華水の月

64.薄氷に凛と咲く

 時間の限られる昼休みの間に薫のところへ行こうとも考えたが、えみのすすめで結局美緒は放課後に一人で行くことになった。
 えみには、薫との関係を何一つ語ることは出来なかった。きっかけは有り余るほどあったが、それらをかき集めそうになる自分に嫌気がさすのだ。こういう状況になったからえみに報告するというのは嫌だった。大事な親友であるえみには、美緒が幸せな恋をしているということを最初に伝えたかったのだ。
 薄氷の上に立つような脆い恋が、いつか何にも揺るがない恋になることを願っていたのに、足元の氷は溶けてしまうどころか、一瞬にして砕けてしまった。

 五時間目が始まる数分前に、美緒とえみは他の友達とも連れ立って校庭に出た。
 今日は男子も持久走のタイムを計るらしく、皆和気藹々と雑談を交わしていた。男子生徒が数人、女の子と混じって美緒の周りを取り囲んでいた。
「真中、体調ヤバそうだったらすぐに言えよな。俺が運んでやるからさ」
「心配してくれてありがとう。私のことなら大丈夫だから、心配しないで」
「……あ、うん」
 輪の中にいた一人が、美緒の優れぬ顔色を窺い声をかけた。気のない振りを装っても、嬉々とした声色は、美緒に下心があるのが丸出しだ。クラスメートの申し出に、美緒はやんわりと、けれどはっきりと遠慮の意思を示した。届かぬ想いに苦い顔をする男子生徒を、周りの女の子がニヤニヤと見つめている。
「振られてやんの」
「う、うるせえな。俺はただ善意で言っただけで……」
「はいはい、あんたは優しいもんね」
 体の調子を心配して、と上辺では装っているが、その真意は定かではない。えみが男子生徒の肩をポンポンと叩いている隣で、美緒は他の友人と楽しそうに会話を交わしていた。
 元々美緒はかなりもてるのだ。誰にでも優しくて可愛くて、女の子らしくて。そんな女が嫌いだという男は、世の中にそんなにはいないだろう。
 けれど美緒は、異性だけでなく同性からも好かれていた。作りあげたものではない、ナチュラルな容姿や性格が人の心を惹いて離さないのだろう。そして、自分の外見を盾に男に媚びたりしないところや、異性に対するサバサバとした潔さも、同性の人気を得る理由の一つだ。
 だが、それを自然とやってのける本人は気付くはずもない。
「あれ? ……あそこに立ってるのって、櫻井先生じゃん?」
 美緒とえみが楽しく会話をしている近くで、クラスメートの一人が、校庭の外に視線を投げた。その言葉に釣られるように、生徒の視線が一斉に一人の人物へと注がれる。瞬間、ざわめき出す人の心の波。
 美緒も、同じように視線を向けた。次の瞬間心臓が割れるほど高鳴るのが分かった。
 グラウンドの外で、腕を組み、校舎の壁にもたれかかって立っている白衣の男が一人。戯れている生徒達をしっかりと見据えていた。
 長身ですらっとした体型。
 太陽の光に反射してキラリと光る眼鏡。
 誰の視線をも集めてしまう、その圧倒的な美しい存在感。
 そこに立っていたのは、紛れもなく櫻井薫。その人だった。
 生徒達が、薫の存在を見つけたことによって色めき立つ。話題は、一斉に薫のものへと変わった。それはやはり、薫の持つ存在感の為せる業だ。女の子は、相変わらず薫の存在に胸を躍らせ。そして男の子達は皆、その美しい存在に憧れさえ抱いた。
 元々薫はフランクな性格故、全校生徒の誰からも好かれている。けして生徒を差別しない。誰にでも平等に優しく接してくれる校医だ。彼特有のさりげない仕草も、どこかで一線を引いているようなクールさも、フェミニストな柔らかな物言いも、支持を得ている。教師という存在が疎まれる時代の中、これだけのカリスマ性を誇る男も珍しかった。
 だが、そんな風に薫を見られるのも、ただの生徒だけに過ぎない。そんな生徒達の端で、美緒だけは薫に背を向けていた。薫の姿を見つけた途端、美緒の顔色は青ざめていた。普段、こんな風にいるはずのない薫が、そこにいる。それは、美緒がここにいる故だということを、彼女は咄嗟に感じていた。向けている背にさえ感じるのだ。薫の痛いほどの視線を。薫は確実に、美緒の存在だけを捉えていた。つい数秒前、目が合ったと思った瞬間、薫は中指でメガネを軽く押し上げる仕草を見せた。
『逃がさない』
 沈黙の中に、そう聞こえたのは、美緒の気のせいなんかじゃない。叱られているような威圧感と、悲しいほどの切望を感じた。だから、けして振り向けなかった。
 どうしていいのか分からず、戸惑いが美緒を支配する。見つめ合えば、泣き出してしまうだろう。その腕に捕らわれたいと、願ってしまうだろう。もう一度愛されたいと、望んでしまうに違いない。自分から離れると決めたのに、今さら薫の愛など乞えはしない。未だに薫への信用を取り戻せないのも、確かなのだから。
「美緒? やっぱ体育休んだ方がいいんじゃない? ちょうど櫻井もあそこにいるし、呼んでこようか?」
「え?」
「櫻井も美緒のことが気になってるんじゃないかな。美緒の体のこと、一番に分かってるのはやっぱり櫻井だと思うし」
 真っ青なまま俯いている美緒の肩に、えみが手をかけ顔を覗き込んだ。咄嗟に美緒が顔を上げる。その必死な形相に、えみは困惑した。
「いいの。大丈夫」
「でも……」
「本当に大丈夫だから。余計なことしないで」
「余計なことって……」
 美緒は、真剣な形相を少しだけ緩め、申し訳なさそうに俯いた。
「ごめん……。でも、本当に大丈夫だから。放課後には先生のところは顔を出すし、大丈夫」
「でもさ、美緒」
「お願い。お願いだから、やめて……」
 こんな場面で、薫になんて会えない。ポーカーフェイスの得意な彼とは違って、美緒は露骨に感情を表してしまうに違いない。だから、美緒は頑なに首を振り、親友の申し出を拒否した。
 美緒の口から出るには少しばかり印象の違う台詞に、えみはただ頷くしかできない。しかし、美緒の顔色がさっきよりも随分と悪くなっているのは確かだ。薫の姿を見つけた途端に、美緒の纏う空気が一瞬にして変わったことも、えみは気付いていた。『大丈夫』という美緒の嘘が、えみの背を押した。
「美緒、私お腹痛い」
「え、お腹?」
「ちょっとトイレ行ってくる。すぐ戻ってくるから、先生に言っといて」
「え?! えみ! ちょっと……!」
「すぐ戻ってくるからー」
 美緒の肩をポンと叩いて、えみは微笑むと、すぐさま駆け足でグラウンドを後にした。えみの背後からかける美緒の声は、明らかに不安に濡れている。
 でもえみは、そんな美緒の声をあえて無視して、彼の元へと向かった。
「えみ、ちょっと、待っ……」
「美緒!」
 引きとめるために追いかけようとした瞬間、誰かが美緒の手を掴み名を呼んだ。その手に引かれ、美緒が振り返る。睨み付けるような視線に、体がゾクリと竦んだ。
「どこ行く気」
「どこって……」
「えみなら放っておけばいいでしょ。美緒まで行く必要ない。絶対行かせないから」
「でも」
「でも、何? 私がここに居てって言ってんの。聞こえなかったの?」
 けして逃がすまいと美緒を射る綾乃の強い視線。
 美緒には何故か、分かってしまった。綾乃が、美緒と薫を近づけさせまいと必死に願っていることを。
 それと同時に、綾乃を見つめ返すその背後に、一週間前に送りつけられたあの写真が浮かび、美緒は必死にそれをかき消そうとした。証拠のないものを、疑いたくなかったのだ。綾乃を憎みたくはなかった。
「なんでもない」
「ほら、行くよ」
「うん」
 綾乃が美緒の手を引き、生徒たちの中へと引き連れていく。素直に美緒が応じたことに、綾乃は安堵の表情を見せた。だがそれはすぐに、何かに苦しくもがいているようにも美緒の目には写った。
 美緒の手を掴む綾乃の指が、ギリギリと肌に食い込む。綾乃は足を止め、美緒に振り返ると、唇を噛みしめ睨みつけるような眼で彼女を詰った。
「どうして」
「どうしてって?」
「どうしていつもそんな涼しい顔してられるの。どうして私がこんな風に美緒のこと意味もなく傷つけるようなことしてるのに、責めないの。自分が綺麗で可愛いから、皆に愛されてるから私なんて眼中にないって、そう言いたいわけ。ムカつくんだけど。美緒のそういう平気っていう態度。イライラすんのよ!」
 握り締めた手首には指が食い込み、白い肌には赤い痣が浮かび上がる。力まかせに握りつぶした手首は、酷く痛みを持っているはずなのに、美緒は綾乃を見つめると悲しそうな微笑を見せた。
「平気なんかじゃないよ」
 平気なんかじゃない。
 こうしている間にも、うっかり涙が溢れそうだというのに。
「でも、守りたいものがあるから。優しさに鈍感な人間になりたくないの」
 泉の笑顔も、薫の優しい眼差しも、えみの心配そうな声も。
 どれだけ苦境にいようと、綾乃に罵倒されようと、それを忘れずにいるから、美緒は美緒らしくいられる。いずれそれらを失ったとしても、人の心の中にはいつまでも残るものだ。形なきものだからこそ見失いやすく、大事にすればこそ永遠に感じられるだろう。美緒は、傍から見れば綾乃よりもずっと恵まれているのかもしれない。でもそれは、幸運が重なり偶然に得られたものではなく、ささやかなものさえ大事にできる美緒だからこそ得られた幸せでもあった。
「あんたの言ってること、まるでわからない。なんなのよ。偽善者のくせに。……そういう上っ面ばっかりのところ、さすが泉とお似合いだね」
「確かに私は偽善者かもしれない。でも、泉くんのことを悪く言うのはやめて。泉くんは、私と一緒にされていいような人間じゃないの。……とっても優しい人なの」
「どこが……」
「樹多村さんにとってはそうでなくても、私にとっては大事な人よ。侮辱するのは許さない」
 微かに震えているのに、泉を庇う声は凛としていた。
 あの時と同じだ。綾乃が美緒を殴った日、あの日も泉を守る美緒の声は、凛と通っていた。彼女を取り巻く空気が、一瞬にしてピンと糸を張るように凛とするのだ。自分が詰られるのには、黙って聞き流すことができるのに、彼女の守りたい対象を詰られると、美緒はスッと背筋をはり、真っ直ぐな瞳で綾乃を射、凛とした声でハッキリと否定する。
 『傷つけないで。悪く言わないで。貴方に罵られる筋合いはないのだから』と。
 それは、綾乃が逆らえなくなるような透明感とある種の威圧を含んでいた。弱く脆そうな美緒の表面を覆すような、とてつもない強さが表れるのだ。
「へえ。自分は悪く言われてもいいんだ。前に私があんたを殴った時も同じこと言ったよね。自分よりあいつを庇った。……そういうところが偽善者なのよ。そういうところがイライラすんのよ!」
 語尾は強く荒げていた。美緒は、綾乃を真っ直ぐ見据えていた。
「じゃあ、私が樹多村さんを責めたら、樹多村さんは救われるの? 私が樹多村さんを嫌いになれば、それでいいの?」
 優しくもあり強くもある、そんな声。綾乃は返答さえできない。
「人はね、誰かを殴ったり傷つけたりすると、それを体が覚えていて、必ず後で後悔する。殴った時の痛みを手のひらが覚えてる。傷つけた言葉は心に残ってるものよ。それが、何倍にもなって自分に跳ね返ってくる。……私は、後悔できる人だったら、責めたいとは思わないの。後悔するっていうことは、自分のしたことへの責任の重さを感じられるってことだから。樹多村さんは、傷つけた手のひらを見つめ返したことはないの?」
 綾乃は美緒を凝視して、押し黙った。
 美緒は分かっていたのだ。反発しあうよりも、受け入れ理解することに意味があることを。
 でも感情のままに生きる綾乃には、それが分かっていても気持ちを制御できない。美緒に八つ当たりしても、何も得るものがないと分かっている。反発されれば、大嫌いになって終わり。いっそその方が憎しみで終わるだけ楽かもしれない。だけれど美緒が綾乃を受け止めるから、美緒の優しさに触れてしまうから、綾乃は葛藤に心を蝕まれ余計につらくなる。
「樹多村さん。最近笑わなくなったね」
「えっ……」
「どうしてか私の目には、樹多村さんが今とっても悲しそうに見えるの。苦しそうに見えるの」
「何言って……」
 心の中を全て見透かすような、美緒の真摯な視線に、綾乃はいたたまれずふいと視線を外す。美緒も、繋がれた手に視線を落とした。
 正直美緒は綾乃が怖い。嫌いではなくとも、あからさまに向けられる敵意や暴言、そして悪態は、簡単に心の中で割り切れるものではないのだ。ましてやあの写真のことで、美緒の心の中には確実に恐怖心が根付いている。綾乃にも理由があるということを分かっていても、それを理解しようと努力しても、それを受け止めるには美緒の心は優しすぎた。
「樹多村さんに苦しい想いをさせてしまっているかもしれないね。私」
「バカなこと言わないでよ。誰があんたなんか……」
「えみにね、樹多村さんが私が休んでたことを心配してくれてたって聞いた。私、すごく嬉しかったよ。ありがとう、樹多村さん」
 怖くて、唇が震える。無理に作って俯いた笑顔。心の裏側では今にも泣いてしまいそうだった。それでも、憎むよりは理解したいと、美緒はいつだって綾乃を正面から受け止めていた。薫のことが好きだという気持ちは曲げられない。綾乃にだってけして負けてはいない。だからこそ、美緒は逃げなかった。
 だけどもう、傷だらけだ――。
 逃げて責めるばかりの綾乃とは違い、綾乃を真っ直ぐに受け止めてきた美緒は、彼女を真っ直ぐに見て笑えないほど傷だらけだった。薫という支えを失った今、誰かを受け止めるほどの強さもない。

 そんな彼女を、グラウンドの向こうから一心に見つめる瞳。
 薄氷の上で、身を奮わせながら凛と咲く花の行く末を憂う瞳。
 美緒が想い続ける麗しの校医は、遠くからずっと彼女を見据えたまま、離れない――。

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