと収まった。
「……んっ」
 離れる唇。互いに少し荒くなった息を整えつつ、薫は美緒をありったけの力で抱き締めていた。
 何故だろう――。
 壁にもたれて、廊下に二人座ったまま抱き合ってるだけに過ぎないのに、なんだかとても『二人』を感じた。この世界の片隅には、今二人だけしかいないような、そんな感覚を。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「会いたかったよ」
「うん……」
「すごく、すごく会いたかった……もう離したくない……美緒……」
 刹那。
 涙が、溢れた――。
 泣かないと決めたはずなのに、耳元で聞こえる儚い薫の声と、絞るように抱き締められる束縛感を感じた途端、まるでそれが最初から決められていたシーンであるかのように、涙が溢れた。
 どうして。どうしてこの人は、こんなにも簡単に、私を切なくしてしまうのだろう、と。
「……っ」
「泣き虫」
 美緒も、薫の背に手を回し、夢中でしがみついていた。懐かしい匂いが、鼻を掠める。頬に感じる薫の首筋の体温はひどく熱くて、それがなおも涙を溶かした。
 本当にバカだと、そう思う。どんなに完璧な女を目指していても、薫の前では泣かないと決めていても、結局彼の前にいる美緒は彼の波に攫われてしまうのだ。薫の存在に、いとも簡単に感情は飽和し、美緒を包み込んでしまうのだ。愛しさも切なさも、いつだって薫のためにある。生きていることさえ、薫のためだけであると思えるほどに。
「おまえ、ここにいるならいるって、最初から言ってくれなきゃダメだろ?」
「え……?」
「てっきりおまえは自分の家にいるのかと思って、わざわざおまえの家まで行っちゃったよ、俺」
「嘘……」
「だって、誰よりも一番に、おまえに会いたかったからさ。一秒でも早くおまえを抱き締めてやりたかったんだ」
 その言葉に、空港より後の薫の行動を垣間見た。麻里とはあの場ですぐに別れたということだろう。帰りを急ぐその足で、一人美緒の家まで……。美緒を抱き締めるため、そのためだけに……。
 麻里との関係を不安に思ってたまらなかったことさえも、今こうして腕の中にいると、どうでもよくなった。もう……全てが薫でしかなかった。
「寂しかった?」
「…………」
「美緒、返事は?」
 意地悪だけれど、優しい薫の声に、コクリと小さく頷いた。
「会いたかったです、先生……」
「俺もだよ」
 涙をポロポロと零す美緒の頬を両手で包み込んで、目元に優しく口付ける。戸惑うように薫を見る美緒に、優しく微笑んだ。
 少し離れていただけのことが、こんなにも愛しさを募らせるものだなんて。
「なんか俺、重症かも」
「何がですか……?」
「大阪からこっちに戻ってこようと何回思ったことか……。こんなにも仕事が疎ましく思ったのは初めてだよ。おまえの声、毎日聞いてたのが逆効果だったかな」
 額と額をくっつけて、薫がクスッと笑う。泣いたせいだろうか、美緒の体温はいつもより温かい。
「会いたくて、たまんなかったよ。おまえのこと抱き締めたくて、気がおかしくなりそうだった」
「先生……」
「俺らしくないってわかってるけど、おまえのことになると、あんまり余裕なくなるみたいだ。遠くにいればいるほど、美緒のことばっかり思い出して……。そんなにまで、おまえのこと好きになりすぎたってことかな」
 そんな言葉をあまりにサラッと言うから。
 一瞬、どれだけ深い愛の言葉なのかと言うことを、忘れそうになってしまう。
 いつも薫の言葉が風のように吹き抜けてから気付くのだ。美緒自身が、どれだけ深く果てしなく、愛されているかということを。残り香の如く、薫の愛情はささやかで、そして甘い。
「美緒、顔上げて?」
「ん?」
「おまえの元に帰ってきたこと、もう一回確かめたい」
 そう言うと、薫は美緒の顎に手を添え、そして片手で抱き締めると、そっと口付けを落とした。最初の時のような激しさはなく、ただただ優しく……。美緒の唇や、体温、全てを確かめるように、何度も何度も口付けた。美緒自身も、薫の首に両腕を巻きつけると、自分の全てを委ねるように、快楽に身を任せた。
 角度を変え、溶け合う唇。恍惚としたキスの快感の中に、ふとさっきの麻里と薫の光景を思い出した。けれどそれは、一瞬膨らむと、驚くほどの速さでしおれていった。キスの中に、麻里よりも断然愛されているという感覚を、美緒自身の体が感じていたからかもしれない。それはとても恍惚とした優越感だった。

「おい、そこのバカップル」
 何度目かの呼吸の合間に、リビングの方からかけられたぶっきらぼうな言葉。二人同時にそちらに振り向くと、腕組みをして機嫌の悪そうな泉が立っていた。
 薫のことでいっぱいになっていた美緒は、当然泉がいることなど忘れていた。キスシーンを見られたであろうことに赤面し、顔を背ける。
 けれど薫はしれっとした顔つきで、泉の声に答えた。
「なんだ、いたのかおまえ」
「そりゃいますよ。美緒が部屋ん中にいる時点で、俺がいるの確定だろ?」
「あー、そうだったな。おまえは返せと言ってる合鍵をずっと返さずに持ったままだったからな」
 最初はブスッとしていた泉だったが、薫がニヤリと皮肉な笑顔を浮かべると、すぐに焦りを見せた。
「……ま、まあ、そういうことだから、泉ちゃんも当然いるんだよ。ちょっとは気い遣えよ」
「おまえこそ気遣ってほしいね。俺の部屋で美緒と何しようと勝手だ」
「うわあ。なんかエッチ」
「何が?」
「至るところで、エッチいことしてますって感じ」
「バカか、おまえは……」
 こういう泉の発想は、なんだかずれていると、いつも美緒は思う。
 泉の声に、急に現実に引き戻された気がした。薫との時間が夢だとしたら、泉との時間は現だ。それはそれで悪くないけれど、時折夢と現が交じり合うと、戸惑いを起こすのも嘘ではない。二人がいつもの如く言葉を交わしていく中、美緒はまだ羞恥の中に一人取り残されたままだった。
「まあ、長い出張お疲れさん。久しぶりの我が家、ゆっくりすれば?」
「おまえがいると、ゆっくりするもんもできないんだけどなあ」
「うっわ、何それ心外。めちゃめちゃ癒し系じゃん、俺」
「はあ?」
「あー、本当に傷つく。薫のそういう態度は俺をすごく傷つけてるってこと少しは気付けよな。癒しの効力落ちちゃうよ?」
「ふーん。じゃあ、その癒し系とやらで、せいぜい俺を癒してくれよ」
「おう、任せとけ。そうだな、まずはゴハンか? 俺が作ってやろうか?」
「……それだけは勘弁してくれ」
 薫に手を引かれ、立ち上がりリビングへと歩いていく最中の泉と薫の会話を聞いて、思わず笑みが零れた。
 薫がやっと帰ってきた。それを、一番に感じられた瞬間だった。
「おい、バカ美緒。笑ってんじゃねーよ、おまえにも食わせるぞ」
「え……オムライスはやだ」
「美緒のその極端な反応が、いかにおまえの料理がヤバイかを物語ってるよな」
「アホか。次はオムライスじゃなくて、俺の大好物のハンバーグ作るんだよ」
「まあ、せいぜい頑張れば?」
 自慢気に微笑む泉に、薫が呆れ声で零した。どっちにしたって食べる気はない、とまでは言わなかったが。それが伝わっていない泉は、既に作る気満々だ。
「よっしゃ! おい、美緒。おまえ指導係な。一緒に来い」
「え?!」
 薫が部屋の中に荷物を運び込んでいるのをいいことに、泉が美緒の手を引いてキッチンまで連れて行った。材料がどうのこうのとブツブツ言いながら、泉が冷蔵庫の中を物色する。リビングでは、薫がゴソゴソと何か作業をしていた。
 そして、彼が寝室へと入っていった途端、泉が冷蔵庫を閉めて、後ろに立つ美緒に振り返った。
「よく、頑張ったな」
 ポン、と頭の上に乗せられた手。
 一瞬、お兄ちゃんだと、そう思った。まるで兄が妹に、よく頑張ったなと、誉めるようだと。
「でも、結局泣いてたじゃん。それは誉めてやんない」
「泉くん……」
「大丈夫。おまえは薫だけ信じてろ。薫なら、絶対大丈夫だ」
「うん……」
「今回のことは忘れような。俺が、おまえのこと絶対守ってやるから」
「うん……」
 薫とは違う意味で、涙が出そうになった。泉の、とてつもない大きな優しさを、こんなにも感じたことはなかった。
 不思議な人だ。泉に背を押されると、大丈夫だと確信できる。守ってくれるその優しさは、勇気をくれる。美緒にとって泉は、恋人とはまた違う、本当に本当に大事な人になっていた。こんなにも心許して甘えられる人は、泉以外に居はしない。
「おい、ここで泣くなよ? また泣かしたって、薫に怒られるの俺なんだから」
 目尻にたまっていく美緒の涙を指で掬い取って、互いに見つめあい、微笑んだ。
 美緒が幸せなら、それでいい。
 そのためなら、いくらでも守って見せよう。たとえ、泉の気持ちが、一生美緒に届くことがなくとも。


 でも、今になって思うんだ。
 もしも、この時に時間が戻るのだとしたら、無理矢理にでも、嫌がる美緒の腕を引いてでも、ちゃんと薫の本心を彼女に聞かせてあげるべきだったのだと。自分の慰めではなく、薫の言葉で、不安を拭い去ってやるべきだったのだと。

 ――美緒。
 君は、忘れると、確かに言った。
 けれど、忘れることと、信じることは別だったんだ。忘れようとすることは、現実の不安から逃げていることなのだと、あの時の僕にはわからなかったんだ。
 君の弱さや不安を自分だけが知っていること、そして君と秘密を共有していることが、薫に勝るたった一つの優越感だったことに、酔いしれていたのかもしれない。
 それがどれだけ、純粋に君だけを愛していた薫を、傷つけることになるとも知らずに。
 この時、気付いてさえいれば、まだ狂い始めたばかりの歯車は、元に戻せたに違いなかったのに。

 華は散る。
 行き場を失くし、火を灯し。
 美しいほどに、身を焦がしながら
 ハラリ、ハラリと――。



−第二部完−

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