華水の月

42.涙時計

「結城先生大丈夫かなあ……」
 綾乃の隣を歩く友人が、心配そうにそう呟いた。
「貧血か、何かじゃない? 顔色も悪かったし」
「でも相当酷そうだよね。佐伯先生に抱きかかえられて来るくらいだもん」
「そう言えば最近の結城先生、あんまり元気なかったね……」
 綾乃たちが保健室を出ようとしたのと同時に入ってきた二人の教師。どちらも綾乃のクラスの授業を担当している二人だけあって、見覚えは嫌というほどあった。
 佐伯祐介が、麻里と一緒にいるその光景は、ある意味不思議ではなかった。よく二人で談笑しているのを見かけるからだ。男女という雰囲気はなくとも、祐介と麻里はとても仲の良い二人なのだということを、生徒たちも皆認識している。
「それにしても何だか意味深だよねえ。あの三人の組み合わせってさあ」
「どういう意味?」
 綾乃が、不思議そうに問い返すと、その眼差しを受けた彼女は当然の如く言葉を切り返す。
「だって、結城先生の元彼と今彼みたいなものじゃん? ある意味」
「それはどうかと思うけど? 佐伯先生は彼氏っぽくないし、それに櫻井先生も結城先生とは何でもないんだって、全校生徒の前で断言したじゃん」
 その事実の裏付けに、今現在、ちゃんと愛している彼女がいることも、薫は全校生徒の前で断言した。校医を辞めても、手放したくない彼女がいるのだと。
「それに、結城先生と櫻井先生って、なんとなく違う」
「なんとなくって、何が?」
「似合わない」
 似合わないだなんて、本気で思ってるわけじゃない。
 けれど、麻里の存在を否定したのは、綾乃自身がそんな噂自体認めたくないという保身の表れかもしれない。
「綾乃は櫻井先生に夢中だもんね」
「別に……そんなことないけど」
「嘘ばっかり。あんなに好きなくせに」
「…………」
「まあ、私も、まさか櫻井先生が本当に元彼だなんて思ってるわけじゃないけどね。なんとなく面白そうだから言ってみただけー」
「悪い冗談だなあ」
 エヘヘ、と笑う友人は、悪びれた風など微塵も見せなかった。
 以前、薫が全校生徒の前で美緒の存在を断言してからというもの、麻里と薫の噂は、以前に比べたらほとんどと言っていいほど聞かなくなったが、それでもまだ疑いの目がなくなったというわけではない。美人女教師に、あの眉目秀麗な校医だ。ある意味、この校内であれだけ目立つ教職員も珍しい。生徒ではない特別な立場だけあって、興味の目も向けられやすい。この手のゴシップは、事実など関係なく、面白おかしく取り沙汰されてこそ意味があるようなものだった。その証拠に、付き合っているという噂は立てられても、ずっと昔薫と麻里が恋人同士であったことは、誰も知らない。
「でもさあ、櫻井先生は彼女一筋でも、結城先生ってどうなんだろうね。恋人居るのかな? あれだけ美人だったらいないわけないか」
「さあね」
「絶対格好いいよね、彼氏。佐伯先生も、お似合いだと思うけどさ」
 友人のそんな興味本位の言葉を、綾乃は遠くに聞いていた。
 以前に薫と麻里が噂になってからというもの、綾乃はずっと麻里を見続けてきた。それは、生徒の一人としての眼差しではなく、ただの女として。この女教師が、本当に自分の想い人に相応しいのかを見極めるために。
 そんな風に見つめていた長い時間が見出したもの。それは、麻里にとっての薫が、少なくともただの同僚の位置付けではないというものだった。確信はない。けれど、女の直感がそう言っている。
 麻里は、綾乃と同じく、薫を想うただの女なのではないか……と。
「元彼……か」
 ふいに、さっき友人が口にしたその言葉を思い出した。
 元彼。
 意味深な言葉だ。友達以上で、恋人未満。
「ねえ、先に帰っててくれない?」
「え? どうしたの綾乃」
「ちょっと教室に忘れ物したの」
 妙な胸騒ぎがした。脳裏に、麻里を真摯に見つめていた薫の眼差しを思い出す。ついさっき、可愛くてしかたのない彼女がいるのだと薫から聞いたばかりだ。だから、麻里と薫がどうにかなるだなんて思っているわけじゃない。
 でもなぜか、あの二人の顛末を見届けたくて、綾乃は踵を返した。


 約束の時間の十分前になったことを、小さな腕時計の針が指している。カチ、カチ、と、時を刻むその音は、こんな雑踏の中にいては聞こえるはずもないのに、それでもはやる鼓動と重なって響くかのようだった。
 学校からは少し離れた街の中。人通りはそう多くなく、ひっそりとした雰囲気だが、頬を撫でる風は優しくとても居心地が良い。時計台の前に立ち、腕時計をチラリと見ながら美緒は穏やかに佇んでいた。
 知る人は誰も通らない。同じ制服を着る若者を見ることもなかった。当然だ。あえて、誰にも見つからないであろうこの場所を、待ち合わせ場所に選んだのだから。
 薫はきっと、車で美緒を迎えに来るだろう。時計台の前は道路に面していて、薫の車をもすぐに見つけられそうだった。薫が美緒のところまで来なくとも、美緒の方からすぐに車に乗り込めるというメリットも、この場所を選んだ理由だ。
「ごめんなさい。人を待ってるので……」
 ここで薫を待ち始めてから十五分。もう三度目になる男からの誘いに、美緒は律儀にもまた答える。その都度、誘ってきた男たちはつまらなさそうな表情で、渋々美緒のそばを離れた。にじみ出る幸せそうな表情から、自分の入る隙などないのだと、思い知ったのかもしれない。それとも、こんな美少女には所詮自分は不釣合いなのだと自覚したのか否か。
「やっぱり、先生忙しいのかな」
 薫のことを考えながら、苦笑する。
 仕事や用事がない時は、薫は必ず美緒よりも早く約束の場所で待っていた。美緒が、約束の十分前には来るのを知っていて、それよりも早く。今日は、そんな薫の行動を見越して、三十分近くも前から待っていた。
 約束の時間十分前をきった。
 まだ来ていないということは、きっと仕事がおしているということだろう。連絡が入らないのが何よりの証拠。美緒の新しい携帯には、薫からの着信は何もなかった。それでも、残念などとは思わない。待つ時間も、愛おしい。時間に遅れた薫は、どんな顔をして会いに来るだろう。そう思うと、心の中にポッと温かくなるような何かを、美緒は感じていた。その温かさこそ、薫を好きだという証なのだと噛み締めながら。
「それにしても、なんか嫌な天気だな……」
 ふと空を見上げる。いつの間にか灰色の雲が空を覆い、圧しかかるような重みを感じさせていた。その空は、今にも泣いてしまいそうな暗い空だった。
 雨の匂いが、近い。


 麻里の診察を一通り終えて、時計をチラリと見ると、ちょうど約束の時間十分前に差し掛かるところだった。
 思わぬ誤算に、額を押さえ、小さく舌打ちを打つ。ベッドに横たわる麻里と、その横で付き添う祐介には、そんな薫の心の声は聞こえなかった。
「佐伯先生。結城先生も落ち着かれたみたいですし、もう戻られても大丈夫ですよ」
 祐介の背後から声をかける。
 彼は、いつの間にか眠りに落ちている麻里をじっと見つめながら、薫の言葉を聞いていた。華奢な彼女の手をさりげなく握り、時折その細い指を撫でる。憔悴しきっていた麻里の表情は、少しばかり穏やかな色に戻っていた。
「あの、麻里は……、結城先生の体は本当に大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫ですよ。貧血と、それからあまり食事や睡眠をとっていないのが原因でしょう。安静にして、生活を改善さえすれば、すぐに良くなります」
「そうですか……」
 ここ数日の、麻里の姿を脳裏に浮かび上がらせる。祐介の目に映る麻里は、それこそ元気なフリはしていても、やはりどこか疲れているような雰囲気があった。病気、というよりは、心労。体が病んでいるのではなく、心が病んでいる。何かに思い悩むゆえに、体も衰弱しているのではないかと、ある程度想像は付いていた。
 だからこそ、さりげなくいつも見守っていたのだ。いつ麻里が倒れてしまっても、守れるようにと。
「最近の結城先生、極度に参っているというか、本当につらそうだったので心配はしていたんです」
「そうですか……」
「自分を追い詰めていつか倒れるんじゃないかと……。異性関係も上手くいってないようでしたし」
「…………」
「俺が思うに、ストレスの原因は恋愛が関わってるんだと思います。相手の人と、上手くいっていないことが、彼女を苦しめてるんじゃないかって」
 麻里の手を握ったまま、祐介が薫の方へと振り返る。メガネ越しに映る薫の瞳は、祐介の真剣な眼差しを受けても、何一つ色を変えなかった。
「なぜ、私にそのような話をするんですか?」
 むしろ、穏やかに微笑を返すその校医を、祐介は凝視する。暗に問い掛けた祐介の思いも、薫の漆黒の瞳の中に消えるだけ。
 元々、誰に対しても優しくフランクである薫には好感を持っていた。あまり話す機会はないが、それでも時折さりげなく声をかけてくれる薫を嫌いだと思ったことなんて一度もない。麻里の思い人が、この校医であることも、祐介は薄々と感じていた。一見、物腰は柔らかく温厚な人。けれど、限りなくミステリアスな男だ。心を読みたくても、読めない。それを、こんなにも感じたのは初めてのことだった。
「わかりません……。でもなんとなく、櫻井先生には聞いて欲しかったのかもしれない」
「そうですか。じゃあ医師として、その言葉は受け止めておきます」
「医師として、ですか」
「ええ。何かおかしな点でも?」
 さりげない拒絶。
 麻里と薫の複雑な関係を、祐介は知っていると判断しての薫の態度は、より彼の心に霞みをかけた。取り付く島もない。それ以上、麻里のことを話す雰囲気もあっさり奪われてしまったようだった。
「佐伯先生は、結城先生と本当に仲がいいみたいですね。生徒たちがよく噂してますよ。お似合いの二人だと」
「いや、たまたま席が隣で、気が合うというだけで……」
「これからも気にかけてあげて下さい。結城先生は、強そうに見えて弱い人ですから」
「そうですね……」
 ――強そうに見えて弱い人。
 その言葉に、一瞬、麻里と薫の深い関係を垣間見た。それと同時に確信した。やはり、薫と麻里は、ただの知人という関係ではないということを。
「櫻井先生は、結城先生の古くからの友人なんですよね」
「ええ。もう随分前のことになりますけど」
「じゃあ、俺なんかより櫻井先生の方がよほど結城先生のことをわかってらっしゃるんじゃないですか?」
「いえいえ、私が知っているのは、所詮彼女の断片的な部分だけですから。今の佐伯先生の目に映る彼女が、一番ありのままだと思いますよ」
 穏やかなその表情からは、嘘が見えない。本心からの言葉なのだろうか。そんな薫の雰囲気に、祐介の心の中で安心と不安が入り乱れた。
 今はもう、麻里のことを相手にもしていないという薫の態度から感じる安心。
 そんな彼に、麻里がもっと傷つくことになるのではないのかという不安。
 けれど、そんな祐介の複雑な気持ちを確信に変えたのは、薫の一言だった。
「それにきっと、佐伯先生でないと、結城先生はこんなに明るく笑っていられませんよ。貴方の傍にいる時の彼女は、本当に優しく綺麗に笑っていますから」
 一瞬、麻里の鮮やかな笑顔が、脳裏に映った。
 そうだ。祐介が麻里の恋人でないにしろ、祐介のそばにいる麻里はいつだって明るかった。どんなに挫けてつらい思いをしても、祐介の言葉に最後には笑ってくれた。それは、薫でも誰でもない、祐介の力だ。祐介の存在が、いつだって麻里を笑顔にしていることに変わりはない。
 なら……。自分は、麻里を支え見守る、そんな存在で居続ければ、それだけでいいと……。
「結城先生のことなら、心配しなくても大丈夫ですよ。貴方という人が、そばにいるんですから。そうでしょう?」
「櫻井先生……」
「大事にしてあげてくださいね」
「ええ。……じゃあ、俺は職員室に戻るんで、結城先生のこと、よろしくお願いします」
「はい」
 薫の優しい笑顔に、祐介の気持ちは温かく包まれた。


 祐介がいなくなった保健室。
 ベッドで眠る麻里を背中で感じながら、薫は再び時計に目を向けた。丁度、約束の時間に差し掛かろうとするところだった。今から車で飛ばしても、遅れることには変わりない。本来なら、既に着いているはずだった。彼女を助手席に乗せて、笑い合っていたはずなのに……。
 美緒はきっと、もう何分も前から待っているはずだろう。時間に律儀な子だ。それこそ従順に、薫を待ちつづけているに違いない。けれど、病人を置いて帰るわけにはいかない。仕事なのだから、プライベートと混同してはいけないことくらいわかっている。こういう時、ある意味焦りを募らせている薫よりも、美緒の方がよほど理解がありそうだと、そう思った。そんな美緒の物分りの良すぎるところは、時折寂しくなることもあるけれど。
 祐介に麻里を預けて、先に学校を出ることも考えなかったわけじゃない。けれど、薫にはどうしても麻里に聞かなければいけないことがあったのだ。どうしても、彼女の口から確かめなければいけないことが……。
 とりあえず美緒に連絡しようと、デスクの上に置いてある自分の携帯を手に取った。少し遅れることを、告げておかなければいけない。最悪の場合、今日のデートはキャンセルしなければいけないことも、覚悟はしていた。
 パチン、と画面を開く。途端、いつもと違う異変に目を疑った。
「どうしてこんな時に限って……」
 重い溜息が漏れる。いつもなら明るく光を放つ液晶が、真っ暗なままだった。困惑した表情が、鏡のようにそのディスプレイに映っている。いつの間にか、充電が切れていたようだ。生憎、薫は充電器を持ち歩く習慣は持ち合わせていない。
 仕方なく、デスクの上にある職場の電話機を手に取った。そこから直接美緒の携帯にかけようとしたのだ。すぐさま受話器を上げ、プッシュボタンに指をかけた。
 しかし、そこでハタと気付く……。
「そういやあいつ、番号変わったんだっけ……」
 いつもならそらで言えるはずの美緒の番号。メールアドレスも、しっかりと覚えていた。でも、それが通じるのは昨日までのことだ。今日からは既に、違う番号、違うアドレスなのだということを、昼間美緒から告げられたばかりなのだから。
 こんなことなら、美緒に直接登録させるでなく、紙にでも書き残させるべきだった。だが、まさかこんなことになるだなんて、誰が想像できただろう。度重なる不運に苛立たずにはいられなかった。握る拳も、この憤りをどこにぶつけていいのかわからず、力なく抜け落ちていくだけ。薫は、一度手に取った受話器を、ゆっくりと元の位置に戻した。
「ごめんなさい、薫。急に来たりして……」
 いつの間に起きていたのだろうか。薫がベッドの方を見やると、片手を後ろにつき、もう片方の手を額に当てながら体を起こす麻里の姿があった。
 小さく零す深い溜息が、まだ彼女の不調を思わせる。来た頃に比べるとだいぶ顔色は良くなったとは言え、まだ青白く憔悴していた。ピンク色の愛らしいスーツとは、不釣合いな顔色。
「病人が余計なことは考えなくていい。おまえは大人しく寝てればいいから」
 薫はその場を動くことなく、麻里に向けて抑揚のない声で語りかけた。
 特に他意があったわけではない。憎みもしていなければ、恨んでもいない。美緒に早く連絡を取らなければ、という焦燥感に駆られていただけだ。けれど麻里には、その声色がとてつもなく冷たく聞こえて、余計に自分を責めた。
「本当にごめんなさい。私、すぐ帰るから……。だから薫ももう帰って」
「……バカッ! まだ歩けるわけないだろう? 自分の体くらい大事にしろ」
「だって……だって……」
 ベッドから降り、立ち上がろうとした途端、急激な眩暈に襲われてバランスを崩した。すかさず薫が麻里の体を支えに入る。寸でのところで倒れずに済んだ麻里は、自分を支える薫の白衣を弱々しく握った。
 居た堪れないのだ。薫の目や声が冷たいのをわかっていて、この場所にいられる覚悟など麻里にはない。
「心配しなくても、おまえが良くなったら帰るよ。余計なことは考えず安静にしてろ」
 再び麻里をベッドの上に座らせて、ゆっくりと身を離した。それでもまだ立ち上がろうとする麻里を制して、隣の椅子に腰掛ける。思わず溜息が出た。薫の意思に反して、世界が不愉快に嘲笑っているのを、頭の片隅に感じていた。
「何か急いでるんでしょ? さっき電話しようとしてたみたいだし……」
「おまえには関係のないことだよ。気にせず寝てればいいから」
「でも……」
 麻里の悲痛な声にも、薫は顔色一つ変えはしない。
「ねえ、私のことはいいから帰って。私なら大丈夫だから。薫が居てくれなくても大丈夫だから……」
「そんな顔色で大丈夫だなんて言葉は、全く真実味がないね」
 麻里をベッドに寝かせ、席を立つ。彼女と会話をしながらも、頭の中は美緒のことばかり考えていた。連絡が取れないのなら、少しでも早く美緒のところへ行かなければいけない。デートをキャンセルなど、そんな選択肢はもはや薫の中にはなかった。
 美緒はきっと、何分でも何時間でも待っていてくれるだろう。逆にそれが、薫を安心させる要素でもあった。待たせることに良心が痛まないといえば嘘になる。むしろ、美緒を一人にさせていることが心配でたまらなかった。隣に、今にも倒れてしまいそうな女がいても、尚。
「それにこれは俺の仕事だ。おまえが気にすることじゃない」
「仕事……」
「医者が患者を放り出して帰ったりできるわけないだろ」
「そうだけど……」
 冷たさが、またも麻里の心を凍らせる。『仕事』と口にする薫の言葉に、感情の拒絶を感じた。所詮、今こうして麻里のそばにいてくれるのは、感情に関係なく、医者としての義務なのだという……。今までに、こんなにも冷ややかな薫の態度を感じたことはない。
 冷たい声。凍る言葉。
 それを感じた時、今までどれほどに自分が甘やかされてきたのかを思い知った。誰にでも見せる薫の優しさでさえ、どれだけ大事だったのかを。そして、それを自ら捨ててしまったのも自分だという愚かな事実を。
 とてつもなくそれが悔しくて、思わず涙が頬を伝った。嗚咽が漏れる。感情を抑えきれず、麻里は涙とともに言葉を零した。
「ごめんなさい。……ごめんね、薫」
 今にも消え入りそうな怯えた声は、去ろうとする薫の背を優しく引きとめた。
「もう困らせたりしないから……。もうしつこく薫のこと想ったりしないから……。迷惑かけないから……。だからお願い。冷たくしないで……」
 両手で顔を覆い、必死で泣くのを我慢しても、溢れる涙は止まることを知らない。胸が苦しくて張り裂けそうだった。
 愛してくれなくてもいい。愛される資格など、もはやありはしないのだから。でも、嫌われることはどうしても耐えられないのだ。冷たくされればされるほど心は凍てつき、見放されたらもう、息も出来なくなる。
 死んでしまいそうになる――。
「他の女の子と同じでいい。それ以上望まないから。私が悪いことしたんだもの、怒ってるのだってわかってる。薫の優しさを大事にしなかった私が悪いの。……でも、まだ少しでも嫌いじゃない気持ちがあるんだったら、お願いだからこれ以上冷たくしないで……」
 嫌わないで欲しいと男に縋るだなんて、きっと一生ないだろう。
 所詮、何より大事なのは薫なのではなく麻里自身なのではないかとさえ感じていた。自分がこれ以上傷つくのが怖いから。その原因は自分だとわかっているくせに。そんな自分を惨めだと、そう思う。そんな女だからこそ、愛されないのかもしれないとわかっている。
 でも、それでも薫にだけは嫌われたくなかった。こんなにも愛した男だけには……。愛されない覚悟の中に、それでも取り戻したいものがあったのだ。確かに愛してくれていたという、薫のあの言葉を。
「ごめんね……。私バカだから、いつも失ってから気付くの。ごめん……ごめんね……」
 顔を覆う手から、涙が溢れ落ちる。息を詰まらせながら、ごめんなさいと何度も口にした。涙と言葉以外でこの想いを伝える術が見つからないことを、とてつもなく悔しく思う。
 すると薫は、そんな麻里をじっと見つめながら、隣へと再び腰を下ろした。さりげなく触れられた手は、冷たく冷え切った麻里の手に、優しく温もりを伝えた。
「嫌いになんてなれないって……前にも言ったよ」
「……うん」
「美緒以外は愛せないとも言った」
「……わかってる」
「おまえには、幸せになって欲しいんだ。本当に……」
 嫌いなんかじゃない。むしろ、愛しくさえ思っている。麻里がどれだけ魅力的で可愛い女なのかということも、嫌と言うほどわかっている。そんな彼女を、かつて愛していたのだから。
 だからこそ望むのだ。彼女の幸せを。彼女の笑顔を。
 それを自分が与えられないと知っていて、どうして一緒にいられるだろう。どうして、余計な期待など持たせることができるだろう。冷たくしたのは、本心からじゃない。彼女の幸せを思った故の、ことだったのだ。もう一度、誰かを愛して欲しかったから。こんなに素敵な彼女に愛される男は、どれだけ幸せなのかを知っているから。
「なあ、結城先生」
 薫の声が優しくなったことを麻里も感じて、やっと彼を見つめることができた。涙で濡れる顔を拭いながら、視線を向けると、ぼんやりとした視界の向こうに、切なげに麻里を見守る薫の表情を見つけた。それだけのことが、もうどうにも幸せで仕方がなかった。
「君はもっと、周りに溢れている幸せを感じた方がいい」
「周りに溢れている……幸せ?」
「ああ。きっと君のすぐ隣にあるはずだから」
「隣……」
「君は愛されてるよ。一人なんかじゃない。いつだって深く深く愛されてる」
 祐介の麻里を見守る目は、本当に優しくて慈愛に溢れていた。それがどれだけ大切なものなのかということを、麻里はきっと気付いていないのだろう。
 でも、薫にはわかるのだ。祐介が麻里を思う気持ちは、どんな人間よりも深く果てしないのだと。友情も恋情も通り越して、祐介は麻里だけを愛しく思っているはずだと。
「わかるように……なれるかな」
「なれるさ。きっと」
 いくら時間がかかっても、祐介の気持ちなら、大丈夫だ。

 麻里の気持ちが落ち着いてきたのを見計らって、薫は落ち着かせるように触れたままだった麻里の手をそっと離した。そして、本来彼女がここへ来た理由に関して、話をすることに決めた。
 酷なのかもしれない。
 今、こんな精神状態の中で彼女にそれを問うのは。
 だけれど、今だからこそ然るべき時のような気がした。この瞬間を逃せば、もうその事実を聞く機会がないような気がしたのだ。
「ところで、結城先生」
「ん?」
「最近の体調の変化は、君もちゃんと気付いてたはずだ。無理をしたら倒れることくらい、わかってただろう」
「……ただ、疲れてただけよ」
 曖昧に、彼女が笑う。その曖昧さは、とても臆病に見えた。
「ただ疲れてただけだと言うなら、君はこんなにも自分の体を追い詰めないんじゃないか?」
「何が……言いたいの」
「もっと自分の体を大事にしないとダメだよ。食事も睡眠もきちんと取って、万全の体調を整えるように気を遣ってほしい」
 穏やかだった麻里の目が、急に厳しいものに変わった。
 薫もその瞬間を見逃さない。やはり、予感は的中しそうだった。
「タバコは今も吸ってるのか?」
「……うん」
 彼女に容赦なく押し寄せてくる。
 暗い、暗い波が。
「今すぐやめるんだ」
「どうしたのよ……そんな急に……」
 薫の目を見ていられなくて、自然と目を伏せた。呼吸が苦しくて、息が詰まる。ドクドクと、体の中を駆け巡る血流に、気分が悪くなる。そんな彼女を目の端で捉えながらも、薫は言葉を止めなかった。
「君の体を思ってこそだよ。これ以上の喫煙は、確実に君の体を危険に晒すことになる」
 ――二つ目の罰。
 薫には知られたくなかった。知られてはいけなかったのだ。それなのに、何故こんなにも、薫は麻里を逃がさない……。
「妊娠……してるんだろう?」

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