華水の月
57.蒼い月
衣擦れの音ともに、夜の帳が美緒を包み込む。
シティーホテルの高層にあるその部屋には大きな窓があり、目覚めてから美緒はすぐに夜の世界へと吸い込まれた。キラキラと光る街の光は、まだ夜が浅いことを表している。
窓から差し込むのは、悲しいほどに美しい月光だ。光を追いかけるように、美緒は空を仰ぐ。そして、見上げた月。それは、今まで見たことがないほど蒼く、白い輝きを放つ月だった。空に近いこの場所からは、手が届きそうなほど近く、そして遠い。
「綺麗……」
思わず漏れた声は、少しばかり掠れていた。泣き疲れて、喉には微かな痛みが残っている。
どれだけ心が闇で閉ざされていても、自然は残酷なほど美しい。闇の中にずっといられたら、と願う美緒を許さず、彼女の姿を照らすように一筋の光が差していた。目が覚めたのは、きっとこの光のせいだろう。普段なら目も向けないだろうに、こんな時ばかり自然の美しさに心捕らわれ、泣きたくなってしまう。
望んだのは、こんな風に一人で見る景色ではない。願っていたのは、今隣にいる彼ではない。いつだって、薫さえいればそれだけでよかった。そのはずだったのに、こんな風に狂ってしまったのはいつからだろう。もしかしたら、自分自身が狂わせてしまったのだろうか。
体を包み込む、と言うよりは、離れないように二人を繋いでいた腕をゆっくりと剥がし、体を起こした。スルリと、ベッドから細い足を下ろす。枕元に手をついて、降りようとした時のことだった。
「あっ……」
無意識だろうか。離したはずの腕が、また美緒の体へと絡まる。手首を掴み、再びベッドの中へと引きずりこまれた。男の力には敵うはずもなく、美緒は胸の中へ捕らわれてしまった。
彼が髪に指を絡め、優しく慈しむように額にキスをする。もしかして、起きているのだろうか。少しばかり驚いて、その腕の張本人に視線を向けるも、彼はスヤスヤと寝息を立てたままだった。
こんな風に誰かの体温を近くに感じたのは、薫以外では初めてのことだった。耳に響く静かな鼓動を聞いたのも、覚えてしまいそうなほど誰かの匂いに包まれることも。泉の体温は薫と同じくらい温かくて、抱きしめられていると、それが薫ではないかという錯覚を起こさせた。話し疲れたのだろうか、それとも精神的に参っていたのだろうか。美緒が泣き疲れて眠りについてから、泉もすぐに後を追ったようだ。
少しばかり胸に手をついて、その穏やかな寝顔を覗き込む。閉じた瞳や鼻の形、そして薄い唇は、やはり兄弟だけあって薫に似ていた。シャープな顎のラインなんて、見分けがつかないくらいそっくりだ。少しばかり長めの髪が覆う綺麗なうなじも、薫を彷彿とさせる。首筋にそっと手のひらを触れると、抱きしめる腕や胸よりも体温が熱く、ドクドクと脈打つのが伝わってきた。
その温もりに、ふと思い出す。薫に抱きしめられる度、その首筋によく顔を埋めていたことを。
頬に触れる首筋の体温が熱くて、ひどく安心した。ホッと溜息が出ては、優しい薫の香りを深く吸い込んだ。普通に抱きしめられていたなら、背の高い薫の首筋など美緒には届かないはずなのに、薫はいつだって体全部で美緒を抱きすくめた。背を抱き、髪を弄び、長身の体を屈めては美緒を抱き締めてくれた。
――攫われる。
そう、攫われるような錯覚を起こす抱擁を、薫は美緒にくれたのだ。身動きができない、逃げることなど叶わない、そんな抱擁にいつも心ごと奪われた。
「……ごめんね」
何に対しての謝罪かもわからない。ただ、泉の寝顔を見ていると自然と言葉が零れ落ちた。こうして今美緒を抱き締めている泉への謝罪なのか、それとも……。
つい数時間前、美緒は泉からの告白を受けた。
予想もしていなかった泉の気持ちに、美緒は何と答えていいか分からなかった。
ずっと、兄のように慕ってきた人だ。いつの間にか、美緒にとって泉は一番近く尊い存在になっていた。不安も恐れも、何もかもを素直に打ち明けられる人。信頼し、慕っている人。泉以上に、自分の全てをぶつけられる人間なんて、美緒にはいない。
近すぎて、見えなかったのかもしれない。恋だとか愛だとか、そんなものを超越する存在だったのだ。男として、なんてものではなく、人として、美緒は泉が大事だった。
愛している、と囁かれ、唇を奪われた時、泉の唇は微かに震えていた。美緒を見る瞳は真剣そのものなのに、触れる唇は何かを躊躇っていた。
それはきっと、美緒が拒否しないように、との彼の配慮だったのかもしれない。それとも、薫との関係を危惧してのことだったのだろうか。
泉と触れ合ったその唇に、美緒はそっと指を当てる。指先に、しっとりとした感触が残った。
――嫌じゃなかった。
戸惑ってはいたけれど、むしろあのキスは泉の真剣な愛情をそのまま伝えてくれたように思う。薫と触れ合った時のような胸の高鳴りはないけれど、深く安心を得た。愛されている、ということに、溺れそうになった。そのキスを拒否する術を、忘れてしまっていた。
「返事は、いらないから」
触れ合う唇をゆっくりと離して、泉は美緒の体を優しく抱き締めた。
いつの間にこの人は、こんなにも優しい抱擁をするようになったのだろう。美緒が一番心地良いと感じる力加減を、泉は知っているようだった。
「ごめんな。急にこんなこと言われて、すごく困ってるよな。本当は一生言う気なんてなかったんだ。いつかおまえが言ったように、好きになった人をずっと好きだと思っていられるだけで良かったんだ」
美緒の長い髪を、泉の細長い指が絡めては弄ぶ。愛しげに髪を梳くその感触に、美緒は泉の優しさを感じた気がして、何も言えなかった。
「でも、それはおまえが幸せであればこそだった。おまえが幸せなら、俺は一生何も言わずに、おまえを見守るつもりだったよ。おまえと薫が幸せなら、それが一番いいって思ってた。……でも、こんな風に壊れていくおまえを見て、何もせずになんて、俺には無理なんだ。おまえを守らずになんていられない。……誰よりも、愛してるから」
――愛しているよ。出会った頃は、こんなにも君を愛してしまうだなんて思ってもいなかった。でも、日に日に恋に堕ちていく自分に逆らうことなんてできなくて……。今なら胸を張って言える。君を愛して、本当に良かったと。
そんな泉の心の声が、美緒にも聞こえていた。それくらい、この空気は泉の愛で満たされていたのかもしれない。
「薫のことが好きなままでいい。俺を一番に愛してくれなくてもいい。ただ、これからはずっとおまえのそばにいさせて欲しい。おまえの一番近い場所で、いつもおまえが笑ってくれるなら、それでいいんだ」
今にも泣きそうな瞳をして、泉はじっと美緒を見つめていた。
何故、気付かなかったのだろう。今までだって、こうして泉は美緒を見守ってきてくれたはずなのに、それがこんなにも深い愛情によるものだということを、何故気付けずにいたのだろう。いつも、薫との恋を応援してくれていた。美緒が臆病になったりしないように、背を押してくれた。自分に自信が持てるように勇気付けてくれた。
一体、どんな気持ちで――。
美緒は、泉の言葉を受けながら、ハラハラと涙を零すことしかできなかった。泉の優しさが大きすぎて、気持ちが深すぎて、それを否定する言葉も、肯定する理由も、何も見つけられなかった。
「……泣かないでよ、美緒」
「……っ」
「おまえが泣くと、俺まで泣きたくなるんだから」
それは、美緒の痛みを、泉も分かち合っているという証。いつも一番に美緒の気持ちを考えてくれている証。自分のためには泣いたりしないくせに、泉は美緒のためにこんなにも胸を痛めている。泉にとって美緒は、代替などないほどに、大切な存在なのだ。
泣きたくなるのだと、以前も同じことを言われたけれど、今回の泉の言葉は、前回よりもより深く美緒の心の底に沈み込んだ。こんなにも愛してくれる人を、突き放すことなんて出来ない。この愛情を失って歩いていける自信など、どこにもない。いつだってそばに居てくれたのだ。泉がずっと美緒のそばにいてくれたからこそ、何度も何度も救われ、頑張れた。それは、揺るがない事実であり、美緒にとってはもう失えないほど、大事なものだった。
「俺は、薫みたいにおまえを裏切ったりしない」
「え……」
「もう、薫のことで苦しまなくていいから」
飽和する深い愛情とは真逆の、突き刺さるほど冷たい現実。ふと告げられた泉の言葉に、つらい現実を突き付けられる。
薫は美緒を裏切った。
それは、揺るがない真実なのだろう。弟の泉が言うのだ。今まで薫を悪く言ったことのない泉が口にした言葉のそのままを美緒は受け止めた。胸が、張り裂けそうだった。
「俺がいる。俺が一生おまえのそばにいる。だから、お願いだから、俺から離れて行かないで」
その時の泉は、泣いていたのかもしれない。愛しげに美緒を抱きしめる腕は、微かに震えていた。
ああ、どうしてだろう。泉の気持ちが、美緒には痛いほど分かるのだ。愛する人が離れていくかもしれない不安を胸に、愛する人を抱きしめる腕ほど、頼りなく寂しいものはない。自信なんてない。ただ、愛されたいと願う、そんな気持ちだけで支えているのだ。
泉の姿に、美緒は自分を見ていた。恋焦がれるほど薫を愛した自分を、泉へと重ね合わせた。
「どうして……」
どうして泉くんは、こんな私を愛してくれるの?
そう聞きたかったけれど、言葉にならなかった。でも泉はその言葉を拾うように、ただ一言涙声で言ってくれた。
「バカ……。そんなの、おまえだからに決まってんだろ」
ダメな君でも、弱い君でも、構わない。
君が好きなんだ。理由なんてない。
そう言ってくれるのは、泉だけではなく、薫も同じだということも気付かずに。けれど、ありったけの愛情で自分を包んでくれる泉が、愛おしかった。
「ごめんね……」
美緒に抱きついて離れない泉の腕を少しだけ緩め、枕元の方へと体をずらす。そして、寝息を立てるその穏やかな寝顔を、胸の中にギュッと抱きしめた。柔らかい胸に顔を埋める泉は、安心したように優しい寝息を立てている。その静かな呼吸が、美緒の心を落ち着かせた。
愛おしい。泉のことは、心から愛おしく思う。本当に大好きなのだ。声を大にして、叫んでしまえるほど。
でもそれは、恋ではない。
恋だと錯覚できないほど、美緒の泉への気持ちは曖昧ではなく、確かだった。愛しているけれど、それは恋情ではなく、本当の愛情なのだ。最恋の人ではない。泉のためなら何だってできるだろう。泉が美緒を守ってくれたように、泉を守るためならば美緒だって何でもできる。それくらい大事な人だ。彼のためなら、ずっとそばにさえ居てあげたい。
でも、薫への思いは、それを簡単に上回っている。思うだけで胸が熱くなり、愛しさを感じれば涙が零れてくる。傷つけられても、それでも愛したいと願う。猜疑心が溢れ、どれだけ憎しみが美緒の心を満たそうと、その全てを許せてしまうほど、美緒にとって薫は絶対的な人だ。薫ほど、恋焦がれる人なんて、いないということに気付いた。
「ねえ、泉くん」
優しく髪を撫でる。柔らかい髪が、指に絡まる。泉が聞いていないと分かっていて問いかけるその声は、子守唄のように穏やかだった。
「私ね、分かっちゃったんだあ……」
囁きながら、蒼い月を見上げた。絶え間なく美緒を見守るその月に、薫の姿を思い浮かべた。
泉とこうして温もりを分かち合って気付いてしまったのだ。薫が美緒に伝えようとしていた、真実を。
「今になって分かるなんて、本当に私、バカだよ……」
蒼い月光に照らされる彼女の瞳に浮き上がる一粒の涙。歯を食い縛って泣くまいと意地になるものの、その涙は呆気なく零れ落ち、泉の頬を濡らした。
何故、あの時逃げ出してしまったのだろう。
何故、最後まで薫の言葉を聞くことができなかったのだろう。
何一つとして真実を知らされぬままの薫が、美緒へ全てを話そうとした。それだけでも、本当は感謝しなければいけなかったのだ。もしも美緒の疑っていた全てが真実だったのなら、薫があんな風に美緒に触れ、愛を囁くことなんてできはしなかったのだから。薫が過ちを犯していたなら、美緒を真っ直ぐに見られるはずがないということに、気付かなかった。その証拠に、逃げてしまった今の美緒は、きっと薫の目をまともに見られない。
誰よりも優しい人だと知っていたはずなのに。誰よりも、強い人だと知っていたはずなのに。強いことは、現実からいかに目を背けられるかじゃない。現実を、誤魔化せるかじゃない。現実を、いかに受け止められるかだ。
自分が同じ立場になって初めて気付いた。
「……ごめんなさい、先生」
愚かだった、と気付くのは、いつも時が過ぎてから。
その度に薫を傷つけて、薫の優しさに甘えていた。自分は何も伝えることが出来なかったくせに、いつも伝えられる愛情を欲した。愛してくれ、とまるで乞うように、薫を求めていた。疑うばかりで、何も信じようとはしていなかった。
それでも、心の半分では、未だに薫を疑っている自分がいるのも事実だ。泉の言葉が、疑う心に拍車をかける。見たもの全てが、信じようと思う自分にストップをかける。五十パーセントの信頼と、五十パーセントの疑いの狭間で美緒は揺れていた。
半分にかけるなら、疑う方にかけた方が楽だ。楽な方ではなく、つらい方を選びたいのに、恐怖心がそれを許さない。もしも、本当に薫が美緒を裏切っていたとしたら、美緒はその現実を受け止められる自信がない。麻里の妊娠を受け入れるなんて、絶対にできない。そう、自信がないから、やっぱり聞くことなんてできない。
「……ごめんね、泉くん」
そっと、泉の額にキスをする。傷つけたのは、泉も同じかもしれない。自分の弱さ故に、泉の気持ちをも踏み躙っていたのかもしれない。いつもいつも、美緒が薫と幸せであるようにと願ってくれていた。自分の気持ちを押し殺して、好きな人の幸せを願うのには、どれだけの強さがいるだろう。気持ちを伝えられずにずっと見守ってくれていた泉を思うと、胸が張り裂けそうになった。
「こんなに優しい泉くんを、私が縛るなんてできないよ……。大好きだもん……」
愛されていると知ってしまったからこそ、手離さなければいけないものがある。
だってやっぱり、自分の気持ちよりも、泉の気持ちの方が大事だから。
美緒は、唇を離すと、ゆっくりとベッドの中から出た。泉の腕は美緒が居た場所を覆い、まだ彼女を求めているように見えた。
無造作に置かれていた鞄を見つける。暗がりの中でも、照らす月光が手元を助けて、美緒は鞄の中から携帯を取り出した。パチン、と静かに携帯を開き、電源を入れる。ぼおっと、小さな光が美緒の顔を照らす。
午後十時十五分。
まだ、そんなに夜は深まってはいない。朝家を出る際に、親には『勉強会で遅くなるかもしれない』と言っておいたから、心配の電話もまだ入っていないだろう。今から帰ると、電話をしなければ。そんなことを考えながら、美緒はメール画面を開いた。
宛先に、薫のアドレスを入れる。
ためらいがちに文字を打つ指は震え、美緒は唇を噛み締め、堪えていた。
送信ボタンを、押す。
何かが終わったと同時に、彼女の瞳から零れる涙は止まることを知らなかった。
――バタン。
控えめなドアの音が鳴り響くと同時に、泉は瞳を開けた。
額に触れた美緒のキスの温もりがまだ残っている。抱きしめていた腕には、美緒の感触が残っている。
泣き疲れて眠る美緒を抱きしめ、いつの間にか泉も一緒に眠りに落ちていた。だが、美緒が目を覚ましてからというもの、実は泉自身も全てに気付いていた。寝たフリをしたのは、美緒にどんな風に話しかけたらいいのか分からなかったからだ。
笑顔を作ることもできない。だからと言って、悲しい顔なんてできはしない。
そうしている内に、美緒から零れ落ちる台詞と涙に、泉は胸が痛くてたまらなくなった。
「謝るなって、言ったのに……」
こうなることは、予感していたことでもあった。ある意味、泉自身が壊したことなのだ。三人の関係がいつまでも続けばと願っていたはずなのに、自分がその関係にナイフを入れ、切り裂いた。兄だと思われていたからこそ、許されていた彼女の中の居場所を、自らが壊してしまった。
でも、伝えずにはいられなかったのだ。もうずっと、彼女の涙を見るだけの立場では居られなかった。
美緒は、泉の気持ちをけして受け入れることはないだろう。愛しているのだと告げてしまったからこそ、彼女は泉から離れていくだろうと予感していた。
一見、弱そうで臆病に見える美緒。でも、芯は強い女だ。いくら気持ちが揺れ動いても、けして本質を見失わない強さを彼女は持っている。薫との恋愛がダメになったからと言って、簡単に他の男に靡いたりなどしない。薫がいない寂しさを、泉に頼ったりはしないだろう。それは、薫を本気で愛している証だ。そして、泉を大事に思ってくれている証。
何より、薫と同じくらい、大事に思われてきた泉だからこそ、それがよく分かっていた。告白することが、美緒を苦しめることになるかもしれないと、分かっていた。美緒はきっと、泉の気持ちを察して離れて行く。もう、無邪気に甘えてはくれなくなる。泉を傷つけまいと、また自分の中に気持ちを閉じ込めてしまう。それは、泉の気持ちを察してのことだ。彼女は、いつだって自分の背に全てを背負って立っている、女だから。
それでもまだ、美緒のことが愛しくてたまらなくて、どうしたらいいのかなんてわからない。
傷つけられてもいい。気持ちが伝わらなくてもいい。どんなにつらくても、寂しくても、泉は美緒のそばを離れたくない。彼女が一人で泣くくらいなら、自分の気持ちなどどうなったっていい。
――無理だ。
美緒以上に、誰かを愛することなんてできない。
愛したのは手の届かない月。
青白い月の光を背に受けながら、今さらながらに泉は望むものの大きさに気付かされる。
そして、枕に顔を埋め、声にならない泣き声を上げた。
彼女が、離れていく――。
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