華水の月

44.誓いを秘めた石

 白く霞む雨色の景色は、沈みゆく心に比例して加速するように激しくなる。
 まだ最愛の人を見つけられない手のひらは、本来彼女がくれるはずであろう温もりを欲して、寂しく握り締められたままだった。
 あれから時計台の針が、何度時を刻んだだろう。時間の感覚は既に麻痺し、その場を離れることもできず、寂しい心を持て余していた。
 目に映る雨は白い。いつの間にか、体温さえも冷たい雨に奪われている。どんなに時間が過ぎ、温もりを失おうとも、彼女は必ず来ると信じていた。この腕の中に、再び。

「……かおる?」
 もう何年も聞きなれているはずの声が薫を呼んでも、すぐには反応できなかった。
 その声の主は、自分の視界に映る青年が実の兄であることを確信すると、傘を持つ右手にグッと力を込めて、駆け寄ってきた。薫は、時計台の前に軽く腰掛け、背中を少し丸めた形で、遠くを見つめていた。濡れることに、もう抵抗はない。
「何やってんだよ、薫。こんなところで傘もささずに……」
「ああ、なんだおまえか」
「おまえかって……ずぶ濡れじゃんか」
 ゆっくりと上げられる目線。泉を目にしても、あまり驚いた風はなかった。濡れた髪は、薫がずっと前からこの場にいることを象徴している。頬は青白く、目も少し虚ろで、いつもの薫から感じられる覇気は微塵もなかった。
「何やってんの泉、こんなとこで」
「だからそれは俺の台詞だっての。……俺はたまたま遊びの帰りでここを通っただけだよ。友達ん家が近いから」
「ふーん、そう」
「そういう薫は何してんだよ。時間からして、今仕事の帰りだろ?」
 さりげなく、泉が自分の傘を半分薫に傾けた。遮られる雨に、泉の優しさと同じ温もりを取り戻す。
 薫は握り締めていた携帯をポケットに入れると、それと交互にタバコを取り出した。火を付け、銜える。ゆっくりと煙を吸い、息を吐くと、ついさっきまで抱えていた大きな不安は、少し安らいだ気がした。
「なあ、泉。ちょっとおまえに頼みたいことがあるんだけど」
「え? 何?」
「美緒の新しい番号って、おまえ知ってる?」
「ああ。昼間、メールが来たから知ってるけど」
「今どこにいるのか、電話して聞いてみてくれないか」
 薫の言葉で、なぜ薫が今こうして一人でここにいるのかを瞬時に悟った。美緒と待ち合わせをし、そして今ここに美緒がいないということは、会えずにすれ違ったままだということだ。薫がここから動かないのも、その証拠。動かないのではなく、動けない。こういう時は、下手に動かずに一定の場所で待っていた方が効果的であることは、泉自身にもすぐ理解できた。
『迷子になったら、動かずにじっとしてろよ。兄ちゃんが絶対探してやるから』
 そんな台詞を、幼い頃によく薫から言い聞かされたことをふと思いだす。いつだって、薫は泉を見つけてくれたのだ。そんな記憶は、今になっても鮮明に思いだせる。
 けれど、どうして自分の携帯から美緒に連絡を取らないのかが不思議でならない。
「なんで薫の携帯から連絡しないんだよ。持ってただろ? 携帯」
「ん?」
「さっきポケットに入れてなかったっけ」
「ああ。持ってるよ、ほら」
 再びポケットから出された携帯を泉が受け取る。パチンと画面を開くと、何の反応も示さない暗い画面が目の前にあった。
「あちゃあ……充電切れ?」
「そう。こんな時に最悪だよ」
「でもさ、コンビニで充電器とか売ってんだから買えばいいじゃんか」
「生憎、この近辺にコンビニがないんだよ。それにここに着いた以上、美緒がいつ来るかもわからないから、待ち合わせ場所から下手に動けないし」
「ああ、そうだったっけ……。ご愁傷様です」
 苦笑いを浮かべて薫を慰めると、薫もすぐさま苦笑いを零した。
 立つ瀬がないとはこういうことだ。上手くいかない時は、とことん上手く行かない。すれ違ったまま美緒に会えないことも。そして、麻里を救う術を持ち合わせていないことも。迫り来る闇を、薫は知らず自分の背に感じていた。
 薫自身に直接罪はない。罪などなくとも、運命は確実に薫に濡れ衣を着せるのだ。自分の知らないところ、覚えのないところで狂っていく歯車。それでも、美緒を想う気持ちは止まることを知らなかった。今こうして泉と話している中でも、美緒に対する愛しさは募るばかりだ。
「だからちょっと電話して」
「え? あ、ああ。ちょっと待ってて」
「美緒が無事かさえわかれば、それでいいから」
「わかった」
 少し疲れたような、しんどそうな薫の声に、泉の気持ちが一瞬焦る。薫に言われるがまま、泉は自分の携帯を取り出すと、すぐさま美緒に電話をした。数回のコールの後、沈黙が一瞬訪れると、電話越しから美緒の愛らしい声が響いた。
 ただそれだけのことなのに、胸がドキリとする。薫が目の前にいるというのに、そういう感覚はまた別の所にあるのだと思い知らされた気がした。
『もしもし、泉くん? どうしたの?』
「あー、美緒? おまえ今どこにいんの?」
『え? 私? ……えーとねえ、駅の近くだけど』
「駅ってどこの?」
『○○駅の近く』
 美緒が口にしたその駅は、待ち合わせ場所から一番近い駅名だった。ということは、美緒もこの付近にいるということだ。だとしたら、何故今この場所に美緒がいないのか、余計に疑念は募る。
「おまえ今日薫と待ち合わせしてたんじゃないのか?」
『うん、してたよ。ていうかよく知ってるねえ、泉くん』
「してたよ、って……。え? じゃあなんでおまえ今駅なんかにいるんだよ。どうして待ち合わせ場所に来ないわけ? どういうことなのか全然わかんないんだけど」
『何怒ってるの? 泉くん』
 知らぬ間に声が少し荒々しくなっていたことに、泉は気付いていなかった。薫の姿を見ていたら、なんだか無性に焦りが募ったのだ。それが、声色となり美緒に伝わっていた。
「いや、怒ってるわけじゃないんだ。悪い。ちょっと言い方がきつかったかもしれない」
『ううん。別に気にしてないよ』
「ごめん。で、話戻るけど、どうしておまえそこにいるの?」
『あー。なんかね、先生お仕事で忙しそうだったし、風邪もひいてたから、先に帰りますってメールを送って今日のデートキャンセルしちゃったの。それで今帰ってる途中』
「……なるほどね」
 全てのすれ違いの根源は、美緒の気遣いと、この充電の切れた携帯か。
 頭の回転の速い泉は、少ない情報だけで全てを理解した。
『でもどうして泉くんがそんなこと気にするの? 何かあったの?』
 察しの良さは、美緒も変わらない。泉の言葉に違和感を感じ、思わず問い返していた。
「いや、何でもないよ。ただちょっと頼まれて聞いてみただけだから」
『頼まれたって、誰に?』
「それは……」
 泉が、座ったままの薫を見下ろし、チラリと見る。薫は俯いたままで何も喋らず、指に挟んだままのタバコもいつしか吸わないままに火を消していた。
 ふと、薫の胸元に視線が奪われる。キラリと何かが光ったのだ。
 ――ピンクダイヤ?
 よく見ると、ネクタイに引っかかるそれは、美緒がいつも身につけて離さない薄紅の光と同じように見えた。確かめるように薫の胸元を窺いながら、薫のことを美緒に言おうかどうしようか迷っていると、それより先に美緒が核心を突き、思考を遮られた。
『先生? 先生に頼まれたの?』
「いや……」
『どうして先生が泉くんに頼むの? 先生に何かあったの?』
 さすがに彼氏のことになると、いつもはおっとりしている美緒でも焦りを募らせていた。逸る口調が、泉を容赦なく責め立てる。その察しの良さから、ほとんどのことは気付いているのだろう。こうして泉が電話をかけてきた時点で、薫の身に異変があったことはわかっているに違いない。
 彼女の声色は、不安に震えている。泉は、小さく溜息をつくと、今いるこの状況を掻い摘んで美緒に話した。
「――そういうわけで、薫は知らなかったってわけ。まあ、気にすんなよ。おまえが悪いわけじゃないし」
『ごめんなさい、本当にごめんなさい。ああもう、私って本当にバカだね……』
「おまえは良かれと思ってやったんだから、別に悪くないって」
『いつもだったら何時間でも待ってたのに、こんな時に限って余計な気回して、私がバカなんだよ。ごめんなさいとしか言えないよ……』
「そんなに自分を責めると、薫が逆に心配するぞ?」
『うん……。ねえ、先生は? 先生はそこにいるの?』
「え? ああ……いるけど」
 薫は、ぐったりと腰をかけ俯いたまま、何も喋ろうとはしなかった。泉の声が聞こえているのかどうかも曖昧。『薫、美緒から電話だけど』と、小さく問うても、何も言葉を返さない。いつもの彼とは全く違うその背に、一抹の不安を覚えながら、再び意識を携帯の方へと向けた。
「ごめん、薫今ちょっと電話に出られないみたいでさ……」
『そう……なんだ』
「まあ、ちゃんとおまえの言葉は伝えとくから安心しろよ」
『……うん。本当に本当にごめんなさいって先生に伝えてね。絶対だよ』
「わかったわかった」
『絶対だからね、泉くん』
「わかったって……」
 電話の向こうで、今にも泣きそうな美緒の声が聞こえて、思わず苦笑いを浮かべた。
 本当に、互いを心配しすぎる二人だ。
 薫も美緒も、いつだって互いを想い過ぎるくらい想っているのに、それでもこうして上手くいかないことは多くて、そう思うと、なんだかものすごく滑稽にさえ思えた。そして、とても切なくなった。
「……じゃあな」
 泉は、美緒との会話を切ると、携帯をポケットに突っ込み、そして薫へと向き直った。
「薫、カオル!」
「……え? ……ああ。どうだった? 電話」
 頬を軽く叩き、声をかけると、薫がゆっくりと顔を上げた。その表情は、最初見た時よりも明らかに憔悴していて、頬も透きとおってしまうくらいに青白くなっていた。
 思わず息を呑む。
 ある意味そんな薫の面立ちは、人間味を感じさせない無機質とも言える美しさがあった。ゾクリと、背筋を駆け上がるような、氷の美貌。濡れる雫が、余計にその美しさを際立たせた。
「今、駅前にいるんだって。薫の体を気遣って、今日のデートはキャンセルするっていうメールを携帯に送ったらしいよ。充電が切れてるせいで、届いてなかったみたいだけど」
「メール……?」
「タイミングがずれて、入れ違いになったみたいだな」
「……そっか。なら、良かった」
 溜息混じりに、小さく微笑みを零す。本当に安堵したのがわかる、その温かい微笑みに、氷の美貌とは違う別の美しさをまた感じさせた。
「美緒が無事ならいいんだ。それだけが、気がかりだったから」
「ちゃんと無事だったから安心しろよ」
「ああ。安心した。ありがとう泉」
 美緒が無事なら、それだけで構わない。待っていた時間も、けして無駄なものではない。君を本当に好きだと、深く深く心に刻み込んだ雨。白い雨は、君の記憶を心の中に鮮明に残した。
 こんな一瞬も、けして忘れはしないのだろう。美緒の隣に、薫が居続けられる限り永遠に――。
「じゃあ、俺らも帰るか」
「うん。あのさ、薫が濡れて待ってたこととか言わなかったけど、それで良かったんだよな?」
「ああ。気遣ってくれて、ありがとう」
「いや、いいけど……。でもせっかく近くにいるのに、もっかいここに美緒呼ばなくて良かったのか?」
「呼んだら、それこそ心配させるだろう?」
「なんで?」
「この格好を見たら、いくら美緒でもビックリするよ」
 確かに、まさか薫がずぶ濡れで美緒を待っていただなんて思ってもいないだろう。
「あの子は、人のことになると、異常なまでに心配を募らせる子なんだから」
「ああ、まあ確かに。薫のことだと余計だな」
「それに、心配させるのはおまえだけで充分だよ」
「俺も出来れば心配したくないんだけど?」
「普段俺に心配かけてる分、たまには兄貴の心配しろ」
 クスッと笑って、ポケットから車の鍵を取り出すと、泉にハイと手渡した。
「何? この鍵」
「帰りはおまえが運転してよ。意識がちょっと朦朧としてるから、今の俺が運転したら、たぶん事故る」
「え? そんなに体悪いのか? マジで大丈夫かよ?!」
 さすがに薫の体がまともでないことは、その様子からして既にわかっていたが、まさかそんな台詞が出るほどとは思っていなかった。薫は普段から弱音を吐かない人なのだ。今この状況下でさえ、きっと車の事がなかったら、こんな台詞を口にさえしなかっただろう。得意のポーカーフェイスで、平然を装うに違いない。
 咄嗟に、泉の手を薫の額に当てる。すると、ありえないほどの熱が手の平に伝わってきて、おもわずその衝撃に身を引くほどだった。
「すっごい熱じゃん。バカだなあ、風邪ひいてたってのに、なんでこんなになるまでこんなとこで待ってんだよ」
「生憎、自分の体よりも美緒の方が大事なんだよ」
「美緒には後で連絡でも何でもすればいい話だろ? あいつだって薫が風邪引いてんのわかってたんだし」
「一分でも早く迎えに行ってやりたかったし、美緒を不安にさせたくなかったんだ。それに、濡れて待ってる男ってのも、なかなか格好いいもんだと思わない?」
 微笑み混じりに呟く薫の言葉に、呆れた表情で泉が溜息をついた。
 全く、この兄はどうしてこうも、憎めない人なのだろう、と。
「本当にもう、格好良過ぎるくらい格好いいですよ。美緒が見たら、たぶん泣くよ?」
「泣かせてみるのも、それはそれで楽しかったかもな」
「ったく、待つなら待つで、俺にでもさっさと連絡すればいいものを」
「おまえの番号なんて覚えてないし」
「は?! 俺は薫の番号をそらで言えるのに? ……薫ちゃん非情」
「バーカ。美緒の番号以外、覚える価値なんてないんだよ」
「ひでえ言い方。格好いいけど冷酷な兄に決定だな」
「どうとでも言えよ」
 互いにクスクスと笑いながら、時計台の前を後にした。
 熱のせいでまともな体ではない薫を、泉はさりげなく支えながら、二人白い雨の中を、ただただ微笑み合いながら、話しつづけていた。
「で、どれくらい待ってたの?」
「んー……軽く三十分くらい?」
「三十分?! ……雨も滴るいい男って言うけど、それはさすがに滴り過ぎじゃないか?」
「美緒じゃなかったら待ってないよ」
「それが俺だったら五分も待ってくれなさそうだな、薫は……」
「バーカ。一分も待つかよ」
「冷たっ! 冷たすぎるよ薫ちゃん……」
「生憎、冷たさも俺の売りなんだよ」
 笑い声が、雨色の街に溶けていく。
 どこまでいっても、やはり薫と泉は、最愛の兄と弟であることは一生変わることはない。


「なあ、薫」
「……ん?」
「さっきから気になってたんだけどさ……」
 雨の中を走る車の中。運転席に座る泉が、チラリと薫の方を見やる。時折対向車のヘッドライトに反射して薄紅にキラリと光る、胸元の石。やっぱりそれは……
「そのネクタイピンって、もしかして……」
 薫が美緒に贈ったネックレスと同じ石?
 そう問いたかったが、隣に座る薫は、すでにぐったりと意識を思考の外へと置き去りにして眠っていた。よほど、体がつらいのかもしれない。車の中で眠る薫を見るなんて珍しいことで、泉はそれ以上話かけまいと口を噤み、そして再びキラリと光るそれを見た。
「まさか、な」
 それが美緒と揃いのピンクダイヤであることを半ば確信しつつも、そんな確信を別の記憶が打ち消した。薫は元々、恋人にプレゼントを贈ることに関しては積極的な方ではあるが、その反面、恋人と同じ物を共有したがる性格でないことを、泉はよく知っている。
『お揃いのものなんて絶対持ってくれないのよ。どんなに可愛くねだってみても、いつも上手く逃げられるの』
 昔、そんな風によく麻里が零していた。ペアリングでも何でも、二人で同じ物を持つことに、薫はけして頷かなかったと。それはただ単なる、薫の嗜好の問題なのか、どうなのか。見られて恥ずかしいからという理由も否めない。同じ男として、薫のそういう考えがわからないでもないことは確かだったが、結局のところ薫の真意は計り知れない。
 そして、泉は何も知らないが、昔薫と愛し合っていた麻里だからこそ、わかることがもう一つ。美緒に贈ったピンクダイヤモンド。さりげなく贈られたこの石に込められた大きな意味も、泉や美緒はまだ知る由もない。
「とりあえず、早く帰って寝かせてやらないと」
 泉がスピードを上げ、家路へと急ぐ。降りしきる心地よい雨音の中。薫は、助手席で静かな眠りにつきながら、美緒の夢を見ていた。それは、鮮明に記憶に残るような印象強いものではなかったけれど、確かに薫の心を幸せにしていた。
 静かな薄紅の輝きが、夢の中でもキラリと光る。
 石に誓ったのだ。美緒を、永遠に愛し抜くと。美緒の幸せのためなら、どんな非情なことも、どんな犠牲をも厭わないと。
 たとえ、麻里の存在が薫を求めようとも、彼の心はけして揺るがない。砕けない。どんなに惑わされようと、溺れたりはしない。薄紅の石だけは、薫の真実を静かに見つめていた。
 けれど現実はひどく曖昧で、薫の未知の世界で狂っていくことを、この時の薫は、まだ気付いてはいなかった。

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