華水の月

52.親友と恋人の境界線

「大丈夫?」
 心配そうな二つの大きな瞳が、彼をじっと見据えたまま離れない。泣き腫らした目は、彼女の魅力的な目を余計に強調していた。
「大丈夫って言ったらさすがにそれは嘘になるかな。でも、別に骨折してるわけじゃないし、打撲だから心配ないよ」
「そう……ゴメンね」
「謝るの禁止。これで五回目だけど?」
 保健室にある、薫専用の大きなどっしりとした皮製の椅子に腰を下ろす。体中を覆いつくす痛みに、思わず深い溜息が出た。その脇に麻里が立ったまま、彼を心配そうに見下ろしていた。
 階段から落ちた後、体の痛む薫に付き添って、ここまでやってきたのだ。まさか、そんな二人の一部始終を美緒が見ていたなんて、知らないまま。
「謝る以外に言葉を見つけられないの。……バカだから、私」
「じゃあ、ありがとうって言ってよ。そしたら俺も痛い思いをした甲斐があるってもんだから」
「……ありがとう、薫」
「どういたしまして」
「でもやっぱり、真中さんには、ごめんなさいとしか言えないわ」
 伏目がちの麻里の目からは、後悔が見えた。美緒の優しさに触れたことで、その後悔は、更に輪をかけて膨らんだのだ。彼女を傷つけてでも薫が欲しいと願ったはずなのに。なぜか今は、そんな風には思えない。
 麻里は、自分の腹に手を当て、直に伝わる温もりに神経を傾けた。変わり始めたのは、この子を授かってからだ、きっと。
「なあ、結城先生」
「何?」
「一つ、君にどうしても許して欲しいことがあるんだ」
 薫の胸に小さく火を灯し始めた不安。麻里を助けて階段から落ちた後、その騒ぎを嗅ぎ付けて、生徒たちがドッと押し寄せてきた。二人をグルッと取り囲み、それぞれに声をかけてきたり、ただ傍観している者も含め、かなりの数の生徒に目撃されていた。中には、彼らが落ちる瞬間を見ていた者もいるだろう。だが、ほとんどが、麻里が泣き崩れ、薫に縋っているそのシーンしか見ていないはずだ。何故そうなったのか、言葉伝いで知ることはあるにしろ、やはり見たままの印象が強いことは否めない。
 きっと明日には、学園中がこの話題で持ちきりになる。櫻井薫と結城麻里が、階段で抱き合っていたと。それはいずれ、もっと他の要素も含み膨らんでいくだろう。最悪の場合、以前の噂が災いして、二人が復縁したとも言われかねない。薫が麻里を泣かせたのだと、言われることもあるのかもしれない。その前に、どうしても薫は、しておきたいことがあるのだ。
「許して欲しいことって、何?」
「美緒に、全てを話しても構わない?」
「全てって……」
「今日あったことも、君が妊娠していることも、その子の父親のことも、何もかも全てだ」
 いずれそんな噂は、美緒の耳にも入ることだろう。麻里が子供を産むかどうか以前に、彼女の妊娠に美緒が感付くこともあるかもしれない。そうなった時、きっと美緒は不安を胸の中に閉じ込め、何も言えずに一人泣いてしまうのではないか、と、薫はそう思ったのだ。
 強いけれど、儚く脆い子だ。どれだけ薫が素直に自分に甘えて欲しいと願っても、控えめな美緒の性格が、それを許さない。きっと、一人で耐えてしまうのだ。薫には何も言わず、涙を押し殺して。薫が麻里のところへ行くのではないかというバカな邪推を、胸に抱いて。
 薫は、それだけがどうしても許せなかった。美緒にだけは、心配も耐えることもさせたくない。全てを、薫自身で包み込んでやりたかった。
「妊娠というものが、君にとってどれだけ重いものなのかは承知の上だよ。それを誰かに話されるなんて、もっての他だと思うかもしれない。部外者の俺が話すには、重すぎることだとは思うんだ。でも、美緒にだけは全部伝えておきたいんだよ」
「真中さんに、疑われたくないから?」
「違う。疑うような感情を、美緒に抱かせたくないから。無意味な疑いを、美緒には感じさせたくない」
 優しいから、傷つき易い心。美緒には、マイナスな感情は抱かせてやりたくない。そのためなら、いくらでも彼女の前を行き、不安を取り除いてやれるだろう。薫が全てを美緒に話したい、とそう言い出した根本的理由は、結局自分の保身よりも美緒の気持ちを守ることだった。
「もしも、その申し出を嫌だって言ったら?」
「その時は俺にも考えがある。……大阪で君が勝手に俺の電話に出たこと、今まで咎めずにいたけど、どうしようか」
 企むような薫の皮肉な笑顔に、麻里も観念する。少し困らせてやろうかと思ったが、この男の方が何枚も上手だということを忘れていた。一筋縄ではいかない。本当に厄介な男なのだ、櫻井薫という人間は。
「分かったわ。でも……大丈夫? 私のことを知ったら、真中さんショックを受けるわよ、きっと」
「ああ。そうだろうな」
「人より何倍も優しい分、耐えられなくなるかもしれないわよ?」
 麻里でさえ逃げたいと思った真実。腹の子を、罪の証でしかないと思ったほどだ。罪だと思うほど、愚かな運命を招いたのは麻里自身。それを、美緒は受け入れられるかどうか……。
「何のために、俺がいると思ってるんだ?」
「え?」
「大丈夫だよ、美緒の傍には俺がいるんだから。たとえ美緒が耐えられなくても、俺が守るから」
 優しい美緒は、麻里のことを想い、気持ちを重ねることで、大きく傷つくことになるかもしれない。
 でも、そのためにいつだって抱き締めていよう。それが偽りのない薫の真実なのだ。美緒を離さない、それだけが……。
「やっぱり羨ましいな。そんな風に大事に愛される真中さんが……。いいよ、話しても」
「ごめん。おまえの気持ちを無視して」
「いいのよ。それに、私もその方がいいと思うから。あの子が何も知らないのは、フェアじゃないものね」
「フェア?」
「ううん。なんでもない」
 フェアじゃない。そう言った麻里の言葉を、一瞬疑い薫が眉を顰めた。
 そしてそんな薫の表情に、麻里も咄嗟に悟る。そうだった、薫は空港でのキスシーンを美緒に見られていることを知らないのだ、と。もしも麻里が妊娠していることを美緒が既に悟っているなら、薫がその父親であると疑われているかもしれない。頭のいい美緒は、それくらいすぐに考えるだろう。
 けれど、薫はそれさえも知る術がないのだ。それでも、全てを告げておきたいとそう言える薫は、やはり強いと麻里は思った。その反面、こんなにも優しく強い彼だけが何も知らないのは……と、少しばかり胸が痛んだ。
「私が薫を縛る資格なんて何もないんだもの。貴方は、真中さんの元へ帰らないと……」
「俺は最初から美緒のそばにしかいる気はないけど?」
「そうね、そうだった」
 結局薫は、最初から最後まで美緒のもの。改めて思い知らされて、麻里は苦笑するしかなかった。
「でも、いつもの薫だったら、全て話しておきたいだなんてこと、言わないのにね」
「ん?」
「貴方は余計なことは一切話さない人だから……。噂だっていつも放っておくでしょ? でもやっぱり、真中さんにだけは違うんだなって、そう思ったの」
「そうかもな」
 麻里に了解を得ようとしてまで、美緒を守るその背を、本当に羨ましく思う。美緒は気付いているのだろうか。いつだって、こんなにも広い背に、全てを守られていることを。
「俺は……、どんな時でも美緒を選べる男でいたいんだよ」
「え?」
「何が正しいとか、何が最善なのかとか、そんなことは関係なく、美緒を一番に選んで守ってやれる男でいたいんだ。たとえ、そのせいで何かを傷つけることになっても、美緒が間違っていたとしても、俺だけは、美緒を一番に選んでやりたい。俺だけは美緒を疑わず、信じてやりたい。それくらいしか、俺ができることはないから」
 そして、薫自身も気付いていないのかもしれない。そんな優しい愛情が、どれだけ深く果てしないものなのかを。当たり前のように口にする台詞の中に、それが本来、どれだけ難しい愛の形を意味するのかということを。
「それだけで、充分よ」
 昔愛されていた麻里だからわかる。
 こんなにも上手に女を愛せる男は、滅多にいるものではないのだ、と。
「むしろそれ以上の愛し方なんてないわ。貴方は、それがどれだけ凄いことなのかを気付いてないようだけどね」
「こんなんじゃ、愛し足りてないよ、全然」
「そう? ……妬けるわね、本当に」
 麻里が薫の肩の上に、優しく手を乗せた。自然と絡み合う視線。二人は、穏やかに笑って、それぞれの気持ちを共有した。
「そういう君も、包まれてる愛情に、早く気付いた方がいいよ」
「なあに? それ」
「ある意味、俺なんかよりもずっと優しい人だよ、彼は」
 薫が、困ったように小さく微笑む。
 誰のことか、麻里にはさっぱりわかっていない様子だった。むしろ、そんなことはさほど気にもしていない様子で、薫の言葉自身、軽く流そうとしていたのだ。そんな愛情、あるわけないのに、と心の中で小さく呟きながら。
 すると、そんな二人の背後で、バタバタという大きな足音が響いた後、勢いよく扉が開かれた。
「す、すいません! あの……!!」
 現れたのは、佐伯祐介だった。
 荒く息をしながら、形相を変えて保健室へと駆け込んできたのだ。そんないつもと違う祐介の様子に、麻里の方が凝視してしまう。
「ゆ、祐介! どうしたのよ、突然……」
「麻里! おまえ大丈夫なのか?! 階段から落ちたって生徒から聞いて、すっ飛んで来たんだよ」
「だ、大丈夫よ。どこもなんともないわよ」
「本当に?! 痛いとこは?!」
「ないってば。見たらわかるでしょ? 元気そのものじゃない」
 祐介が、麻里の方へと寄り添って、全身をポンポンと手で確認しながら本当に心配そうに彼女を見ていた。麻里も麻里で、いつもとは違う全く余裕のない祐介に驚きを隠せず、少し興奮気味になってしまう。そんな二人を、傍らで薫が優しく見守っていた。
「頭は? 腕は? 足は? 胸は?」
「バカッ!」
 体中のどこもかしこも、痛くないのか確かめるように動く祐介の手が、麻里の胸に触れた瞬間、彼女が怒って祐介の手を叩き落とした。そんな彼女の様子に、いささか祐介も安心したのだろう。彼女の肩に両腕を巻きつけ、体を預け、大きく溜息をついた。
「はあ……良かったあ……。本当に心配した」
「バカね。なんで祐介がそんなに心配するのよ」
「だって俺、麻里の見守り役だもん」
「なにそれ」
「俺が見てないと、おまえは無理してすぐ倒れちゃうからさ」
 たとえ友人という立場であっても、見守ることくらいは出来るだろう。別に、彼女の一番になりたいと望んでいるわけではないのだ。元々、そんな目で彼女を見ていたわけではないのだから。
 ただ、友人の一人として麻里を見守っていたいと思っていた気持ちは、いつの間にか、ただ一人の男として麻里一人を愛したいと思う気持ちに変わっていた。それだけのこと。祐介にとっては、本当に些細なことだった。それくらい、自然と麻里を愛していたということだから。
「じゃあおまえ、階段から落ちたって言うアレは、嘘だったわけ?」
「ううん、落ちたのは本当よ。ただ、その時櫻井先生が庇ってくれたから、私は少しも痛い思いをせずに済んだのよ」
「え……そうなの?」
 その時初めて、ここは保健室であること、そして隣には優しく見守っている薫の存在があることに祐介は気付いた。アッ、と小さく声を漏らし、薫に正面で向きあうと、すぐさま深く頭を下げた。その様子に、麻里は再び驚いた。
「ありがとうございます、櫻井先生。麻里を守ってくれて」
「ちょ、ちょっと祐介。なんであなたが頭を下げるのよ」
「下げたいんだよ。俺がお礼を言いたいだけなんだから、おまえは黙ってろ」
 強い口調に、麻里が押し黙る。
 薫は、そんな潔い祐介の態度を受け止めると、優しく微笑んだ。
「櫻井先生、本当にありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
 あえて、どういたしましてと言葉を返した。返す言葉の選択肢は色々あったけれど、今の祐介の気持ちには、この台詞が一番相応しいと思ったのだ。
 麻里のことを本気で大事に思う正義感の強い祐介。彼に麻里の幸せを託しているからこそ、出てきた素直な台詞だった。


「本当に変な人」
 広い背中におぶられ、心地よく揺られる体。麻里は祐介の背にぴったりと身を寄せ、彼の首に腕を巻きつけそう言った。
「櫻井先生、絶対不審に思ってるわよ? あなたが急に頭を下げたりするから」
「あの人はちゃんと分かってるよ。俺の気持ちも全部わかってくれてるから、ああやって優しく笑ってくれたんだ」
「そう?」
「麻里にはわからない、男同士の何とかってやつだな」
「なにそれ。本当に祐介って変な人ね」
 普通に歩けるから大丈夫だと言った麻里の言葉を無視し、祐介は保健室を出てからずっと麻里をおぶって歩いていた。あんなに形相を変えて駆けつけてきたというのに、保健室を出るころには、『今日何か食いに行こうか』と、平然とした表情で話していた。日常会話、そのままに。
 本当に何を考えているのか、よくわからない。というよりは、何も考えてないように見えるのだ。それでも、この人の心には、どれだけ深い優しさが詰まっているのかということを、麻里は知っていた。
「俺、今すっごくラーメン食いたいんだけど」
「ええ……私ラーメンやだ」
「この際、醤油、味噌、豚骨、塩、なんでもいいからさ。ラーメンにしよ?」
「ラーメンなんか食べたくない」
「なんだよ、じゃあおまえは餃子と炒飯でも食えばいいじゃん」
「嫌よ。なんで私が祐介に合わせて食べなくちゃいけないのよ」
「出ましたよ、麻里様のワガママ」
 ハハハ、と祐介が豪快に笑う。彼が笑ってくれるから、麻里はきっと自然体でいられるのかもしれない。
「じゃあ麻里は何を食べたいわけ?」
「そうねえ、パスタがいい」
「パスタ?! そんなんラーメンも一緒じゃん。ラーメンにしようよ、ラーメンに」
「ヤダ」
「即答かよ。……仕方ないなあ、じゃあパスタでいいですよ」
「当然よ。もちろん祐介の奢りね」
「ったく麻里様には敵いません」
 わざとらしく降参して見せると、麻里が祐介の両頬を指で摘んでグィッと引っ張ってみせた。麻里をおぶっている祐介は両手が空いていないわけで。否応無しにも、言葉だけの抵抗になる。そんな無抵抗な彼の姿が、麻里はとてもおかしくてたまらなかった。
「ねえ、祐介」
「ん?」
「私ね……」
 その温かい背に全てを預ける。
 ずっと言うつもりはなかったのに、祐介に触れていると、自然と何かが解け出していた。
「私ね……妊娠してるの……」
 祐介は、麻里の静かな声を聞いても、足取りを止めず、ただ黙ってその言葉を受け止めた。そして、麻里には見えないところで小さく微笑むと、そっと告げた。
「おまえの子どもだったら、洒落にならないくらい可愛いだろうな」
「え……?」
「見た目ももちろん可愛いに決まってるけど、存在自体愛くるしくて堪らないよ、絶対」
 まさか、祐介の口からそんな言葉が聞けるとは思ってもいなかった。当然の如く驚き、そして誰の子かと問われると思っていた。けれど祐介は麻里だけではなく、腹の子までもを受け入れてくれたのだ。何も聞かず、それが当たり前だとでも言うように。
 母親である彼女さえ、産むかどうかの決断をまだ付けられずにいるのに……。
「聞かないのね、誰が父親かって……」
「聞かなくていいことも、あるかなあって思って」
「普通は気になるものよ?」
「そう? 別に俺はどうでもいいけどね。麻里の子には変わりないんだから」
 麻里は、彼の後頭部に頬を摺り寄せ小さく息を吐き、祐介に対する愛おしさに胸が押しつぶされそうになった。
「麻里の赤ちゃんが生まれたら、きっと俺、溺愛しちゃいそうです」
「……変な人」
「もしもその子に会えるなら、一番に俺にダッコさせろよな」
 涙声で、いつものように『変な人』と呟く麻里の声を聞きながら、小さく笑った。
 『もしも』と言った最後の祐介の言葉には、まだ産むかを決められない麻里の揺れる気持ちをも、察してくれていることが分かった。

 腹の中に誰の子がいようと。麻里に、誰か他に好きな人がいようと。そんなことは、考えるに値しない。
 最初から、見守ると決めている。もしも君が手を差し伸べれば、いつだってその手を取ると決めて。
 父親、というその人が麻里の近くにいないのだから、自分以外の誰が彼女のそばにいるというのだろう。
 祐介の愛の形は、麻里がその中にいることを知れないくらい、深く、そして広い空のようだった。

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