華水の月

58.信じる

「どうしたんだよ、こんな夜遅くに」
 日付が変わったかという頃、泉はシティーホテルの清算を済ませ、薫の部屋へと訪れた。
 玄関先で出迎えてくれた薫の背を見つめながら、淡々と廊下を歩いていた。『ちょっとね……』と、そう軽く返事をする自分の声が、泉にはやけに遠くに響いているように聞こえた。
 シンプルな部屋には、洒落っ気ももちろんありながらも、人の心を癒す落ち着きがある。それは、薫という人の雰囲気が表れている証拠だろうか。泉は、薫の部屋が昔から好きだった。ここに居れば、幼い頃から一緒にいた薫の温もりを感じられるからかもしれない。薫の居ない今の実家は、どうにも寂しくて冷たくて仕方がない。昔、実家で共に暮らしていた時も、泉はいつも薫の部屋に入り浸っていた。でも、その日の泉には、そんな薫の部屋の雰囲気さえも全く感じることができなかった。
「とりあえず座れよ。コーヒー淹れるから」
「……うん」
 泉は、少しばかり緊張しているのを感じながら、いつも座りなれているはずのソファへと腰を下ろした。
 コーヒーを二つ持った薫が、泉の方へとやってくる。手に持っているマグカップの一つは、泉が自分用にと無理矢理薫の家に置いていたものだ。薫は泉が何も言わずとも、温かい飲み物を出す時は必ずそのカップを使ってくれた。それは、泉がそこに居てもいいのだという許可を、無意識に与えられているようなものだった。
「疲れてんの?」
「ああ。ちょっとな。何時間か前まで、ずっと外に出てたから」
 斜め向かいに腰を下ろした薫の表情には疲れが見えた。顔色が悪い。憔悴しきったように見えるその表情には、いつも薫から窺える覇気が感じられなかった。
「仕事?」
「いや、仕事じゃないよ」
「じゃあどうしたの?」
「……色々あってな」
 美緒とあんなことがあったのに、仕事も糞もないもんだ。
 泉は、心の中で憤りを感じていた。
 いつもなら、疲れを見せる兄に対して、こんな風に思ったりなどしないだろう。寝られるうちにちゃんと寝ておけと、薫をベッドに追いやるに違いない。いつも忙しい身の上の薫だからこそ、泉は薫の体調管理には気を遣っている。
 でも、今日の泉は違っていた。憔悴している薫に対して、当然の報いだと感じてさえいる。絶対に逃がすものか。たとえ傷つけても、全てを白状させてやると、半ば憎しみを込めた瞳で薫を見据えていた。
 そんな風に兄を見るようになってしまったのは、いつからだろう。
「何か、急ぐ用でもあるのか?」
 薫が片手で顔を覆い、小さく溜息を吐く。まるで、何か心配事を抱えているかのような雰囲気だ。何故か分からないが、泉は薫のその姿に腹が立った。
 美緒はその何倍も……。
 脳裏に美緒の涙を思い浮かべながら、心の中でそう呟いていた。
 泉の優しさを自ら手離すことを選んだ美緒の決心。薫が好きだからこそ、その意志だけはけして曲げず、泉の優しさに逃げることをしなかった。自分という存在が逃げ道になるのなら、それでも構わないのだといくら泉が願っても、彼女は自分の弱さよりも泉の気持ちを守るために離れていく。言葉として伝えられることがなくても、彼女が泉を想って離れていくことを感じ取っていた。
 いくら芯が強く、薫のことを今でも真っ直ぐに愛していても、薫の胸に飛び込むまでの勇気はないだろう。現実を目の当たりにし過ぎた故の、結果。
 彼女は、一人だ。一人で泣き、一人で全てを抱え込んでしまうのだ。優しさの裏側にある臆病さが、彼女を一人にする。泉には、それが耐えられなかった。
「別に何も用がないなら、俺は書斎に戻ってもいいだろ。おまえは適当に、その辺でくつろいでればいいから」
「え……?」
「悪い。今日はおまえの相手をしてられるほどの余裕がない」
 そう言って席を立とうとした薫を、泉は強い眼差しで追った。
「用ならあるよ」
「…………」
「薫に、話があるんだ」
「話って……。改まってするほどのものなのか?」
「いいから、そこに座れよ」
 強い口調で命令すると、薫は渋々腰を下ろした。
 視線が、ぶつかる。疲れの見える表情の中でも、薫の瞳には鈍い光が宿っていた。思わず身が竦んでしまいそうになる。それくらい、薫の目には力があるのだ。何者にも異を唱えさせないような迫力がある。
 だが、それに怯まないほど、泉には確固たる決意があった。
「今日、美緒がどこにいたのか知ってる?」
「……何?」
 薫の眉間に皺が寄る。
 一瞬にして、泉は疑いの対象になった。
「今日の夕方、薫と別れてからの美緒がどうしてたのか知ってるかって聞いてるんだよ」
「おまえと一緒にいたのか?」
「だったら?」
「……だったら、少し安心してる」
 薫は無表情だったが、言葉自体に嘘は無かった。まさか泉が薫のことを憎いと思っていることなど、知る由もなかったのだから。
「安心? 何に安心するって言うんだよ」
 反吐が出る。
 まるで嘲笑うかのように言い放った泉の言葉に、薫は少し戸惑っていた。
「おまえは、美緒にとっては一番の理解者だと思ってる。おまえのそばに居たのなら、美緒の気持ちもきっと落ち着いていたんじゃないかって、そう思っただけだよ」
 それは、薫が泉を信頼している故の言葉だった。
 本来なら、恋人である自分が美緒の一番の理解者でいたい。だが、現実に泉は美緒にとってのよき理解者だ。泉にとっての薫がそうであるように、それは揺るぎない事実であるし、変える必要もないほどの絆であるように薫は思う。
 だが、美緒を裏切っている薫に信頼されている、その事実が、泉は嫌でたまらなかった。
「……落ち着かせなきゃいけないほど、美緒を追い詰めたのは誰だよ」
 イライラする。冷静な薫を見ていると、泉はどうしようもない苛立ちに駆られた。その氷のような冷静で美しい表情を、滅茶苦茶に歪ませたくなった。
 そして、キッ! と薫を睨みつけると、
「美緒のこと追い詰めて、泣かせて、何平気な顔してんだよ!」
 怒声を響かせ、目の前にあるテーブルを思いきり蹴り上げた。
 置かれていたマグカップが派手に音を立てて割れる。絨毯の上に濃いシミを作っていくそのサマは、まるで泣いているようにさえ見えた。
「薫、今日美緒に何した? あいつが泣いて逃げなきゃいけないようなことしたくせに、よくもそんな涼しい顔してられるよな。美緒がどれだけ傷ついたのか、分かってんのかよ!」
「……おまえ、何か知ってるのか?」
「は? 何を今更。全部薫が裏切ったのが悪いんだろ?! 薫が美緒を裏切ったりしなかったら、あいつはあんなに傷つかなくても済んだんだ! 泣くのはいつも美緒ばっかり。いつも一人で傷ついて、耐えて、そうさせてるのは全部薫だろ!!」
 感情的に声を荒げる泉の言葉を、薫は冷静に聞いていた。と言うよりは、泉の言葉から、何かを探っていた。
 炎を思わせる泉の怒りと、氷のように冷徹な薫の眼差し。思えばいつだって、泉は炎のような激情に捕らわれていた。燃え上がる熱の熱さの中で、薫という人を見、そしてそれは悪へと形作られていったのだ。
 それが、今回のすれ違いの発端であるということを、泉はまだ気付いていない。
「薫はいつもそうだよな。自分が何よりも正しくて、後悔することなんてない。誰かに傷つけられたことなんて、どうせないんだろ。どんな時も余裕で、強くて、いつも人の心見透かして、そういうところが腹立つんだよ! 誰もが同じだと思うな! 何でも上手に受け止められるなんて思うな! 美緒は、美緒は……、薫がそんなんだから……!!」
 感情が溢れだして上手く言葉に出来ず、泉は苛立ちに頭を掻き毟った。薫は、立ったままの泉の腕を掴むと、懇願するように見上げた。
「美緒が、どうしたんだ。詳しく聞かせろ」
「ウルサイ!! 薫に美緒を心配する資格なんてない。知る必要もない!」
 掴まれた腕を、思い切り振り切る。それでも薫は、感情的な泉に押されることなく、冷静に聞いていた。
 真実を一番知りたいのは、泉でも、美緒でもなく、薫なのだ。何がどう歪んでいるのか、そして、何が、誰が原因なのかさえ薫は知らない。知る由もない。誰も、薫には告げなかったのだから。全てをひたかくしにし、薫一人だけを、締め出していたのだから。
「薫が一番知ってんだろ。自分の胸に聞いてみろよ。自分が美緒に何したのか、全部聞いてみりゃいいじゃねーかよ!」
「それが分かるなら、最初から聞いてないよ」
「何それ。自覚がないってこと? ……最低だな」
 感情のない泉の目が、冷ややかに薫を見下ろしていた。困惑した薫の表情は、いい気味だった。思い知ればいい、そんな風にさえ思っていた。
 そして、その冷ややかな目は、更に薫を追い詰める。
「いいこと教えてやろうか。薫と別れてからな、美緒は今までずっと俺と一緒にいたんだよ」
「ずっと……?」
 互いに、ゴクリと唾を飲み込んだ。これから出てくる言葉を、覚悟して。
 そして――。
「俺、美緒と寝た」
 言葉にしてはいけない禁忌が二人の関係を割き、空気が一瞬にして凍った。薫の瞳の中に、青い炎が宿るのと同時に。
 その青い炎を目の当たりにし、泉が一瞬後悔した。けして口にしてはいけない、薫を傷つけるだけの禁句をぶつけてしまったことへの罪悪感。だが、一度口から出た言葉は、なかったことになどできない。
「もう一度、言ってみろ」
 泉が同じ言葉を口にするより先に、細い首元が締め上げられる。ギリギリと音を立て、薫は容赦のない力で襟元を掴んでいた。泉の足元が、僅かに宙に浮いた。片手で掴んでいるというのに、なんという力なのだろうか。両手で薫の手を剥がそうとするも、叶わない。首を締められている状態では呼吸もままならず、意識も朦朧としてくる。
 泉はそんな中懸命に目を少しだけ見開き、薫を見下ろした。そこに映る表情は、心臓を凍りつかせるほど冷ややかで、恐ろしかった。
「ぐ……っ、苦し……」
「本気で言っているのなら、いくら弟でも許しはしない」
 殺されるかもしれない。
 泉は心の中で、恐怖に怯えていた。
 怒りを露にした時の薫の恐ろしさを一番知っているのは泉自身だ。普段優しく冷静な分、薫の怒りは半端でなく恐ろしい。罵声を浴びせたり、暴力をふるうというような単純な恐ろしさではない。人の心ごと殺してしまうような冷ややかな恐ろしさ。もう二度と、薫に刃向かおうなどとは思えなくなるほど、薫という人に対しての恐怖心をその心中に刻み付けるのだ。氷の目で相手の心臓を凍らせ、冷徹な言葉というナイフで、ズタズタなまでに切り裂かれる。人の体ではなく、精神を殺していく。
 泉は今、そんな薫の恐ろしさの断片を垣間見ていた。
「何か言ったらどうだ、泉」
 ――殺される。
 怖い。どうしようもなく、薫が恐ろしい。こんなにも泉に対してあからさまな殺意を向けたのは初めてのことだ。これまで、他人に対する薫の怒りを見たことはあるが、自分に向けられるものがこんなにも想像を超えて恐ろしいとは思わなかった。
 弟だからこそ全てを知り得なかった、薫の冷酷な一面。心臓が次第に冷たくなり、感情が麻痺する。体に感じる苦痛ではなく、精神的に追い詰められていく感覚に、泉はどうにかして逃れたくて必死に懇願した。
「お願、い、……離してっ」
 すると薫は小さく舌打ちをし、乱暴に泉を床へと投げ下ろした。
 急激に肺へと送られてくる空気が苦しくて、激しく咳き込む。泉が床に這いつくばって大きく呼吸をしていると、薫は泉のそばに寄り、見下ろした。
 その瞳の中には、青い炎が揺らめいている。
「……俺に取られたのがそんなに悔しいんなら、最初から美緒を泣かせるような真似すんじゃねーよ」
 睨みつけながら、それでも負けまいと泉が薫を罵る。
 だが薫は、至って冷静にその言葉を受け止めた。いや、冷静というよりは、逆に怒りが頂点に達していたのかもしれない。
「バカを言うな。今のは、おまえがくだらないことを言ったことに対してだ。もしも、その言葉を信じてのことだったら、おまえはとっくに死んでる。生かしておくわけがないだろ」
「なっ……!」
「言い直すなら今の内だ。二度目はないぞ」
「……俺の言うことが信じられないって言うのかよ」
「俺は、美緒の口から聞くまでは、何一つ信じたりしない」
 嘘のないその言葉は、泉を黙らせるのに充分だった。
『美緒の口から聞くまでは』
 そう言った薫の台詞が、頭の中で何度もリフレインする。忘れていた大事な何かが、ストンと泉の心にはまり込んだ。
「おまえがどんな戯言を言おうと、たとえ寝たという言葉が本当だとしても、美緒の口から聞くまでは俺は何も信じない。美緒がやっていないと言えば、俺はそれを信じるまでだ」
「受け入れたくないだけだろ」
「違うよ。俺まで美緒を疑ったら、一体誰が美緒のことを信じられるっていうんだ? ……愛してるから信じるんだ。俺は、あいつのためならいくらでも悪になれる」
 衝撃の事実を突きつけられても、薫の愛の形は変わらなかった。何を言われても、たとえ美緒が悪だとしても、薫はそれを受け入れると言った。
 『信じる』
 今まで泉の価値観の中にあった『信じる』という意味と、薫の価値観の『信じる』という意味には大きな差異があった。その許容範囲、本当の意味としての広さに、大きな違いがあったのだ。目の前にあるものをただ受け入れ、自分の信じたものだけを受け入れるのが泉の価値観。
 でも、薫の価値観はそんなものを簡単に超越している。信じるということは、その人を全て受け入れるということだ。善でも悪でも、それによって自分が傷ついても、その人を最後まで見放さない、疑わない、それが薫の愛の形だった。
「自分以外の男と寝たかもしれない女を、愛せるのか?」
「過ちは誰にでもある。完璧な人間なんて、居やしないよ」
「偽善だよ、そんなの」
「ああ、そうだな。偽善だと言われて、全てを否定はしない。それほど俺もお人よしじゃない。愛してるからこそ、独占欲だって半端じゃないよ。相手の男を生かしてはおかないしね。……でも俺は、完璧な美緒を愛してるわけじゃない。過去に何もない美緒が好きなわけじゃない。脆いところも、弱いところも全て愛してるんだ。許すことは、簡単だよ。許さずに苦しむ方が、きっと後悔する。愛する人の過ちを受け入れられないのなら、最初から女一人愛し抜くなんてできない」
 薫の言葉に胸を痛めながら、泉は両手で顔を覆った。
 こんなにも深く人を愛せるのに。美緒を愛してるという薫の言葉は、今も嘘がないのに。だったら何故、薫は美緒を裏切ったりしたのだろう。
 それが許せないのだ。最初から信頼もしていない男の裏切りなら、ある意味耐えられたかもしれない。でも、最愛の兄だったからこそ、最恋の女性に対する裏切りは耐えられなかった。薫がそんなことをするはずがない、とそう思っても、現実は残酷なほど泉を取り込んで逃がさなかったのだ。猜疑心は日に日に膨らみ、大好きだった兄が、嫌いになっていく。その姿を目にすれば、幼い頃から覚えてきた薫への愛情が膨らみ愛しさに輪をかけるのに、それが余計に泉の首を締めていった。
 美緒への裏切りは、泉への裏切り同然だったのかもしれない。
「……だったらどうして、美緒を裏切ったりしたんだよ」
 思わず、嗚咽が漏れそうになる。床を見下ろし、泉は喉の奥で言葉を零した。
「そんなに愛せるんだったら、どうして美緒を傷つけるんだよ」
 ポケットの中に手を入れ、指先に触れるカサリとした感触に息を呑む。泉はそれを手荒く掴むと、薫を見上げ顔へと投げつけた。
 それは、薫の頬に当たり、ポトリと地面へと落ちた。
「なんだ、これは……」
 薫の長い指先がそれを拾い上げた。しわくちゃになった写真に、目が釘付けになる。そこに映っている自分と麻里の姿に、まるで現実でないものを見るような目で凝視していた。
 でも、すぐさまピンとくる。これが、いつのものであるのかを。
 薫にとってそれは、大きな意味を持つ抱擁だったからだ。
「なんだって、見れば分かるだろ。薫と麻里さんが抱き合ってる写真だよ」
「誰が、こんなもの……」
「誰がなんて関係ない! そこに映ってるのが全てじゃないか! ……ずっと、ずっと前から麻里さんとそうやって会ってたんだろ。そうやって美緒をずっと裏切ってきたんじゃないのかよ」
 薫は写真から目を離すと、睨み付ける泉の視線を真摯に受け止めた。最初から事実に目を背ける気など、薫にはない。今こそ、全てを知れる時だと察知し、泉の心を探った。
「俺は、美緒を裏切るような真似はしてない」
「まだそんなこと言ってんのかよ! こんな写真見せられてんだぞ?! 何を信じろって言うんだよ」
「それでも、俺は美緒に恥じるような真似はしていない」
「いい加減にしろよ。こっちは、麻里さんが妊娠してることも知ってんだぞ」
「おまえ……それどこで」
 さすがに麻里の妊娠の事実を泉が知っているとまでは、薫も思ってもいなかった。薫の顔色が変わったことが、泉の言葉に更に拍車をかける。もう、思っていることを留めておくだなんて、泉にはできなかった。
「俺も美緒も、全部知ってんだよ。薫が大阪で麻里さんとずっと一緒にいたことも、最後の夜を二人で過ごしてたことも、空港でキスしてたことも全部な」
「どういうことだよ。……美緒も知ってるって」
「全部知ってるよ。ずっとずっと前から、薫と麻里さんのことなら俺達は全部知ってた。全部知ってても美緒はずっと黙って薫のそばに居たんだよ。薫を傷つけちゃいけない、疑っちゃいけないって、ずっとずっと自分の中で秘めて、いつも我慢してた。薫には笑顔だけ見せていたいって。薫が幸せでいてくれたらそれでいいって。そんな風にいつも無理して笑ってたんだよ。それがどれだけ美緒を傷つけたか……」
 薫は、泉から顔を背けた。それ以上、聞いていられなかったのだ。端的に聞かされる泉の言葉から、美緒の不安な気持ちが容易に想像できた。頭の中で繰り広げられるそのシーンを思い浮かべ、そこに美緒を結びつけた。
 どんな目で、彼女はずっと自分を見ていたのだろう。誰よりも、美緒のことを分かっている。だからこそ、薫には、美緒の気持ちが手に取るように分かった。後悔にもできないほど、何も知り得なかった。
 ……自分だけが、何も知らなかっただなんて。
「麻里さんとの間に子供まで出来て……。それでも薫はまだ、美緒を裏切ってないなんて言えるのかよ」
 薫の目にこの時初めて、全ての歯車が見えた。
 いつも、薫の知らないところで狂っていた歯車。クルクル……狂々と音を立てるのを予感していながらも、何が狂っているのかさえ見えていなかった。
 もっと早くに気付いていたら。
 そしたら世界は、変わっていただろうか――。
「じゃあ美緒は、麻里の腹の子が、俺の子だと思ってるんだな」
「……え?」
 泉が、眉間に皺を寄せる。その台詞は、彼の予想の範疇を超えていたのだ。最初から、麻里の腹の子は、薫の子だという先入観に囚われすぎていたために。
「……違うよ。麻里の腹の子は、俺の子じゃない」

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