華水の月

78.零れ落ちる

 いつも脳裏にあった。
 謝らなければ、彼女に本当のことを告げねば、と悔いていた。
 言葉だけの謝罪では、所詮自己満足にしか繋がらないかもしれないと分かっていても――。

 過ぎ去った時間は、取戻しがきかない。
 形あるものを失えば、永遠に手は届かない。
 今なら分かるのだ。
 形あるものを失った時、それと共にあった心だけを置いていかれることは、どれだけ悲しいということなのかを――。



「たまには、外でのブランチっていうのもいいね」
「先週もよ。祐介が料理に失敗したでしょ」
「そうだっけ? 覚えてないなあ」
「自分の時だけ誤魔化さないの」
「いてっ!」
 口笛を吹いて誤魔化す祐介の頬を、麻里の華奢な指先が摘んだ。そのままむにっと強く引く。すると祐介が体を傾け、麻里の肩に触れたかと思った瞬間、ギュッと抱きしめた。
「あ、ズルイ!」
「油断した麻里が悪い。悔しかったら逃げてみたら?」
 祐介の両腕で抱きすくめられた体は、ビクとも動かない。
「卑怯だわ。男のあなたに捕まって、女の私が逃げられるわけないじゃない」
「そうだよ。君は女なんだから、男の俺が守ってやらなきゃいけない」
「な、にを言ってるのよ……」
「こんなにそばにいるのに守らせてもくれないなんて、君の方がよほど卑怯だよ」
 祐介の声のトーンが下がった。
 急に真面目な目をする祐介の視線に居た堪れなくなり、麻里はふいと視線を外した。胸に手をつき、そっと離す。
「あんまり強く抱きしめたら、赤ちゃんがびっくりするわ。離して」
「あ、ごめん……」
 それは、麻里の逃げだったのかもしれない。
 これ以上そばに居たら、彼の愛情を近くに感じてしまったら、きっと優しい存在に自分は逃げてしまう。そうしてしまいたくなる。それが痛いほど分かった。
 祐介は、俯く麻里をただ黙って見つめていたが、小さく息を吐くと、麻里の手を取り、指を絡めてギュッと握り締めた。
「ちょっと、歩こうか」
「……うん」
 これが二人の距離。
 どれだけ祐介が麻里を強く想っても、麻里はどこかでその愛情を受け入れることに怯えていて。それが分かるから、祐介も麻里を激しく奪ったりはしない。でも、繋ぐ手は温かく、ただそれだけが今の二人の全てだった。
「寒くない?」
「大丈夫」
「あんまり冷やすなよ」
「うん」
 のんびりとした歩調は祐介の温厚さをあらわしているようで、なんだか笑えてくる。
「祐介って、時々お父さんみたいよね。ていうか、お母さんかな」
「なんだよそれ」
「過保護なんだもの。異常なくらい」
「おまえが危なっかしいんだよ」
 時に優しく、時には厳しく。
 寂しくて一人で居られない麻里にとって、祐介の存在はどれだけ救いになっただろう。
「しかし、おまえの格好は妊婦とは思えないよな」
 祐介は、麻里の姿を頭の先から足の先まで見下ろし、クスッと笑った。
 薄手の可愛らしいニットのワンピース。そのシルエットは、華奢なのにグラマーな麻里の体を綺麗に強調していた。でも、足元はローヒールのパンプスだ。ずっと高いヒールばかり履いていた麻里にとって、ローヒールというものは、腹の子を意識している証拠でもあった。
「まだお腹も膨らんでないんだもの。マタニティなんて着ないわよ」
「でも、相変わらずスタイル抜群だ」
「誉めたって何も出ないわよ」
「……損したかな」
「ちょっとー。今なんて言った?」
「何も言ってません」
 二人で手を繋いで、賑わしい街の中をゆっくりと歩いた。麻里の歩調に合わせ、時折彼女の様子を窺いながら、祐介が麻里の手を引く。優しい眼差しが温かくて、何故か世界が眩しかった。
「こんな風に、誰かと一緒に歩くのなんて、ずっとなかったな……」
 独り言のように呟く麻里の手を、ギュッと握り締めることで祐介が返事をする。見上げると、優しい笑顔に心ごと掠め取られそうになった。
 ねえ、祐介。
 視線を投げかけるだけでも、それを優しい目元で答えてくれる。
 ああ。
 愛している、って、こういうことなのかもしれないと、今わかった。
「今まで私、頑張りすぎちゃってて……。いつも何かを追いかけてばかりで立ち止まったことなんてなかったから、だから、こんな風にゆっくりと誰かと歩いてるのが、不思議なの」
 穏やかな日常こそ、望んでも手に入れることは難しい極上の幸せなのだと知った。
 愛する人が隣にいて。そして自分に笑いかけてくれる。そんな時間を幸せと思える。
 何故もっと――もっと早くに、そんな簡単なことに気付けなかったのだろう。
「一緒に歩くだけなんて当たり前のことなのに、幸せだなって、思うの……」
 でも、この幸せは手に入らない。いつか手放すのだと分かっていて感じる幸せは、身を引きちぎるほどに切なかった。この手を離して、また一人で歩いていけるだろうか。自信などない。
 無意識に祐介の手を握るのに力が篭る。祐介はやんわりと答えた。
「当たり前だから見失いやすいけど、当たり前に思えることほど、大切なものって無いんじゃないかな」
「どういう意味?」
「麻里にとって俺が、佐伯祐介っていう存在が傍にいることが当たり前だと思ってもらえるようになるなんて、出会った時なら考えられもしなかった。今はただ、君に俺が自然と受け入れられているっていうこの瞬間が、とても大切に思えるよ。きっと、今の君に一番近い存在なのは、俺だって思えるからね。この当たり前の君との空気を、ずっと失いたくない」
 そんなことを言われたら、何も答えられない。
「だから、今まで麻里の手を誰も握らずにいてくれたことに、俺は感謝しないといけないな」
「え?」
「こんな美人さんが、まさか俺の隣に居てくれるだなんて、思ってもみなかったからさ。ずーっと繋ぎたかったんだ。こうやって、麻里の手を」
 恥ずかしさと嬉しさに麻里は俯いた。
 そして、大げさに繋いだ手を振ると
「そ、そうよ。祐介には勿体無いくらいいい女なんだから、感謝しなさいよね」
 強がってそう答える。
「出ました。麻里様の強気発言」
 祐介は麻里の言葉を受け止めて、ただ豪快に笑った。
「そういや麻里。おまえ、さっきあまり食べてなかったみたいだけど、どこか具合でも悪いのか? つわりがひどいとか? しっかり食わなきゃ赤ん坊が腹減ったって怒り出すぞ」
 二人で近所のカフェに早めのランチを食べに来たのだが、麻里はその半分以上を残していた。大好きなメニューのはずなのに、そんなに残すだなんておかしい。そう思ったのだろう。祐介は心配そうに麻里を気遣うと、麻里はお腹に手を当て、軽くさすった。
「少し、お腹が痛くって……」
「腹が痛いって、いつから?!」
「昨日の晩から少しね。最初は張る程度だったんだけど、鈍い痛みがあるの。でも大丈夫よ。時々微かに痛むだけだから」
 何かを深刻に考え込む度にその痛みは頻度を増し、だから麻里は自分が子供にも責められているのだと思った。心因性、きっとそうなのだろう。
「病院。今すぐ病院行こう!」
「大丈夫よ。今日は午後から検診があるでしょ。昨日言ったじゃない」
「あ、そうか」
「祐介も付いてくるって、昨日言ってたでしょ」
 苦笑する麻里のお腹を、大きな祐介の手がさすった。
 自分の子ではないのに、あたかも腹の子が自分の子供であると思えてしまうくらい、祐介は麻里の体を一心に心配していた。
 そんな優しさが麻里には嬉しく、その反面とてつもなく申し訳なく思えて悲しかった。
「本当に、大丈夫か?」
「大丈夫よ。心配性ね」
「俺には、嘘つくなよ。無理しなくていいんだからな」
「祐介の前で私が嘘ついたことある?」
「……ううん。憎らしいくらい自由奔放」
「でしょ?」
 祐介が麻里の頭をギュッと胸に抱きしめた。
 クスクスと笑う二人の声は幸せそうなのに、上辺だけの微笑みで心が通っていないからか、少しだけ寂しげだった。

 それから後も、二人で手を繋いでウインドウショッピングを楽しんだ。麻里が興味を示すものに、祐介は鬱陶しがることもなく、一緒に関心を示した。そういう波長は、これまで一緒に居た誰よりも合うのだと、麻里はいつも思う。
 隣にいるのに空気のように柔らかくて、抱きしめてくれる体は力強い。いつか離れなきゃいけないのに、離れられない。
 そんな風に、祐介に次第に飲み込まれていく自分が、麻里は恐ろしかった。

「なあ、麻里。ちょっとだけ別行動してもいいか」
 ある宝石店を通り過ぎた時、祐介が珍しくそう言った。
 いつもなら自ら麻里の傍を離れたりしない。少し不思議に思ったが、麻里は快く了承した。
「いいわよ。じゃあ、用が済んだら、携帯に電話してくれる?」
「わかった。ごめんな。じゃあ、後で」
 麻里が遠く離れるまで、祐介はその場を動かなかったが、麻里が見えなくなったと思った途端、通り過ぎたはずの宝石店へと入って行ったことなど、麻里にはお見通しだった。
 ついさっき、飾られていたネックレスや指輪たちに、祐介の視線が奪われたことを、麻里は知っていたのだ。男性がそういうものに関心を示すのは少し珍しいが、麻里を連れて入れば、買わずに出られないのは必至。それもなんだか可哀想だ。
 たまには、一人で見るのもいいだろうと、麻里はさほど気にすることもなく、その場を離れることを決めた。

 それから十分ほど、麻里は近くにあった公園の中を散歩していた。
 穏やかな日差しが心地良い。時折鳴く鳥の声が、遠くから耳に届く。
 少し前までの自分なら、こんな自然の優しさに心を傾けることはなかったかもしれない。お腹をさすりながら、麻里は自分の中に息づく命に語りかけた。
 一度は、罪の証としか思えなかった、恨めしい存在。
 薫に体を大事にしろと言われても、どうにもならないストレスからタバコもやめられず、まともな食事もしなかった。そんな生活をやめる気もなかった。いっそ流れたらいいなどと、母親らしからぬことさえ思ったほどだ。
 だけれど今はこんなにも愛おしい。早く会いたい。祐介が認めてくれたから、今こうして、母と子はあるのだと、そう思えた。この子は自分だけの子だと割り切れるようになったのも、自分の迷いを確信に変えてくれたのも、祐介のおかげだと心からそう言える。
 
 大きな大樹の根元に置かれているベンチを見つけると、麻里はそこへと腰を下ろした。
 瞬間、昨夜から感じている下腹部への微かな痛みが麻里を襲い、庇うように腹を抱え込んだが、それはすぐさま収まり、麻里は安心の溜め息をついた。
「あなたも、私のことを恨んでいるの?」
 返答などあるはずもない腹の子へと、そっと問いかける。また微かに腹が痛む。
 ずっと一緒にいるのだ。麻里が何を考え今に至ったのかさえ、この子には分かっている。
 なんだか突然罪悪感に押しつぶされそうになって、目元が滲んだ。
 ――泣くな。これくらいのことで。自分はもっと、彼女を傷つけたのだから。
 麻里は大きく深呼吸をすると、空を仰いだ。

「はい、もしもし」
 祐介からのコールが携帯に入り、麻里は遠くの景色を眺めながら祐介の声に耳を傾けた。
 心配性の祐介だ。たかが十分しか離れていないのに、もう大丈夫かと声をかけてきた。
「今公園のベンチに座ってるの。迎えに来てくれる?」
 少しばかりワガママに振舞っても、祐介相手だと、それが自然の会話のように思えるから不思議だ。すぐ行くよ、という祐介の返事を聞いて、麻里は電話を切った。
「すぐ来てくれるって」
 お腹をさすりながら、わが子に向かって囁きかける。
 彼を、この子の父親にするわけにはいかない。自分の幸せの為に、祐介の幸せまでも奪えない。
 でも、自分にとって大事な祐介という存在を、この子も大事に思ってくれたなら、どれだけ嬉しいだろうと思うと、なんだか胸が満たされて泣けてきた。
 母親なのだから、毅然としなければ。
 そう自分を叱咤し、麻里は顔を上げた。
 その時、公園のずっと向こう、立ち並ぶ木々の影に見慣れた少女の顔を見つけた気がして、思わず口が開いた。
「真中さん……?」
 咄嗟に視線で追いかける。
 制服ではなく、私服に身を包んだ美緒らしき後姿が目に映った。
 だがそれは、尋常でなくなっている精神状態の中で美緒のことを悔いるばかりに、すれ違う少女を美緒だと思い込んだだけに過ぎないのに、それにすら麻里は気付かない。
 麻里は、少女の背を見つめながら、今朝夢に見た光景を思い出していた。
 数日前、放課後の保健室で薫と交わした会話を、今朝夢に見たのだ。
 美緒と薫の仲が上手くいっていないと知り、胸の中に吹き溢れた罪悪感も、鮮明に麻里の中に残っていた。自分という存在が壊したであろう、かけがえのない絆。ずっと美緒に対して後悔を抱いていた。ごめんなさい、としか言えなかったことを悔いていた。
 もしも、彼女が何も知らないのなら、教えてあげなくてはいけない。
 薫が、美緒だけをどれだけ愛していたのかを。
 
 麻里は少女を追いかけようと、無意識に立ち上がった。
 膝の上に置いていたハンドバッグが、地面へと落ちた。
 それが鈍い音を奏でた瞬間――。
「あっ……」
 先ほどまでとは比べ物にならないくらい、痛烈で激しい痛みが下腹部に走る。
 キーンと耳鳴りがし、自分から世界が断絶される。グラグラと視界が揺れ、立っているのもままならない。
 麻里は自分の腹を抱え込み、地面に膝をついた。声を出すどころか、呼吸もできないほどの激しい痛みは、確実に麻里の子宮だけを締め上げ、身に迫る危険を彼女に知らせていた。
 
 助けて、助けて、助けて―――。

 叫びたいのに、声が出ない。
 脳裏に祐介の顔が掠めて、見開いた瞳から涙が溢れた。

 ダメ――!!

 そう思った瞬間、内股に、生暖かいものが流れた。
 必死で引きとめようと麻里は強く腹を抱え込んだが、そんな彼女の意思も虚しく、幸せが零れ落ちるように、激しい痛みを残しながら内股を伝う血液。
 体の中から、大事なものを無理やり引きちぎられる。
 それが何を意味するのか、痛みに気を失いながらも、気丈な母親の意識が気付かせていた。
 何も言葉にならず、痛くて息もできず、大粒の涙がただただ溢れてくる。
 今失っていくものが、自分の全てだと知って――。

「麻里!!」
 遠くから、麻里が倒れこんでいるのを見つけて、走ってくる祐介の姿が視界を過ぎった。
 ただ嬉しかった。
 自分を包んでくれる優しさがそこにあることが。
「麻里! 麻里!!」
 体を包み込む温かさに身を委ねた瞬間、涙が頬を伝うのが分かった。
 伝えたいことは山ほどある。
 でも想いはいつだって空回りして、伝えられなかった想いだけを残して、麻里の大切なものを奪っていく。
 何故、こんなにもこんなにも――。
 
 零れ落ちる全てを掬いきれずに、祈るしかなかった。
 ごめんね――と、心の中で何度も呟きながら。



 その日、麻里は流産した――。
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