華水の月

46.闇に惑う哀恋

 特に理由があったわけでもない。衝動が起きたわけでもない。
 それを聞いたのは、きっとただのエゴだったのだろう。自分だけは、全てを知っておきたいというエゴ。
 薫は、何一つとして知らないというのに。

「あの日の夜、薫ずっと連絡がつかなかったけど、まさか麻里さんと一緒に居たなんて事は……ないよな?」
 薫の表情は、至って冷静だった。もしかしたら、聞こえていないのか? とも思えるほどに、何も感情を見せなかったのだ。その表情に、ある意味安心を覚えた。やっぱり、薫は何も裏切ってないという。
 息を潜め、瞳の色を窺う。
「一緒になんて、いなかったよな?」
 けれど、薫から返ってきた返答は、泉の期待を見事に裏切った。
「……居たよ」
 ――氷の美貌。
 何一つ表情を変えずに言い放ったその答えは、とても冷ややかで、泉の背を冷たい一筋の汗がスッとなぞった。兄の言う言葉も、表情も、何もかもが一瞬にして曇る。喉元で言葉が詰まり、薫の言葉を理解するのに少し時間がかかった。
「ちょっと待って……。なんでそんな簡単に認めてんだよ。麻里さんと一緒に居たって、それってどういうことなのかわかってんの?」
 泉の声は震えていた。ベッド脇に腰掛け、斜め後ろに座っている薫を見つめながらも、震えは止まらなかった。口元に、呆れを含んだ薄笑みが浮かぶ。
「そのままの意味だよ。一緒に居た、ただそれだけのことだ」
「それだけって……」
「それ以上の意味も、それ以下の意味もないよ。言った言葉そのままだ」
 それでも、薫の表情は変わらない。不信感だけが、泉の中で怒濤のごとく駆け巡った。聞かなければよかったのかもしれない。でも、もう後には引けない。
「でも……」
「それに、おまえが心配することじゃない」
「それは……わかってるけどさ」
「心配させるようなことを、俺はしていない」
「そう、だよな」
 所詮、薫と美緒の恋愛に、泉が口を出せる立場ではない。弟だからと言って、人の恋路に口を出せる権利などないことくらい、泉自身理解はしているのだ。
 けれど、それでも関わってしまうのは、泉にとって美緒という存在が、既に自分の全てになってしまっているからだ。もう、美緒のいない人生など、泉には考えられなかった。彼女を守るという、それだけのことが心を支配する。
「わかってるけど、心配だったんだよ。薫と美緒には、いつも幸せでいて欲しいから……」
「そっか」
「美緒にも薫にも、いつでも笑っててほしいんだ。だから……。ごめん、余計なこと聞いて」
「……本当に優しいな、おまえは」
「え?」
 ポン、と頭の上に乗せられた熱のこもる手のひら。その指が泉の髪をクシャクシャッと弄って、薫は優しく微笑んだ。その微笑に、なぜか後ろめたさを感じて、泉がふいっと視線を外す。
 何を疑っていると言うのだろう。この兄は、こんなにも優しく強い人だというのに……。美緒の幸せを誰よりも望んでいるのは、薫だとわかっているはずなのに……。
 それでも消せない猜疑心は、脳裏に浮かぶ麻里の弱々しい姿のせいかもしれない。思わず抱き寄せてしまうほどに愛しい女を、薫はそんなにも簡単に切り離すことが出来るのかと、疑わずにはいられないのだ。
 事実、泉自身が出来なかったから。美緒を守ると言いつつ、目の前で涙を零す麻里を結局最後まで責めきれず、思わず抱き寄せていた。虚勢を張った上辺はあんなにも強い女に見えるのに、本当はボロボロに傷ついていてとても弱く脆い。憎むべきでも、憎みきれないのだ。たとえ、彼女がどんなに非情だとしても。麻里は、そういう魅力を持った人だった。
「心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫だよ」
「本当に?」
「ああ。何を心配してるのかは知らないけど、無用な心配だよ。ったく、いつもは何も考えてないクセに、おまえは俺のことになると急に心配性になるよな」
「仕方ないじゃん……。俺にとって薫くらい大事な人なんて、いないんだから……」
「今となっては、そこに美緒もいるんだろう?」
「……さあ、どうかな」
 苦笑いを零すのが、精一杯だった。妹として大事なのだと認めるには、あまりに切な過ぎて……。
「じゃあ、二人は何もなかったって、信じていいんだよな」
「信じるも信じないも、それはおまえの自由だ」
「はっきりとした答えが欲しいんだよ、俺は」
「おまえの言うハッキリとした答えっていうのは、その日にあったこと全部を話せということだろう?」
「ああ。もちろん」
「じゃあ、そのことに関して、麻里は何て言ってた?」
 思わず突かれた核心に、泉が押し黙る。
「おまえのことだから、どうせ俺に聞くより先に麻里にも聞いたんだろ?」
「なんでわかんの?」
「わかるよ。俺はおまえの兄貴なんだから」
 責めるわけでもない薫の優しい口調に、泉は小さく溜息をついて、本当のことを話した。
「麻里さんには、結局聞いてない。聞こうと思って会いに行ったけど、なんか、聞けなくて……」
「そっか」
「それに、聞いても答えてくれないような気もしてた。麻里さんが、あまりに脆くて弱そうな感じがしたんだ……。傷つけそうで、何も言えなかった」
「……なら、俺もおまえには話せないよ」
「え?」
 ふと視線を薫の方へ向けると、困ったような表情がわずかに窺い知れた。
 言いたいけれど、言えない。無言の中に、そんな台詞を読み取れるような。
「これは、俺だけの問題じゃない。だから、麻里を無視しておまえに洗い浚い話すことはできない」
「でも……」
「麻里にとって聞かれたくないことも、知られたくないこともあるだろう。たとえそれがどんなに些細なことだとしてもだ。だからそれを俺が自由に話すことはできないよ。おまえもそれを感じて、聞けなかったんじゃないのか?」
「……そうだな」
 薫の言うことも一理ある。全く無関係の他人に、二人のプライベートのことなど話す義理もない。フェミニストな薫だからこそ、女の気持ちを簡単に踏み躙るようなことはしないだろう。
 でも、秘めるからこそ、秘めなければいけない何かがあるのではと疑うのだ。疑いたくなくとも、それは泉の意思と反して加速する。信じたいと思えば思うほど、逆に信じる余地がなくなる気さえした。それに泉は、泣きたくなるほど切ない麻里の想いを知っている。知っているからこそ、あの時の麻里がどういう行動に出るかは想像できるのだ。彼女の気持ちを思えば、きっと胸が痛くなるだろう。
 ましてや、美緒を密かに想っていることを薫に悟られないように願っている泉にとっては、これ以上口を出す勇気もなかった。真実を穿り返して尚、平静を装っていられる自信などなかったのだ。
 すると薫は別の切り口で、泉を安心させる言葉をかけた。
「でも、もし美緒が全てを知りたいって言うなら、俺は何一つ隠すつもりはないよ。美緒より大事なものなんて、この世にはないんだから」
 ある意味そのセリフは、何もやましいことなどしていないという自信にも聞こえた。正義よりも、義理よりも、何よりも美緒を優先する。そんな薫の強い気持ちは、痛いほど泉にも伝わった。
 それなのに……。泉には、そのセリフが別の感覚でも受け止められたのだ。薫自身が後ろめたいことを秘めているから、恋人の美緒にだけは嘘を吐けないという……。体中を駆け巡る薫への不信感が、色を帯び形を作り上げていく。薫を信じるより、美緒を守ることの方が、今の泉を支配するのだった。
 後々、この時この薫の言葉を信じられなかったことが、大きな後悔を産むとも知らずに――。
「裏切る、裏切らないは、俺が決めることでも、おまえが決めることでもない。美緒が決めることだよ。俺の価値は、全て美緒に委ねてる」
 後になれば分かる、その言葉の深い意味。そこに秘められたままの、薫だけが知る真実。愛する、ということを、誰よりも知っている薫ならではの、深い言葉だった。
 もしもそこに美緒が居たなら、薫は何も隠すことなく全てを告げ、そして彼女を抱き締め、どれだけ愛しているのかを伝えることができただろう。大阪での夜、麻里に許した薫のラインが、美緒にとってはどれだけ甘く優しくて、そして麻里にとってどれだけ切なくて残酷なものだったかを。
 でも、この時の泉にはわからない。
 きっと、最後のこの言葉がなかったなら、泉はずっと疑うだけに留めていただろう。薫をずっと、信じていられたかもしれない。二人の幸せを、ただ望むだけの立場で堪えていられたかもしれない。けれど、薫のその一言が、泉の猜疑心を確信に変えた。裏切りを犯しているからこそ、許す許さないの判断を美緒に委ねているのではないかと思いこんだのだ。卑怯な兄だと――。
 それがどれだけ愚かな確信だとも気付かずに。
「……あれ? 美緒かな」
 扉の向こう。玄関のあたりで物音が響いて、泉と薫が顔を見合わせた。ガタガタッという、少し激しい音。何かに急かされているような、そんな音。
 薫は、何も気付いていない。けれど、泉の胸中に、どうしようもなく嫌な予感が渦巻いて、途端重い腰を上げていた。
「どうした? 泉」
「え……ああ、さっきから美緒がキッチンでゴハン作ってたから、もしかしたら出来たのかも」
「そうなのか」
「うん……俺、ちょっと見てくる。薫はもうちょっと寝てろよ」
 少し心配そうな表情を浮かべた薫の背に、数日前の光景が蘇る。麻里の部屋で見た、妊娠検査薬の箱。泉の疑いは確信に変わっていた。この二人は、性的関係にある、という確信に。彼女は、けして薫以外の男には抱かれようとはしないだろう。以前、麻里と交わろうとして、結局交われなかった時のことが、脳裏を霞める。だからこそ、確信を得るのだ。
 この際、麻里が妊娠していてもいなくても、薫と麻里は、あの空白の夜に、肉体関係を持ったはず、と。
 美緒を愛するが故の愚かな心が、歯車を狂わせる。
「なあ、薫」
「ん?」
 確信を得ても尚、けして嫌いにはなれない最愛の兄。でも、それと同じくらい愛しい存在が、もう一人心の中にいるのだ。今の泉には、彼女が全てだった。
「薫と麻里さんが一緒にいたこと、美緒は何も知らないから安心して」
「え?」
「美緒には絶対に言わないから。美緒なら、大丈夫だから……」
 そう言ったのは、薫を安心させるためだったのか、それとも美緒を薫に渡したくなかったからなのか、どちらかなのかわからない。いや、わかっているのに、わからないフリをした。
 確信は、確実に泉を猜疑の闇へと誘っていた。美緒を守れるのは自分だけだという思い込みに、どっぷりと嵌っていく。薫を悪だと、弱い心が勝手に作り上げていく。それがどれだけ愚かなことなのか、今の彼にはまだ気付く術がない。
 自分勝手なウソ。薫が、少し安心したような表情を見せた途端、泉の中で、複雑な感情が入り乱れた。最愛の兄を騙しているという罪悪感と、最恋の美緒を薫から引き離せたことへの優越感と。二人のキスシーンを見たことを、薫には言わないという美緒との約束を盾にして、結局泉は自分の醜い欲望を庇った。


 パタン――。
 後ろ手にドアを締め、物音の鳴った玄関の方へと急ぎ足で向かった。途中キッチンを横切った時、美緒がいるかどうかをふと窺うと、いつの間にか止められていたコンロの火と、吹き零れたお粥の土鍋が目に付いた。
 気持ちが逸る。嫌な予感は、泉の背から容赦なく覆いかぶさり、身の毛もよだつほどに奮い上がらせた。
「あの……バカッ!!」
 舌打ちをし、苛立ちに拳をギュッと握り締める。辿り着いた玄関には、美緒がここへ来る時にさしていた赤いチェックの折り畳み傘が置き去りにされたまま、その持ち主だけが姿を消していた。
 カバンも、靴もどこにもない。
 外はまだ、雨が降りやまずに泣いていた。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.