華水の月

51.母親の涙

「あ、美緒。こんなところにいたの?」
 女子トイレから出てくると、美緒を見つけたえみの声が、廊下に響き渡った。
 その声は美緒のすぐそばまで近づくと、何やってんの? と耳元で囁いた。
「結城先生に付き添ってて……」
「結城先生?」
「うん、ちょっと調子悪かったみたいでね、それで」
「あー、そう言えば最近の結城先生顔色悪いもんね。少し痩せたみたいだし」
「うん」
「それで付き添ってたの? 相変わらず美緒は優しいね」
「普通のことだよ」
 麻里はまだトイレに残ったままだった。
 ずっと背中をさすり続けていた美緒だったが、麻里が何度も申し分けなさそうに『大丈夫だから帰って』と言うものだから、その気持ちを察して彼女の傍を離れたのだ。それでも、言葉の割りには、彼女の具合は一向に良くはなっていなかった。目元を顰め、口に手を当て、ハァハァと大きく呼吸をしながら、必死に自分を奮い立たせていた。
 ――つわり。
 美緒の中で麻里の症状は、それ以外考えられなくなっている。誰が見ても、疑わずにはいられないだろう極端な麻里の様子。ごめんなさい、と言った麻里の言葉が、美緒を余計に追い込むのだ。疑いたくない。疑いたくないけれど、同じ男を思う女だからこそ、その相手が否応なしにも脳裏に浮かぶ。
 美緒は、不安に打ち震える胸をギュッと抑え、それ以上深く考えないように努力した。違う、違うと何度も唱える。追いかけてくる現実に目を反らしながら。
「で、もう大丈夫なの? 結城先生」
「あ、うん。たぶん……」
「今日はそんなに言うほどつらそうには見えなかったけど、無理してたんだね。でもさすが先生だね、生徒に悟られないように振舞ってて」
「結城先生は、いつも毅然とした人だからね」
 たとえ顔色は良くなくとも、麻里の教師としての姿勢は変わらない。微塵たりとも、弱っている様子や、つらそうな素振りを生徒の前では見せないのだ。それが、薫の前ならどう変わるのかは、美緒には計り知れないけれど。
 ――バカだ。
 またふと薫の存在を彼女と結びつけたことに、後悔した。やはり、考えないようにしようとも、それは無理な相談なのかもしれない。
「でもさすがにあの日はつらそうだったけどね」
「え?」
「ほら、すっごい可愛いピンクのスーツ着てた日があったじゃん。ちょっとヒラヒラっとしたやつ。あの日の結城先生はさすがにやばかったみたいだよ? 倒れて保健室に運ばれたってクラスの子が言ってたもん」
「保健室に……」
「うん、佐伯先生が運んだって言ってた」
 鮮明に覚えている記憶。彼女がピンク色のスーツを着ていたという日は、ちょうど3日前のことだ。そう、薫とすれ違い、泉の腕の中で涙したあの日。何もかもが滅茶苦茶に狂ってしまったあの日。その日の記憶の断片が、パッと美緒の中で駆け巡る。心の柔らかい所に、何かが引っかかった。
 ピンク色のスーツ。
 翻る白衣。
 置き去りにした赤いチェックの降りたたみ傘。
 その日に残る色の記憶が、美緒の心を引っ掻きながら、不気味に形を作り上げていくのだ。確信はないのに、なぜか無性に嫌な予感がした。
「結局佐伯先生がずーっと付き添ってたらしいけどね。ねえねえ、あの二人ってやっぱりデキてんのかな?」
「もう、えみってばまたそんなことばっかり……」
「だって仲いいじゃん? 佐伯先生に結城先生はちょーっと勿体無い気もするけど、でも佐伯先生本当にいい人だし、お似合いだと思うんだけどなあ」
 胸の底に沈みそうな鉛のような重い感覚は、親友のそんな言葉でかろうじて救われていた。頭の中で必死に薫を掻き消し、麻里と祐介を結びつける。そうでもしなければ、すぐにでも心がバラバラになってしまいそうだった。
「じゃ、帰ろっか」
「うん」
 教室に戻り、身支度を整えて教室を後にした。
 廊下を照らす夕日は、もう空全体をオレンジに染め、この校舎をも取り込んでいる。隣を歩くえみの頬も鮮やかなオレンジだ。放課後デートしようと言うえみと連れ立ち、三階の階段からゆっくりと降りていく。
 すると、途中えみが視線の先に何かを見つけた。
「あ……れ? 結城先生じゃん」
 その名に、美緒が反射的にえみの視線を追いかける。ちょうど美緒が三階と二階の間にある踊り場に着いた時、その階下に壁に手をつき立ちすくんだままの麻里の姿があった。夕日の陰になるその暗い場所は、彼女を余計に頼りなく見せる。ついさっき別れた時より、更に悪くなったように思う顔色に、美緒の心配が募った。やはり、あの時傍を離れるべきではなかったのかもしれないと、一瞬自分を責めた。
「結城先生……」
「あ、美緒! ちょっと、どこ行く……」
 心で考えるより、体の方が反応して、すぐさま彼女の元へ行こうと美緒の足が動いた。支えてあげなくては、と思ったのだ。弱い弱い彼女を、たとえ恋敵だからと言って見捨てるなんてことは、美緒にはできない。
 だが、次の瞬間、美緒の足が引きとめられる。
 麻里の背後から現れた、翻る白衣の主の存在によって。
「先生……!」
 これを運命と言わずして、何と言うのだろう。
 ただの偶然と呼ぶには、あまりに現実離れした光景に、美緒は何も言えず立ち竦んでしまう。
 薫は、階上の踊り場にいる美緒には全く気付くはずもなく、それよりも先に麻里の背に視線を奪われた。壁に手をつき、今にも倒れてしまいそうな彼女の姿に。別に薫でなくとも、それが自然の成り行きなのかもしれない。事実、美緒でさえ彼女の元へと駆けつけようとしたのだから。だが、視界に容赦なく入る二人の存在を、美緒は忌むべきものを見るような目で凝視した。
 ――ガサッ。
 美緒の足が、おのずと引く。
 麻里は、薫が通りかかったことに、全く気付いていない様子だった。それどころか、フラフラとした足取りのまま、階段を下りようと一歩を踏み出したのだ。おぼつかないハイヒールの足元。壁に片手をついたまま、ゆっくりと降りるその細い足は、今にも折れてしまいそうなほど頼りなく、その後、一瞬にして彼女は地のない空気の中へと誘われた――。
 その瞬間を、口元を抑えハッと息を呑む美緒も見逃すことはなかった。絶望を感じ、それ以上を見届ける勇気がなくて、目をギュッと瞑る。
 だが、閉じようとした瞬間、美緒の視界の片隅に、ヒラリと白衣が舞うのが見えた。


 気付いた時には、既に体の自由は奪われている。
「あっ……!」
 急に襲われた眩暈によって視界がぐらつき、麻里の足元が泳いだ。地を踏むはずの足の裏には浮遊感しかなく、体が傾くことによって、壁についたはずの手も知らず離れる。麻里は、そこで自分がやっと階段から落ちそうになっていることを認識すると、咄嗟に自分の腹を抱え込んだ。何を考えたわけでもなく、本能的に庇ったのだ。庇った対象が、何であるかもわかる間もないのに。
 するとその時、麻里の体が何かに強く包まれた。
「麻里――!!」
 廊下中に響き渡った凛とした声。瞬間空気が氷を張り詰めたかのように緊張した。
 その後はもう一瞬のことで、美緒にも麻里にも、何が起こったのかはわからない。ただ、肉が地にぶつかる鈍い音が響いた後、小さく呻く男の声に、全てが理解できた。
「か、かおる……?」
 麻里は、自分が受けるはずだった衝撃を感じない不思議に、その背にあった体に視線を向けると、震える声でその人の名を呼んだ。
 強く抱き締められている体。長身の彼の体の中に、麻里の華奢な体はスッポリと収まったままだった。
「な……んで……」
 そう――。
 麻里が階段から落ちそうになった瞬間、薫が麻里の体を抱き止め、庇いながら階段から転げ落ちたのだ。麻里を抱きこみ、自分の背を地に向け、階下まで止まることなく転げ落ちた。その衝撃は計り知れず、薫は麻里を抱き締めたまま動けずにいた。
「バカ……。あれほど自分の体は大事にしろって……言っただろ」
 絞るように、告げる声。よほど痛かったのだろう。苦痛に顔を歪め、必死に起きあがろうとするも、なかなか体は言うことを聞かない。途切れ途切れに息をしながら、小さく呻いて痛みに耐える。そんな薫を、麻里が支えながら起こすと、彼は苦笑いしながら彼女から体を離した。
「なんでハイヒールなんか履いてんだよ。バカか、おまえは……」
「か、薫……」
「今のおまえにそんなオシャレは必要ないだろ。……ったく、俺の方が自覚してるってどういうことだよ」
「薫……」
「でも良かった。おまえが無事で……。大丈夫か? 腹は」
 麻里の手の上に重ねられた手。薫は確かに、彼女の子宮の真上に手をかざしていた。その瞬間、麻里は、自分が無意識に腹を庇い抱き締めていたことに気付いた。
 両手でしっかりと腹を抑え、まるで必死に守るように覆っていたのだ。階段から落ちることは、認識していたはずなのに。咄嗟に、自分の体よりも、腹の子を庇っていた。
「あ……わた、し……」
 込み上げる深い熱情。その時初めて、自分が母親であることを悟った。この子だけは守らなくてはいけないと、本能が知っていた。
 ――愚かだ。
 こんな窮地に追い込まれて初めて、母であることの慈悲深さを認識するだなんて。一度は殺そうとした我が子が、必死で腹の中でしがみついていてくれたことに、こんなにも安心するだなんて。でもそんな感情を知った瞬間、麻里の心中に、とてつもない愛おしさが生まれたのだ。
「私……あ、赤ちゃん守ったの……?」
 腹の中に確かに息づく命を感じ、自然と溢れ出る涙。麻里は、自分の腹を押さえながら、薫へと視線を向けた。そこには、何もかもを許してくれるような優しい微笑があって、ポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
「良かったなあ、おまえ。こんなに優しい母さんに守られて」
 薫は、麻里の腹に向いて、麻里にしか聞こえないほどの小さな声で、そう呟いた。その言葉に、今までの何もかもを許された気がして、麻里の涙は止まることができなくなる。
 また……。また、薫に救われた。
「ゴメンナサイ……。ごめんなさい、薫をこんな目に合わせて……わたし……」
「謝るなよ」
「薫のことより……私、この子を庇って……」
「いいんだよ。母親として当然のことを、おまえはしただけなんだから」
「あ……ゴメン、ごめんなさ……」
 それ以上は言葉にならず、溢れ出る涙を抑えることもできず、麻里は泣き崩れた。
 自分への不甲斐なさ。薫へのありがたさ。自分の子への、愛おしさ。
 全てが溢れすぎて、言葉になんて表せなかった。感情が、理屈も言葉も凌駕する。麻里は、涙を必死でせき止めようと、薫の胸に縋りつき、泣きつづけた。

 今まで何度も何度も麻里が口にし続けた、『ごめんなさい』という言葉。そこにはいつも、彼女がずっと胸に抱えていた罪悪感が潜んでいたのだろう。我が子さえ、愛しく思えなかった、そんな人としての未熟さを悔いていたのかもしれない。謝ることでしか、自分を戒める方法を、知らなかったのかもしれない。
 でも、今の麻里は、ただただ、胸の中でこう呟いていた。
 ――こんな私を守ってくれたことを、心からありがとう。
 そう何度も胸の中で呟きながら、薫にしがみつき、泣くだけが精一杯だった。

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