華水の月

8.生意気な天使

 泉が教育実習に訪れてから、早一週間。風のように時は過ぎていく。
 残りの一週間で一体誰が泉をモノにするのか? などという話も、チラホラと聞こえてくる。それくらい、泉の人気は日を増すごとに上がっていた。人懐こい性格と、明るい笑顔は、誰にでも好かれ、とりわけ見た目のいい泉は女たちにとっては恰好の餌食だ。
 女子高生たちにしてみれば、年の近い大学生。
 年上の女教師たちにしてみれば、年下の可愛い男の子。
 まんざらでもない素振りを見せるからこそ、皆が泉に夢中になった。実際、どれくらいの女の子が、泉に食われているかは、定かではないが。


「泉、泉って、そんなに泉先生がいいかなあ」
「……どうだろうね」
 携帯画面を見ると、途端頬が緩んでしまいそうになる。何度見ても飽きない。ただの、シンプルな文章に過ぎないのに。
「私は、櫻井の方がいいけどね。つーか、泉先生がいなくなったら、絶対みんな櫻井に戻るんだよ。元々、奴の方が格好いいし。泉先生も充分格好いいけど、櫻井の方が私は好きかな」
「ふーん」
 メールの送り主は、薫。『先生』と表示されてるメール画面には、ただ短い文章。
 ――夕飯すごく美味しかった。ありがとう。次は二人きりで。
 と、あった。
「やっぱ、櫻井にとっては、本命の彼女がいるっていう噂が大きいのかな。それに比べ、泉先生はフリーっぽいもんね」
「さあ……」
 シンプルだからこそ、薫らしい。その短い文章の中には、美緒を幸せにする想いがたくさん詰まっている。
「ちょっと、美緒。私の話ちゃんと聞いてる? さっきからニヤニヤしちゃってさあ!」
 ドン! と机を叩かれて、一瞬驚きに目を丸くした。反射的に、携帯の画面を閉じる。
 あの兄弟の話題で、どんな会話をしろと言うのだ。
 なんて、言えるはずもなく、美緒はえみに向かって苦笑いした。
「ねえ。美緒ってさ、泉先生と知り合いなの?」
「え……な、なんで?」
「なんでって、そんなの言わなくてもわかるでしょうが」
「ま、まあね……」
 昼休み。
 美緒の前の席に座る親友のえみが後ろに椅子を向けて、二人で雑談を楽しんでいた。
 ふと、えみに問われた質問。上手く逃げられる答えを見つけられなくて、美緒は困った顔をした。たぶん、えみ以外の誰しもが聞きたがっているはずの質問だろう。その質問の根源となっているのは、今日一日の泉の態度にあった。所構わず美緒の名を呼ぶのだ。呼ぶだけなら構わない。問題は、その呼び名。それまで、『真中さん』だった呼び名が、堂々と『美緒』と呼び捨てにする。さすがに授業中は、そんなことはなかったが、生徒の往来の激しい休み時間の廊下を、泉は美緒を見つける度に笑顔を振り撒いて構ってきた。
 その時の、周りの好奇な視線……。皆が、一斉に泉と美緒を凝視した。恥ずかしくてたまらないのは美緒だけなのだろう。泉といい、薫といい、この兄弟は根本的に、羞恥心というものが欠けているように思える。
「もしかして、彼女だったりして」
「やめてよ! 全然違うんだから」
「そんなにムキにならなくてもいいじゃん……」
「えみが変なこと言うからでしょ」
「でも、そう思ってるのは私だけじゃないと思うけどな?」
「……たぶんそうだろうね」
 重い溜息が出る。
 昨日といい、今日といい、泉に振り回されっぱなしだった。好きなのか、嫌いなのか、未だによくわからない。話していてすごく楽しいと思う時もあれば、腹が立つほど憎らしい時もあるのだ。周りの人間は皆知らないだろうが、泉の中には天使と悪魔がいるように、美緒は思う。
「たまたまその……家が近所でね。……知り合いと言えば知り合いだし、そうでないと言えばそうでないような?」
「えー。そんな話初めて聞いた。泉先生ん家と近所ってことは、櫻井とも元々知り合いだったってこと?」
「え? それはそのお……」
「はいはい。……何か言えない事情があるんだね」
「べ、別に?」
 アハハ、と苦笑いを零す美緒に、えみは呆れた顔をした。美緒は元々嘘が下手だが、ここまで下手だとバレバレである。いつもなら、穿り返してでも事情を探ろうとするえみだったが、今回ばかりは美緒が本当に都合が悪そうに見えたからか、それ以上の追求はなかった。
 だが美緒は、えみが下手な嘘で見逃してくれるような甘い人間ではないということを忘れていた。
「あ! 泉先生だ!」
「えっ? ……あっ! 痛あ……」
 えみが廊下を指差して、そう呟いた瞬間、美緒がそれを真に受けて咄嗟に机の下にしゃがみ込んだ。その拍子に額を机の角にぶつけ、痛みに顔を歪める。それは、もう反射的とも言っていい動作だった。
「とりあえず、泉先生が美緒の恋人でないことは、よーくわかったよ……。まさかそこまで毛嫌いするとは」
 半ば呆れ顔、半ば楽しんでいるようなえみの物言いに、疑問を抱いて廊下を見やると、そこには泉の姿などどこにもなかった。


 とても長い一日だったように思う。
 授業を受けていても、休み時間を過ごしていても、終始泉のことが頭を離れなかった。いつどこで声をかけられるかわからないと思うと、悪いことをしているわけではないのに、周りの目に対する警戒心が一層強まった。そんな美緒の変化に、周りも気づいているのか、えみのような質問をされることはなかった。だがさすがに今日という日で、一番目立っていた生徒には変わりはないだろう。
「ったく……いい加減にしてほしいよ」
 ハァ……と俯きながら溜息をついた。
 今日何度目の溜息だろう。数え始めればキリがなく、その数が増えるほど泉のことが憎らしく思えて、美緒は考えるのをやめた。
 残り一週間。
 泉にしてみれば、本当にただの一週間だろう。けれど、美緒にしてみれば、その先もずっと学校に居続けなければいけないのだ。そのことを、彼はわかっているのだろうか。根拠のない噂なんてとんでもない。ましてや、この噂を薫がまともに受け取ってしまったら、と思うと、不安が美緒を襲った。まあ、薫がそんなバカではないとわかっていても、それとこれとは別問題なのだ。
 下校の道を一人、トボトボと歩く。
 周りには人一人なく、そよぐ風が気持ちいい。時折、薫の仕事の終わりを待って、二人で帰ることもあるが、それも稀なこと。香月ハルカがいなくなってからは、もっぱら一人で下校することが多くなった。ふと、ハルカは元気にしているだろうか、と胸の中で思う。小さな切なさが火を灯して、美緒の胸をキュッと締め付けた。
 平坦な道をずっと歩いていくと、小さな下りの階段が見える。
 いつも薫に『おまえはどんくさいから、きちんと前を向いて歩け』と言われるせいか、自分の足元には注意するクセがついた。子供扱いする彼には少々抵抗を感じたが、実際よく転ぶので、文句も言えないのだ。
 下りの階段に、一歩足を踏み入れる。
 と、同時に、背後から男の声が美緒を呼び止めた。
「美緒!」
「え……?」
 振り返って、見つけたその姿に驚きを隠せず、階段を下る二歩目に注意を怠った。途端、ぐらつく体。息を呑む間もなく、視界が揺れた。
「キャア!!」
「あ……落ちた……」
 目の前から急にいなくなった美緒の姿に、泉はただ冷静にそう呟いた。


「高校生にもなって、普通階段から落ちるか? ありえねー」
「も、元はと言えば泉くんが急に声をかけるのが悪いんでしょ」
「あ? 自分がどんくさいくせに、原因を人に押し付けんなよな。大体、声をかける時に、『声かけてもいいですか?』なんていちいち確認とるわけねーだろうが」
「そうかもしれないけど。……でも、泉くんが学校であんな態度とってなかったら、呼ばれたくらいじゃ驚かなかったもん……」
「あんな態度?」
「皆の前で、美緒って呼ぶでしょ。あれのせいで、今日一日ビクビクしっぱなしだったんだから」
 ああ、アレね。と泉が小さな声で呟いた。
 階段から落ちた拍子に足を少し挫いた美緒を、泉がおぶって歩く。最初は、歩けるから大丈夫だと拒んでいた美緒だったが、抵抗する彼女を有無を言わさずおぶり、とりあえず近くの公園までという理由を付けて、歩いていた。
 泉の耳元に囁かれる愛らしい声。昨日、泉を睨みつけて憎しみを込めていたあの声色は、もうそこにはなかった。
「だって、美緒は美緒だろ。美緒に美緒って言って何が悪いんだよ」
「私にも苗字はあるの。それに、いちいち用もないのに話し掛けなくてもいいじゃない」
「別にいいじゃんよ、話し掛けたって。おまえって超失礼」
「泉くんに失礼なこと言った覚えなんてないけど」
「俺にじゃなくて、俺に声をかけてもらいたいのに、かけてもらえない女の子たちに失礼だっつったの。美緒のくせに生意気だぞ」
「美緒のくせにって何よ。大体、そういう傲慢なとこ嫌いよ」
「その言葉。そっくりそのまま薫に言っておくよ」
「え? なんで?」
「生憎、俺の傲慢なところは、兄譲りだからね」
 泉が言ったことを、ふと考える。
 薫が泉と同じように傲慢?
 確かに、薫は自信家で強引だが、泉のそれとは違う気がする。きっと、同じ事を言ったとしても、美緒にとっては受け取り方が違うだろう。薫の言葉には、説得力があるのだ。有無を言わさない強さがある。
 だが、泉がそれを言えば、ただ単なる子供の言い訳のようなそんな気がするのは、きっと気のせいではないだろう。それは、泉と薫の間にある、確固たる差だ。
「あ、この辺で下ろして」
 たどり着いた公園の先に、ベンチがあるのが見えて、美緒は泉の耳にそれを告げた。だが、下ろす気配は全くなく、そのベンチへと足を運ぶ。やっと着いたベンチに、直接座らせるように、美緒をそっと下ろした。
 そして、その隣に泉も腰かける。
「ありがとう。ごめんね」
「別にいいよ。これくらいやっとかないと、後で俺のせいで階段から落ちたとか薫にチクられたらやばいし」
 わざと憎まれ口を言う泉。そんな彼に突っかかるでもなく、美緒はフッと小さな笑みを零した。何かを思い出しながら笑ったような、そんな微笑み。泉はチラリと美緒を見ると、問い掛けた。
「何か思い出し笑いしただろ。いやらしい奴」
「え? ……ううん、なんでもない」
「何? 気になるじゃん、言ってよ」
「……ずっと前にね、同じようなことがあったなあと思って」
「階段から落ちること?」
「違うよ。……先生と出会ったばかりの頃にね、足をくじいて先生に抱きかかえられたことがあったなあと思っただけ」
「ふーん」
 薫とのことを、臆することなく誰かに話せるのは初めてかもしれない。
 いつも、秘めておくのが当たり前だった。どんなに嬉しいことでも、それが薫のくれる喜びなら、美緒の中に秘めておくしかなかった。だけれど今、こうして泉に話していると、そんな些細なことさえ余計に幸せに思える気がした。
 思い出が優しくて穏やかに微笑む美緒だったが、それを見ている泉の表情が少しずつ拗ねたように変わっていくのには気付いていなかった。
「なあ、もう歩けそう?」
「んー……痛みはほとんどないし、走ったりしない限りは大丈夫だよ。何で?」
「おまえ、アイス好き?」
「好きだけど……」
「じゃあ決まりな。今からアイス食いに行こう」
「え?! なんで? 行かないよ」
「遠慮すんなって。昨日の夕飯のお礼なんだからさ」
「い、いいよ。いらないってば」
「いいじゃん。ほら、行くぞ」
 無理矢理美緒の腕を掴み立たせると、泉は足早に歩き出した。
 ついさっき、美緒が『走ったりしなければ』と言った台詞は聞いていなかったのか、ニコニコと微笑を浮かべて彼女を連れ出した。


 手に持つコーンの上には、三種類のアイスクリーム。
 隣に立つ泉の手にも、トリプルのアイスクリーム。
 普段なら、一種類で充分足りるはずの美緒が、これを望んで買ったわけではない。全部彼がやっただけのこと。それだけのことなのだが……
「ねえ、私こんなにいらないんだけど」
「別に全部食わなくていいよ。一番上のだけ食っとけ」
「え? じゃあトリプルにする必要なかったんじゃないの?」
「あるよ」
 あたりまえじゃん、とでも言うような泉の顔に、美緒の疑問は深さを増す。
 アイスクリームの店に着いてから、何を注文するか泉に問われた。特に食べたいものがなかった美緒は、とりあえずストロベリーだけ一種類を頼んだつもりだったのだが、何を思ったか、泉はトリプルを二つ注文した。しかも、美緒の分であるアイスクリームには、ストロベリーを一番上にという注文まで付けて。全くわけがわからなかったのだが、泉の言動に、彼が何を思ってこれを注文したのかがわかってくる。
「一番上だけって……どういう意味?」
「下の二種類は俺が食う」
「は?!」
「本当は五段にしようかと思ったんだけどさあ、さすがに五段だと不安定じゃん? だから美緒のアイスに便乗したんだよ」
 ニコニコと嬉しそうな泉だが、自分の言っていることのおかしさがわからないようだった。
 アイスクリーム五段。しかもそれを男が? と思うと、美緒の中の常識をはるかに超えていた。びっくりしすぎて、マジマジと泉を見つめてしまう。
 けれど、泉はそんな美緒の視線などお構いなしに、美味しそうにアイスクリームを頬張っていた。
「五つも食べるの……? アイスクリームを?」
「美味いだろ? 俺、アイスめちゃめちゃ好きなんだよね」
「美味しいけど、普通は食べないよ?」
「でも、俺は食うの。それ、一番上の食ったらちょうだい」
「イヤ。食べかけなんてあげたくない」
「大丈夫。美緒のだったら、そういうの気にしないから」
「私が気にするの。泉くんにあげるくらいなら、私が食べる」
 本当は、三つもいらない。
 だけれど、自分の残りを泉にあげるのはどうしても躊躇った。薫にあげるのならまだしも、泉に自分の残りを食べられるなど、恥ずかしくてたまらないのだ。
 ――間接キス。
 そんなことが、脳裏をよぎった。
「その下の二段俺のだろうが。取るなよバカ女」
「ば、バカ女?! 何よ、自分が勝手に私のアイスに乗せたくせに」
「奢ってもらったくせに文句言うな」
「昨日のお礼って言ったの泉君でしょ」
「どうせ、間接キスだとか思ってんだろ。俺も薫も一緒みたいなもんじゃんか。気にするなよ」
「一緒じゃない。先生と一緒にしないで」
 フン、とそっぽを向いた時、店の奥からこっちを見る視線に気づいた。大学生かと思われる女性。パッと見、とても鮮やかな、派手な感じの女性だった。後ろから、まだ美緒にちょっかいを出してくる泉は、彼女の視線には気づいていない。だけれど、美緒が見る限り、彼女の視線は、泉に向いているように思えた。
 近付いてくる姿。彼女は、すたすたと美緒と泉の元まで歩いてくると、泉に向かって話し掛けた。
「泉? ……泉じゃん。何してんの? こんなとこで」
「エリカ……」
「この子、泉の彼女?」
 そう言って、美緒を見据えた眼差しは、敵対心剥き出しの視線だった。
 突き刺すようなその目に、さっき挫いた足首がズキズキと痛んだ。

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